abyman の折り紙と日記

折り紙、本、旅の日記

折り紙と数学の日記

2019-11-20 10:06:16 | 日記
折り紙は数学的世界観なんだと思う。
実生活において何の役にも立たない。
そんな風に思えたら、数学や折り紙が愛おしくなる。
でも、そんな折り紙が日本で発展したことが嬉しい。
折るという行為が、神に祈る行為から始まった。
そんな想いが降りてくる。

今、折り紙で建造物の構造を創り上げて行くことが試みられているらしい。
「へ〜、折り紙も世の中に役に立ってるんだ」

でも、折り紙は発見ではなく、隠れていた法則を認知することにおいて、
数学と同じ何だと思う。

数学や折り紙の美しさって何だろう?
宇宙や自然、その法則の美しさなのかもしれない?
鶴を折る。誰が折っても鶴なのだ。
誰かが折ったら亀になったという話は聞いた事がない。

絵は、鶴を描いていたら亀になったという事があるかもしれない?
数学も折り紙も、飽くなき普遍性を求めているんだと思う。

「こうすれば、こうなのかもしれない」
バリエーションは無限何だと思う。

折り紙と損得の日記

2019-11-20 09:43:41 | 日記
世の中に損得があるわけじゃないと思う。
損だと思う人がいて、得だと思う人がいるだけだ。

損したと思う時、それによって得した人がいる。
得したい人は得すればいいと思う。
それが幸せの所在になんら関係はしていない。

損か得は一過性のものだと思う。
長い時間を掛ければ、人は平等なんだと思う。

ボクは勘違い野郎だから、
自分が月に一億円稼いでいると思っている。
そのお金をみんなに支払っていると考えている。

誰がどういう風にボクの一億円を享受しているのか?
そんなことに興味はない。

一億円の価値ある笑顔が欲しい。
そんな風に考えているボクの方が神を冒涜してるのかもしれない。

損したら、
「得した人がいて良かったよ」
ぐらいがちょうどいいと思う。

折り紙と借り物の日記

2019-11-20 08:42:08 | 日記
首と肩が異常に痛い。
「折り紙の折すぎなんじゃない?」
「更年期なんじゃない?」
「年だから、しょうがないね」
と宣う女性たちに、返す言葉もない。

体は「借り物」なんだと思う。
親から貰った体を、返さなければならない日が来る。
そんな大切な体を、労らなければならないと思う。

体は「すなお」だ。
心と連係して、体が反応する。

体をないがしろにして、いじめてしまう時がある。
借り物の体に申し訳ないと思う。

人はすなおな自分に出会えた時、人にもすなおに出会えると思う。
借り物の体に出会う。

申し訳ないと思う。
「母ちゃん、あなたから貰った体を傷つけてしまってゴメンな」

月を見て思う。
三歳の時死んだ母のことを。


折り紙と駆け引きの日記

2019-11-19 21:22:23 | 日記
今、愛が駆け引きの道具になってしまっているように感じる。
それは、時代背景的には仕方ないのかもしれない。
昔は掛け値なしの愛が転がっていた。
でも、今は幸せの所在が不確定になっているのかもしれない。

一緒に苦労することを厭わない愛が、ホントの愛じゃないかと、
そんな風に宣わっても一笑されてしまうと思う。

一緒に苦労することが楽しめなくなった時代を良い時代と言えるのだろうか?
苦労することが悪いことだろうか?

苦労することを楽しめなくなったら、人生は地獄ではないのか?

苦労を共に楽しめ、苦労の中に愛を見出せたら、価値ある人生ではないのか?

「言い訳を糧にするな」
死んだ親父の言葉が染みてくる。

苦労ばかりの人生を噛み締めて、その喜びを共有できたらと思う。

折り紙と有難いの日記

2019-11-18 10:06:27 | 日記
今日という日は、
「何もしない、何も考えない」
と思う。
沈黙を糧として、今日一日を過ごせたら、そんな素晴らしいことはないんじゃないか?
ボ〜とした今日!

今日を生きられることに有難さを感じる。
休日の朝、何も考えずに折り紙を折る。
一枚一枚に、
「みんなが幸せでありますように」
と唱えながら。

渡辺和子さんが言うように、
「権利としての一日ではなく、たまものとしての一日」
が降りてくる。

ああ、生きている。生きている。
有難いな。