あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

インド紀行 188 ランチボックス・ダッパー

2017-06-04 | インド紀行

 

当ブログ インド紀行第58回
「ランチボックス(2015/12/31)
で触れたが

このランチボックス「ダッパー」を題材にした
インド映画「めぐり逢わせのお弁当」
(2013年印・仏・独の合作)が

この8月に公開されるそうだ。

既に66回カンヌ国際映画で
国際批評家週間観客賞を受賞している。

 

   (資料から)→予告編(You Tube)



インド映画というと “歌って踊る” が
 主な流れだが そんな場面がなく

主人公の一人 サリーマンの夫と幼い1人娘と暮らす
30代の主婦 イラは 仕事ばかりで家庭を顧みない
夫との関係を修復するために
心を込めて弁当を作るが
”ダッパーワーラー” と呼ばれる弁当配達が間違って
もう一人の主人 公早期退職を間近に控えた
気難しい初老の男 サージャンに届けてしまう。


これをきっかけに イラとサージャンは
弁当を通じて文通をするようになり

次第に イラは夫や家族の悩みをサージャンに
打ち明けるようになっていく・・・・。


という小津映画にでてきそうな
ストーリーのようだが 
公開されたら 見てみよう・・・。

 


インド紀行 187 帰国

2016-05-09 | インド紀行

  

どうやら お腹の調子も その後 何もなく 

ツアー 6日目の朝が明けた。

窓越しに 第1日の往路で見た

富士山が また迎えてくれている。
   

 

740便は 偏西風にのり デリーを経って 8時間30分

予定どおり 無事に 6:50分 成田空港に到着した。

 今回のツアー 実質5日間 インドの地図で見れば

ほんの指先程の範囲だけしかならない。

そんな中 国土の広さ 人の多さと

そして 階級制度の一端を見た。

また インドの世界遺産は32か所

 そのうち今回8か所を訪れたが

インドは 一度行けば “ハマル” といわれる。

そうかもしれないが 今の段階では 

毎日カレーで 少々食傷気味 

加えて 最後のゴタゴタや 下痢の件があるので

もうしばらく 時間を経てから 考えてみようと思う。

 

このブログ「インド紀行」も 187回にもなった 

最後まで ご覧いただき ありがとうございます。

        
 
お疲れ様でした!

 

 


インド紀行 186 下痢?

2016-05-08 | インド紀行

 

ここで 尾籠な話題で 失礼します。

夕食である 機内食を 食べて しばらくして

突然 おなかの調子が 狂いだし 

椅子に座っていられない 幸い最後尾であるので


隙間に体を横たえるが もう我慢ならない トイレへ


“下痢“ だ 

今まで食べたカレーが そのままだ・・・・

結果 少々落ち着いてきた。

インドに旅したら 必ず “下痢の洗礼” を受けるという。

正に そのとおりになってしまった。

原因を考えるが 生水は飲んでいないし 

もしかすると 今日の昼食で フルーツを食べたがそれか?

しかし 必ずしも 菌が入らなくても

下痢することがあるという。

料理に大量の油とスパイスが含まれているため

お腹がびっくりする場合とか。

また インドのカレーには 日本のカレーでは

使わない香辛料が多く含まれており


刺激で胃が疲れているにもかかわらず食べすぎ。


そして 忙しい観光で疲れて睡眠不足なども考えられると。


そうか 先ほどの搭乗のゴタゴタが

 その切っ掛けになったのかもしれない・・・・

 

 




 


インド紀行 185 離陸

2016-05-07 | インド紀行

 

 

搭乗機は JAL740便 

既に 乗客は着席済み 

その中 息を弾ませ エコノミークラスの席へ

当方の席は 最後尾 55のAとBの座席に腰を下ろす。

受付から たった30分で 着席することができた。

  

 

搭乗機は 既にアイドリング中で 
 
我々が着席すると ドアが閉められ

ボーディングブリッジが外され

 滑走路へと向かう。

 

 


インド紀行 184 出国手続

2016-05-06 | インド紀行

 

空港に着く前 ガイドから

「搭乗時間が迫っていますので 

急がせて大変申し訳ありませんが

 
受付ではスタッフがスタンバイしておりますので

 
指示に従って行動してください。」

  ということで 

降車後 パスポートとEチケットを片手に

トランクを引っ張ってカウンターへ

  

 


 出国審査など手続き後

 トランクはなくなって


空港内を 搭乗口まで 走る!走る!

