粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

朝日新聞原発報道、第2の敗北

2014-11-28 21:16:48 | 反原発反日メディア

吉田調書を巡る朝日新聞の誤報問題で朝日は6人の記者の処分を決めたという。その困惑も収まらない中、朝日新聞に新たな衝撃が走った。吉田調書報道に続く第2の原発誤報事件といってよい。朝日が誤報であることを(朝日のことは全く言及していないが念頭にあることは確かだ)を報じたのは、またしても「宿敵」産経新聞である。

「がれき撤去でコメ汚染されず 昨夏の福島第1原発、規制委が実測値報告」(産経新聞11月26日)

東京電力福島第1原発で昨年8月に実施したがれき撤去作業で飛散した放射性物質が、20キロ以上離れた水田を汚染したとされる問題で、原子力規制委員会は26日、放射性物質の降下量の数値結果から、がれき撤去による汚染ではないと結論付けた。

これは今年7月朝日新聞が報じた「スクープ記事」を意識し完全否定するものだ。

「がれき撤去で飛散、コメ汚染 福島第一の20キロ先」(朝日新聞7月14日)

東京電力福島第一原発で昨夏に実施した大規模ながれき撤去作業で放射性物質が飛散して、20キロ以上離れた福島県南相馬市の水田を汚染した可能性を農林水産省が指摘し、東電に防止策を要請していたことが分かった。福島県は「他の要因は考えられず、がれき撤去の可能性が限りなく高い」としている。東電は要請を受けて撤去作業を凍結してきたが、広範囲に飛散した可能性を公表しないまま近く再開しようとしている。

 

要するに、昨年夏、原発内のがれき撤去作業による放射性物質飛来と南相馬市の米汚染とは因果関係はなく東電は「白」だったのである。しかし、朝日は限りなく「黒」であるがことく報じている。

ただ、直接的に誤判断したのは農林水産省であって、朝日が一方的に誤報を流したということではない。しかし記事に「東電は要請を受けて撤去作業を凍結してきたが、広範囲に飛散した可能性を公表しないまま近く再開しようとしている。」とある通り、朝日はこの問題を東電批判の口実としている。

実際、南相馬の「米汚染」は世間では朝日の報道によって知るところとなった。この報道によって多くの国民は原発事故はいまだ深刻で収拾にはほど遠いといった印象をもったはずだ。

それが事実誤認となれば、朝日の報道は一体なんだったのかという疑惑が深まるばかりだ。農水省の判断を鵜呑みにして朝日お得意の東電批判のキャンペーンをはるばかりか、福島の復興を冷淡視してまるでいつまでも福島が危険でなければならないという悪意さえ感じてしまう。

この記事を報じたのが「手抜き除染」報道で名を馳せた青木美希記者であった。こちらの問題も自分のブログで紹介したように、極めてやらせに近く強引ともいえる取材によるもので、その信憑性に疑問がもたれている。

青木記者は吉田調書報道で信用失墜した朝日新聞のなかにあって今では「花形記者」の筆頭のような存在だ。彼女は元々は北海道のローカル紙の出身であるが、その実力から北海道新聞に抜擢され、さらには朝日新聞へと転身している。朝日でも原発報道でスクープを連発してまさに飛ぶ鳥を落とす勢いといったところだ。しかし、吉田調書報道の木村英昭記者同様、反原発の朝日でも「尖っている」(原理主義)ように見える。

その危うさが今回の誤報で露呈しつつある。あの吉田調書スクープ記者が栄光から転げ落ちたように…。

 

1票の格差、「是正」が法の下の不平等を生む?

2014-11-27 21:47:38 | 国内政治

裁判所で1票の格差の問題で判決が出る度にいつも疑問に思う。本当に1票が「軽い」地域の住民がこれを不満に思っているのか。今回は昨年行なわれた参議院選挙に対して「憲法違反」だと最高裁が判決を下したが、衆議院選挙でも同様の訴訟が繰り返される。

衆参とも一般的には都市部での1票が地方の過疎地域と比べて「軽い」ということが問題になるが、今まで都市部の有権者がその是正を求めてデモ行進したり、署名活動したという話を聞いたことがない。原発問題や特定秘密保護法ではあれほど「市民団体」が太鼓を叩き、金を打ち鳴らして官邸前を「ハンタイ」と叫んで騒がしく練り歩いているのに。

