粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

芥川賞女流作家の苦悩

2011-10-13 00:08:33 | 煽り週刊誌

金原ひとみといえば3年前に「蛇にピアス」で芥川賞を受賞した女流作家として知られる。彼女の作品を読んだ事も映画化されたものも見た事はない。知る限りでは作品の主人公が舌にピアスをしたり背中に入れ墨をしたりすることに興味を持つ、ちょっと危ない現代風の女性だということ。これは当然彼女自身を反映していると感じていた。

しかしアエラ今週号に掲載された彼女の手記は、そんな作中のドライな感覚は微塵もみられず、二人の幼い娘の放射能汚染を案ずるひとりのそれも過敏な主婦にしかみえない。原発事故の時に妊娠中で影響を心配する夫の勧めで東京から夫の地元の岡山に「疎開」し、無事に次女を出産した。しかし岡山にいても「放射能からの恐怖」からは逃れられず、逆にますばかりのようだ。手記にはこう綴られている。

乳中のため内部被曝には特に気をつけている。肉と魚は輸入品。野菜は岡山以西のものを選ぶ。パンや飲み物、粉ミルク、おやつは外国産のものをインターネットで購入。保育園には弁当と出納とおやつを持参する。外食はほとんどしていない。

『安全だ」というニュースを見ていると本当に安全な気がしてしまうし、どんどん考える力が萎えていってしまう。ネット上でも必要な情報が得にくくなったきたと感じてからは、海外のニュースを見るようになりました。心が折れそうになるたびに、ユーチューブでチェルノブイリ爆発事故関連の動画や、児玉龍彦さんや小出裕章さんの講義を見ています。

私自身、ときどき人の言動を自分の基準で見てしまうことがある。特に若い主婦の放射能恐怖にはしばしば首を傾げてしまう。しかし本人にとっては目の前の幼子をみれば、なんとかこの児を放射能から守りたいと思うのは本来の母性であってけっして他人が云々すべきものではないと自戒している。

しかしこの女流作家のコメントには、それでも疑問を覚えずにはいられない。岡山へ疎開してなおもこれだけ心配する必要があるのか。安全であると思うことが「気持ちが萎える」ことなのか。彼女はむしろ物事を悪く考えることで心の拠り所をみつけようとしている。そしてついにはあの児玉教授や小出助教など特定の立ち位置の人々だけの声に耳を傾けてしまう。

それでも一度は東京に帰ってみたこともあるようだ。しかし、普通の母親の鈍感さに絶えきれず疎外感を感じて2週間で岡山に戻ってきてしまう。

雨の日に抱っこひもに次女を入れ、長女に「絶対に傘から出ないで」とがみがみ言いながらタクシーまで急ぐ道を、他の親子が傘もささずにワーと走り抜けていくのを見た瞬間、「なんか無理かも」と思いました。

岡山に戻って大分落ち着いたようだが、それでも「放射能の影響は何十年つづくかわからない」と不安は消えない。「もっと西にいくことも、海外に行くことも検討しています」ということだ。

しかし彼女が海外に移って果たして心の平安を得ることができるだろうか。話に聞けば日本よりも通常時放射線量が高いところのは多いようだ。不安は絶えないだろう。

ずいぶん前のある日、ものすごい悪夢を見て、ゼイゼイいいながら跳び起きたんです。自分の手違いで汚染されたものを食べさせて、子供が被曝させてしまった。どうしようという夢。ああこれが私の生きている世界で、もう後戻りできないんだと実感しました。

悪夢にまでみる放射能汚染、自分が子供たちへの汚染を防げなかったという自責の念が消えないようだ。ここまで手記を読むともはや、単なる放射能アレルギーを超えて、精神的病理の世界へ踏み込んだとしかいいようがない。


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