 

 

途中 空港職員から 声を掛けられて
 
カートに乗車することができ ホットするが

何が何だか 考える暇もなく 

ベルトコンベーアに 乗っているような気分だ。

 間もなく 07ゲートに到着する。

 

 


インド紀行 183 女性警察官

2016-05-05 | インド紀行

                 渋滞を抜けられず 時間だけが過ぎてゆく 

前回 警察について触れた。 

そこで インドの警察事情を調べると

インドの治安の悪さの原因は 

世界第二位の膨大な人口と


地域ごとに大きく異る民族と

言語の存在があるようだ。



さらに調べると 

女性への差別意識が残るインド社会の中で


キラン・ベディ」という

女性幹部警察官がいたことを知る。

1994年 アジアのノーベル賞とも

言われている「マグサイサイ賞」を受賞している。

彼女の名言に

 ”人生は坂道 上るか もしくは転がり落ちるかだ”

さて 当方の人生の道は如何に・・・

 

 


インド紀行 182 警察署

2016-05-04 | インド紀行

  Police Station Chanakyapuri  チャナキャプリ警察署

 

ツアーバスは 

オールドデリーから ニューデリーと向かうが 


あのエンジントラブルの時間が

丁度 退社時にずれ込み 交通渋滞にはまって 

なかなか前に進まない。

刻々時間が経っていく

ガイドは 頻繁に会社に電話を入れ

渋滞を避ける道を探って
走るが

我々には 今何処を走っているのかは分からない。

その途中「チャナキャプリ警察署」を見て

できれば VIPなみに空港まで

“パトカー”が 先導してくれたらなあ~

などと 馬鹿なことを思う。

待てよ! かつてセルビア・ベオグラードで

宿泊所までパトカーの先導を

受けたことを思い起こす。

   (東欧旅行223 VIP

 


インド紀行 181 レッド・フォート 2

2016-05-03 | インド紀行

 

 

リングロード東側を走るツアーバスから 

レッド・フォード(ラール・キラー)の一端
 
白大理石の宮殿等が覗けた。

 赤岩石の城壁から威風堂々とした固古な城に見えるが

城内の建物は 白大理石で造られて


その白亜が 絢爛豪華と気品が引き立ているという。


右側の建物は 皇帝が貴賓謁見を行っていた

内謁殿「ディワーニ・カース」


当時 中央の王座には サファイアやルビーなどの


宝石がちりばめられていたそうだ。

また 壁には「もし地上に楽園があるなら

それはここである」と刻まれているとか。

 左は 皇帝が暮らしていた

私室「カース・マハル」で 


寝室や個人礼拝の間などがある。

 




インド紀行 180 レッド・フォート

2016-05-02 | インド紀行



オールドデリーにある

世界遺産「レッド・フォート」は 
車窓からの見学になっている。

写真は 33mにも及ぶ ラホール門だが
場内からみて西側にあり ラホール(現パキスタン)
へと続く道が この門からはじまっているのでこう呼ばれる。

 タージ・マハルを築いた 
ムガール帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが

アグラーから 遷都し この地に
自らの居城として つくった居城で

周囲約2kmの不規則な 八角形を形成している。

また 赤砂岩の城壁と門を持つことから

別名「ラール(赤い)キラー(城)」とも呼ばれている。

1639年に建設を始め 9年の歳月をかけて完成している。

しかし 1857年「インド大反乱」(セポイの反乱)で
略奪を受け
また イギリス軍は駐屯地として
兵舎を建設するなどしたため

城内は 大きく作り変えられ インドの独立後も
軍の施設として 使用されており
現在も デリー門周辺と北西部には 軍の施設があり立ち入れない。

2007年 隣接する「サリームガル城」と合わせて

「赤い城の建造物群」として世界遺産に登録されている。

下の写真は 東隣りにあるサリームガル城と結ぶ陸橋。

 

 

 


インド紀行 179 オールドデリー

2016-05-01 | インド紀行

 

 

混雑する オールドデリー駅への入り口に差し掛かる。

ここでオールドデリーは ニューデリー駅の東隣り

ガンジス川の支流ヤムナー川沿いに拓けた地にある。


ムガル帝国の後期の首都だった地域で 

1638年に造営された城壁に囲まれており 


南門は デリー門 西門は アジュメル門

北門は カシミール門と呼ばれて 

7つのアーチ門がある。


市内は狭い通りや路地が交錯し

その中には バザールやインド最大のモスクである


ジャーマー・マスジドなど 

歴史的建造物が多く建ち並んでいる。


車窓から見る町は 下町的で

雑然として 人と車で大混雑だ。

下の写真は 城壁脇のリングロード 正面に鉄橋が架かる。

ラージャスターン方面への 列車が行き来している。

 


インド紀行 178 マハトマ・ガンジー

2016-04-30 | インド紀行

 

