abyman の折り紙と日記

折り紙、本、旅の日記

折り紙と怒る日記

2017-10-31 14:48:43 | 日記
20歳のころ、怒って威張ってばかりいる人がいた。
ぼくは9歳上の先輩に、
「あの人は何でしょっ中怒ってんですかね?」
と訊いた。
先輩は、
「さあ、奴は怒りたいんだと思うよ。きっと心の中に痼りみたいなもんが
あるんじゃないか?」
先輩は興味ないように呟いた。
ぼくは納得いかないように先輩を見つめた。
先輩は、
「人って怒らない自由もあるんじゃないかな?そういう選択する瞬間って
多いじゃないか?」
ぼくは目を開いて先輩を見た。
「例えば電車に乗って年寄りに席を譲る自由も席を譲らない自由もある。
だから何かに怒る自由も怒らない自由もあるんだと思う」
ぼくは俯いてしまう。
「先輩、先輩はどんな自由が最高だと思いますか?」
先輩はぼくに笑顔を向け、
「人って神社仏閣に行って、神様仏様に何かが欲しいってお願いする自由があるじゃ
ない。でも俺は、神様仏様よ、あんたは何が欲しいんだいって言う。
そういう自由でありたいと思うよ」
ぼくはまた俯いてしまう。
「しょっ中怒っている奴は肝心な時に怒れなくなる。
怒らない自由を選択した奴は肝心な時に怒れる奴さ。自由って不自由と裏表の
関係としてあるんじゃないかな?」
先輩は遠くを見つめていた。

折り紙と笑うことの日記

2017-10-31 14:12:15 | 日記
25歳の時、初めて営業マンになった。
その時専務だった上司に、
「営業マンは自然な笑顔ができなきゃな!不自然な笑顔は客に見破られる。
自然に笑顔になるように毎日練習しなさい!」
と言われた。
どこまでも素直なぼくは、毎日朝と寝る前、鏡に向かって、
「おはようございます。こんばんは」
と言いながら笑顔の練習をした。
でも不自然な笑顔の自分がいる。

目から笑う練習をする。
口元から笑う練習をする。
頬から笑う練習をする。
目を見開いて笑う。
目を細めて笑う。
口角を上げて笑う。
口角を下げて笑う。
口元を上げて頬を上に上げて笑う。
口元を突き出して頬を緊張させて笑う。
腹を掲げて笑う。
大声で笑う。
泣きながら笑う。
口元だけで微笑む。
目だけで微笑む。

C女史が、
「あんた何やってんの?バカじゃない。夜中に大声上げて笑って」
と言った。
笑う練習を始めて3ヶ月が経っていた。
ぼくもいい加減笑う練習にゲンナリしていた。
いくら鏡を見ても不自然な自分の笑顔がそこにいた。
「止めるわ」
と言った。

それから半年が過ぎたころ、専務に、
「お前、最高の笑顔になったな!」
と言われた。

今ぼくは微笑む練習をしている。

折り紙と信用信頼の日記

2017-10-29 20:41:03 | 日記
昔、20歳の頃、信用と信頼の違いを先輩に訊いたことがある。
先輩は、
「信用っていうのは、その人を信じてお金や物を用立てることで、
信頼っていうのは、その人の未来を信じて、一緒に何かをするか、
また、友情とか尊敬するとかってことなんじゃないかな?」
先輩は笑ってぼくを見た。そして、
「カツ、お前は俺を信用するか?それとも信頼するか?」
と言った。
ぼくは沈黙して俯いてしまう。
そして随分経ってから先輩を見た。
そして、
「俺は先輩のことを信用もしないし、信頼もしないと思う?」
と言った。
先輩はぼくの肩を叩き、大笑いした。
「そうだよな!俺もお前も今を生きている。信用とか信頼って言葉が
嘘くさいってことを知っている」
ぼくは先輩の顔を見つめた。そして、
「そしたら、何を信じればいいんですかね?」
と訊いた。
ぼくの言葉は小さなものだったと思う。
「バカ、自分を信じればいいんだよ。自分を信用し信頼することさ」
ぼくはハッとなった。

今日、利用者のおばあちゃんに、
「あなたは結構財産を持ってるんでしょう?」
と言われた。
ぼくは笑って、
「あ〜、金銭的なことだったら、財産は一銭も無いんですけど、
借金も一銭も無いんですよ」
と言った。
おばあちゃんは、
「それって素敵なことじゃない」
と言った。
ぼくは、おばあちゃんの手を取って、
「でもぼくには、あなたという財産がありますから?」
おばあちゃんは、笑いながらぼくの顔を見つめて、
「あなたって本当に口先三寸なんだから!」
「そうですか?」
ぼくも笑ってしまう。
「でもそういうあなたを信頼してるわよ!」

ぼくは信頼されているらしい。

折り紙とカマキリの日記

2017-10-28 18:56:41 | 日記
施設の喫煙コーナーは外にある。
雨降りの日は、傘をさしてタバコを吸う。
寒さと風と雨の中、
「それでもタバコを吸いたいわけ?」
とタバコを吸わない同僚に言われる。
タバコを吸うのも命がけなのだ。

先日、やっと晴れた。
喫煙コーナーに行った。
鉄パイプに座って煙を吐き出した。
ふと見ると鉄骨階段の下に一匹のカマキリがいた
薄緑の小さなカマキリ。
ひょっとして生まれたばかりなのかもしれない?

カマキリは幸運を呼ぶ予兆だという。
一生懸命階段を登ろうとするカマキリが愛おしく思えた。
薄緑の雄のカマキリは「祈りの幸運の予兆」だという。
ぼくにはきっと小さな幸運が舞い込むのだろう。

小さな幸運でいいのだと思う。

でも今年は色んな生物に出会う。
先月は喫煙コーナーでアゲハチョウに出会い、
施設の中でオケラにも出会った。
そして小指の先ほどのアマガエル。

また冬のチョウにも出会えるかもしれない?

折り紙と祭りのあとの日記

2017-10-28 06:11:41 | 日記
自分の体内ホルモンの分泌を考えてしまう。
「あ〜、今ドーパミンが出てる状態なんだ」
とか、
「あ〜、朝一番でお日様にあたり、セロトニンが出てきたな」
とか、

吉田卓郎の『祭りのあと』の歌詞が浮かぶ、
「祭りのあとの寂しさは〜」
何で祭りのあとは、寂しさや虚しさを覚えるのだろうと思っていた。
幸せを感じるホルモンであるセロトニンは、ほんの6秒ほどしか分泌されないのだそうだ。
幸せを感じる時間は短く、そのあとは寂しさや虚しさを覚える。

でもセロトニンは日々分泌される。
幸せを感じ、そして寂しさを感じる。
そういうことのバランスの中で、人は生きているのかもしれない?
そう、幸せと不幸せはセットなんだと考えると心に落ちて来るものがある。

人のセロトニンの量はみんな同じなのだそうだ。
人の幸せの絶対量に変わりはないのかもしれない?

今施設の壁や天井をハロウィンに合わせた飾りつけをしている。
ハロウィンは日本でいうと、盆と収穫祭を合わせたような祭りだと思う。
みんなは、ほんの一瞬の幸せを感じるために祭りの準備をし、
そして日々の日常に帰って行く。

祭りとセロトニンを考えると面白い。
おじいちゃん、おばあちゃんが幸せを感じるように、
施設を飾りつけしていると、セロトニンが分泌されてるなと感じる。