1票の格差で訴訟を起こすのは特定の弁護士集団だ。正直いってこうしたグループの得体がしれない。反原発団体とは違うし、特に市民団体としての組織性も見られない。極論でいうと1票の格差問題を「趣味」で行なっているとしか見えない。あるいは「1票格差オタク」といってもよいかもしれない。全く庶民感覚とは遊離しているように思われる。彼らが本当に1票の格差を心から憤り、国民に訴えているという緊迫感がまるで伝わってこない。

自分からすれば、1票の格差で本音で最も怒っているのは過疎が進む地方の住民ではないかと思う。今回の参議院選挙の判決では北海道が鳥取と比べて選挙区で4.77倍の格差があるということが問題になっている。過疎の北海道の票が「軽い」というのも奇妙だが、これは過去の定数是正で当初定数が4人であったものが、人口比の関係で逆に削られて2人になってしまった関係だ。面積で東京都の38倍もあるのに選挙区では定数6人の東京と比べて逆に3分の1でしかない。あんな広大な選挙区でたった2人しか当選しないという現実には不条理を感じないわけにはいかない。

あるいは、新たに参議院の区割りを都道府県単位の原則を外れて島根と鳥取を一つの選挙区とする構想が持ち上がっている。しかし、これなど地方切り捨ての最たるもので両県は心の底から怒っているはずだ。まして数の政治が重視される衆議院ならともかく、良識の府参議院においてではなおさらである。

こうした過疎地を軽視する選挙制度ではますます地方の議員が減らされ、地元の声が反映されなくなって、政治が都会の意向優先で進んでいく。これでは安部内閣が推進していう地方再生はとても望めない。メディアが盛んに法の下の平等の原則を唱え「格差是正が急務」だと大合唱している。しかし、建前では同意しても現実問題として強い疑念を覚えずにはいられない。


原発政策、脛かじり息子と即戦力のプロ職人

2014-11-26 20:33:21 | エネルギー政策

来月2日公示の衆議院選挙に向けて、各党が政権公約を打ち出しているが、原発政策では与野党で再稼動を巡って判断が明確に分かれている。自民党、公明党、次世代の党が安全性を確保した上で再稼動は認める。維新の党、共産党、社民党、生活の党は最初から認めない。民主党はまず避難計画を厳格にした上で判断すべきという条件付きだ。

次世代の党以外のほとんどの野党が再稼動を認めず「脱原発をめざすべき」だとは声高に主張している。しかし、考えてみれば、民主党政権時代に原発はストップしてすでに「脱原発」は実現しているのだ。昨年7月から新しい安全基準の下、審査が行なわれているが1年経って九州の川内原発2機がやっと再稼動にこぎつける段階に入った状況に過ぎない。

規制庁は安全審査をもっと効率化してスピードアップを計るようだが、1年でせいぜい2原発計4機程度しか再稼動は進まないだろう。つまり福島の原発事故以前の稼働率にもどるのは最低でも10年は掛かってしまう。現在原発に変わって天然ガス、石油、石炭といった火力発電が日本の総電力の9割を占め、残り1割が再生可能エネルギーである。ただし、そのうち大半が既存の水力発電であり、太陽光や風力発電は全体の2.2%程度にしか過ぎない。原発も動かさないで化石燃料の比率を下げたいのならどうしてもひたすら再生可能エネルギーの発電を増やすしかない。

しかし、太陽光や風力発電が全く不安定な電源であり、それを補完するためには火力発電の助けが必要だ。例えていえば、学校を卒業して社会人として即戦力になって欲しいのに、いつまでの親の脛をかじる自立のできない新成人のような存在である。そんな出来の悪い?息子に日本の将来を任せるわけにはいかない。いつまでも火力の「脛」をかじって甘やかすほど、日本という家庭は裕福ではない。

やはり、仲間の一人が偶々事故ってしまったものの、即戦力のプロ職人の存在=原発は必要不可欠である。確かに原発事故での影響は大きかったが、現在見るところ事故は津波による電源喪失という極めて明確な原因であるようだ。同じ東北でも福島第二原発や女川原発は津波での被害はなくほぼ無傷であったことを考えれば、自分には今の日本にとって原発即危険と決めつけるのは短絡的過ぎると思う。