                 「RAJGHAT」(ラージガート)の案内板

前回 ガンジーに触れたので その話題を

 我々は インドの有名な人物といえば
「マハトマ・ガンジー」の名が思い浮かぶ。


その「マハトマ」は「偉大な魂」の意味。

 ガンジーは 敬虔なヒンズー教徒だが
イスラム教徒とも分け隔てなく
関わっていたことで

ヒンズー原理主義者達の怒りを買い
1948年1月 暗殺されてしまった。


火葬された遺灰は ガンジス河をはじめとする
各地の川に流されたそうだ。


非暴力の考えは インドだけではなく
世界の人々から尊敬を集め 影響を与えた。


アメリカの公民権運動の
マーティン・ルーサー・キング牧師にも
影響を与えている。

暴力で問題を解決する世にあって
「非暴力」という手段を通して

インドが独立できたことは
当時の植民地時代には大きな希望と原動力にもなった。


しかし マハトマ・ガンジーは
産業の機械化・工業化には反対していたこともあり
今のインドにあって
工業化・産業化を推し進める中では
あまり評価されていないようだ。 


時代は 移り変わっていくことが 良くわかる。

 


インド紀行 177 ラージ・ガート

2016-04-29 | インド紀行

 

ツアーバスは 何とか走り出したが 

またいつ ”エンスト” するのではと思いつつ ・・・

ガイドが「右手が マハトマ・ガンジーが

暗殺され 埋葬された場所
「ラージ・ガート」で

 現在は 公園になっており 

近くに ガンジー記念館があります。」

と説明してくれた。

下車しての見学はないが 

ガンジーは「インド独立の父」と

呼ばれていることを 思い起こす。

 

 


インド紀行 176 アクシデント!

2016-04-28 | インド紀行

 

 

フマユーン廟の見学を終え 

ツアーバスは オールドデリーに向かって


マトゥラー通りを 北上する。

ここでア クシデント発生“!

ツアーバスが エンストしてしまった。


これまで順調に走ってきたのに 土壇場でのトラブルだ。

ここで トラブっては 先ず 頭に浮かんだのは 

帰国への飛行機の時間に間に合うのか?

インディラ空港まで 
代車 地下鉄・・・

どのようにして移動するのか? など考えるが 


そんなことは ガイドが考えることで 

当方があれやこれやと 考えても どうにもならない。


ということで マナ板の鯉を決め込む。

ガイドは 焦ってツアー会社に電話している。

運転手は エンジンスタータを何度か試みるが 

そのうち床板を はがしてエンジン回りを点検している。

そんな中 突然エンジンがかかった。 

ツアー客全員 安堵し 歓喜の拍手だ。

故障内容は よくわからないが とにかく走り出したのだ。

しかし このトラブルのツケが 後ほどまわってくる。

 

 


インド紀行 175 廟の対比

2016-04-27 | インド紀行


  
ここで
  「フマユーン廟」と「タージ・マハル」との
    違いを整理してみた。
   

 

フマユーン廟

タージ・マハル

所在地

デリー

アグラー

建築年・年数

1565年 9年

1648年 22年

建築主・埋葬者

第二代皇帝フマユーンの
 王妃がフマユーン王のため

第5代皇帝シャー・シャハーンが王妃のため

廟の位置

4分庭園の中央

ヤムナー川を背にして
 4分の庭園を前面に

基壇と廟

95m / 48m

93m / 57mの八角形

主な素材

白大理石と赤砂岩

大理石

 装飾

ほとんどない・簡素

あり・緻密で豪華

地上高(ドームまで)

45m

72m

ミナレット

 なし

4柱(42m)

庭園

10ha

17ha

参考

タージ・マハルの手本

フマユーンを手本に

世界遺産登録年

1993年

1983年

 

 

 


インド紀行 174 帝国の終焉

2016-04-26 | インド紀行

                                

 

フマユーン廟の内部は意外と簡素で
 
この透かし彫りの窓から差し込む光が


この静寂と相まって 何故か特別な印象を感じる。


この窓 インドの職人の技術力を物語るものといわれ

繊細に見えるが 厚さが3㎝から5㎝くらいあって

結構頑丈にできているそうだ。

ところで フマユーン廟は

ムガール帝国の終焉の場でもあった。

19世紀前半には ムガル帝国は衰退し

その領土のほとんどを失っていた。


1857年 イギリス東インド会社の

インド人傭兵=セポイが蜂起して


イギリスと対立(セポイの反乱)した。


これにインド民衆が呼応して

ムガル皇帝バハドゥル・シャー2世を担ぎ上げ


ムガル帝国による再支配を企てる。


しかし イギリス軍はこれを武力で鎮圧し

フマユーン廟に隠れていた皇帝を発見して捕縛する。


翌1858年に皇帝位は廃位され ムガル帝国は滅亡。


代わって 英国国王を掲げる

イギリス領インド帝国が誕生する。


これよりインドはイギリスによる

植民地時代を迎えることに。