したがって再稼動はともかく反対というのはあまりにも情緒的であり、こうした絶対阻止を唱える政党は現実性を欠いて世論に迎合するだけで無責任としかいいようがない。誰かこれに反論したいのなら、再生可能エンルギーが「安定電源」に直ぐになりうることを証明して欲しいと言いたくなる。


高倉健という生き方

2014-11-24 13:36:58 | 一般

久しぶりに高倉健の映画を昨夜テレビの追悼番組で見た。最後の主演作「あなたへ」、映画の最初から最後までまさに高倉健の映画といってよかった。語り口、沈黙の表情から何気ない仕草まで高倉健そのものであり、どのカットも絵になる。それこそどの顔もブロマイドになる。まさに究極の映画スターであることを実感した。そんな俳優は自分の知る限りでは他にオードリー・ヘプバーンぐらいだ。

他の共演者は高倉健という太陽の光を受けて輝く惑星のように見えた。ビートたけし、佐藤浩市、綾瀬はるか…それぞれの演技は冴えていたが、高倉健がいればこその輝きである。おそらく、高倉健以外の俳優が主演であったら、彼らはこれほどの演技ができたのだろうかと思う。

孤高、ストイック、真面目、不器用、寡黙、高倉健には堅いイメージが強いが、反面人には気を使い暖かい人物といわれている。まさに日本男児の理想ともいえる。三田佳子が彼を富士山のような存在と語っていたが確かにこれに尽きるだろう。

高倉健について書こうとしたが、どうもこんな凡庸な内容になってしまったのでこれくらいにしておく。ただ男の理想の生き方として高倉健は自分自身の脳裏からは死ぬまで離れることはないだろう。厳しいが内に秘めた優しとともに。


元気の出る交響曲

2014-11-22 18:53:11 | 音楽

今週から午前中清掃のアルバイトをしている。本業の広告業がイマイチぱっとしない状況なので致し方ない。朝4時間だけの仕事だが、起きるのは6時なのでこれまでルーズな生活を続けてきた自分にとって難儀この上ない。しかし、途中電車をはさんで30分は歩くので、ここは健康促進ためにと割り切ったいくしかない。

ただ、先週までとは生活スタイルが大幅に変わったのでなかなかリズムに乗れない。これまで日常的に書いてきたブログも滞りがちだ。今後若干ブログのペースが緩くなるかもしれない。(あるいは従来と変わらないかもしれない?)

それはともかくこの一週間慣れない仕事をした関係で終わったらどっと疲れが出てきた。おまけに、またまテレビを見ていたら、地元サッカーチームで贔屓の浦和レッズが今シーズンのリーグ優勝がかかっていた試合で完敗して、一層疲労が増してしまった。冴えない週末になりそうな嫌な予感がする。音楽でも元気になる曲をないものか。

モーツアルト作曲、交響曲35番K.386「ハフナー」。この曲は最後の4楽章まで、明るく快活でリズミカルだ。そして両端の1楽章と4楽章(動画19分50杪辺り)は、圧倒的な力強い曲調で高揚感に溢れている。行進曲風の乗りのよいリズムで思わず小躍りしたくなる。

モーツアルトの交響曲は41番まであるが、出生地のザルツブルグからウィーンに移って独立した音楽活動を始めて最初に作曲されたのがこの35番だ。この35番以降が彼にとっての主要な交響曲といってよい。モーツアルトの交響曲はほとんど長調で明るい曲が多いが、この35番はその最たるもので独立した音楽家として人気を博している幸せな時代の雰囲気を反映している。

ただ、この曲は元気過ぎるというわけでもない。中間楽章は優雅でゆっくりした部分もあり、交響曲としても深みが伴っており、充実した作品になっている。だから、全体では25分前後の演奏時間になってしまうが、週末なら少し気持ちに余裕を持って聞き流すのも楽しい。といってもモーツアルト以降の作曲家の交響曲はその倍の長さであり、1時間に及ぶものも少なくない。こんな長時間の交響曲では聴く前にある程度の気構えが必要だ。しかし、その点モーツアルトの場合は気軽な気分でイージーリスニングを聴くような心持ちですうっと入っていけるのが魅力だ。ただ交響曲としての芸術性はやはり天才作曲家の名に恥じない作品であり、繰り返し聴くほどその味わいは濃く深くなっていく。