前回、『鶴城遺芳』の表紙を載せました。
気づいた人もおられるかも知れませんが、留学生8名のローマ字名中、
Ryotarou Kiwaki(Ryo Kiwaki)とありますね。
つまり、本名は木脇良で、通称を木脇良太郎と言うわけです。
この本名に付け足した「太郎」とは何でしょうか?
そうです、首相「桂太郎」の太郎なのです。
桂太郎は若い時分、駐在武官として、ドイツに留学しておりました。その
同じ時期、木脇もドイツに留学したわけです。改めて申すまでもなく、明
治の初年、北半球の裏側にあるドイツ国に於いて、日本語を話す日本
人は一体、如何ばかりでありましょうか? 当然、指折り数えて、としか居
りません。
ここに、共に大志を抱いた同じ日本の若者として、長州・薩摩の仲の悪
さを超え、武人・文人の境界をも跨ぎ、桂と木脇は遙か異国の地で刎頸
(ふんけい)の交わりを結んだのです。木脇は、親友から二字を貰って良
太郎とし、以降、死ぬまで、この通称を用いたわけです。
そうして彼は、米国で3年、ドイツで5年の医学研鑽を終え、明治11年、
8年ぶりに故国の地を踏みました。その際は、ライプチッヒ医科大学で
医学博士の称号を得ておりました<当時小学生であった私は、祖母か
ら盛んに「ドクトル・メディチーネ」と聞かされましたが、何のことかサッパ
リ分かりませんでした(笑)。 尚、日本で、法・医・工・文・理、5種類の
博士号が制定されたのは、明治20年となります>。
サテ、明治11年の時代の空気は一体如何なるモノだったのでしょう!?
それは明治新政府のもと、官民挙げて、どん欲に(或いは、涙ぐましい程
に)西洋文化の吸収に務め、文明開化に勤しんでおりました。一環として、
大金をはたいてまで、外国から多くの指導者を招ヘイしたわけです(ベル
ツもその一人)。
俗謡に言う、「ザンギリ頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」「嫁に
やるなら末は博士か大臣か」のハシリです。
ご承知のように、明治時代は、別名、薩長藩閥政治と言われるように、薩
摩・長州出身者は、無条件に出世できる時代でした(薩長にとってはウハ
ウハ時代)。
この日本中を覆う時代雰囲気のなか、最新西洋医学のメッカ・ドイツにて
医学博士となり、欧米事情に通じた(英・独語にも堪能)薩摩出身の木脇
が帰国したワケです。このことが、どれほど当時の日本医学界にインパク
トを与えたかは、想像に余りあります。
彼は望めば何処までも栄達できる恵まれたポジションにいた訳で(加えて、
桂太郎と言う政界・陸軍の大立て者をバックに持つ)、実際、明治新政府
は、「初代日赤院長」のポストを木脇の為に準備しておりました。
んが~! 皆様!?
木脇は、一見、妙な人で、「ワシは窮屈な宮使いはゴメンじゃ!」とノタまっ
て(笑)、その席を、後輩の橋本綱常(後に子爵。幕末の志士、橋本左内
の弟)に譲り、当人はサッサと民間の医師になってしまいました(このため、
歴史に名を残す事は有りませんでした)。
その後、山形県立病院長、栃木県佐野病院長、福島県郡山病院長、など
を経て、東京の本所・緑町(国技館近く)にクリニックを開設したわけです。
(後年、北里柴三郎など、ドイツ留学する若者達が、多数、留学情報を得
るため、木脇を訪問したそうです)
木脇は、無名のイチ市井人にすぎませんが、一族の遺訓を守り【医は仁術】
(現在は死語のようですが)を実践した人物です。「貧しい人からは一銭のお
金も貰わなかったのよ。また、お相撲さん達のタニマチ(支援者)だったの」、
とは祖母の話です。
その証明と言っては何ですが、昭和53年2月4日付け、日経新聞「私の履
歴書」に、故・野村萬蔵氏(人間国宝。芸術院会員)が「木脇先生に無償で
命を助けられた。いわば『現代の赤ヒゲ』です」と、感謝を込めて紹介してお
ります<尚、お孫さんは、現在、映画や舞台で大活躍の、ご存じ野村萬斎氏
(最近、萬蔵を襲名)>。(後掲)
この記事を読み、早速、母に見せたとき、「ああ、おバアちゃんの言っていた
ことはホントだったのね~」と、大変喜んでいたことを思い出します。
(続きは後日。次回「世にも不思議なお話」を以て木脇シリーズはオシマイ)
気づいた人もおられるかも知れませんが、留学生8名のローマ字名中、
Ryotarou Kiwaki(Ryo Kiwaki)とありますね。
つまり、本名は木脇良で、通称を木脇良太郎と言うわけです。
この本名に付け足した「太郎」とは何でしょうか?
そうです、首相「桂太郎」の太郎なのです。
桂太郎は若い時分、駐在武官として、ドイツに留学しておりました。その
同じ時期、木脇もドイツに留学したわけです。改めて申すまでもなく、明
治の初年、北半球の裏側にあるドイツ国に於いて、日本語を話す日本
人は一体、如何ばかりでありましょうか? 当然、指折り数えて、としか居
りません。
ここに、共に大志を抱いた同じ日本の若者として、長州・薩摩の仲の悪
さを超え、武人・文人の境界をも跨ぎ、桂と木脇は遙か異国の地で刎頸
(ふんけい)の交わりを結んだのです。木脇は、親友から二字を貰って良
太郎とし、以降、死ぬまで、この通称を用いたわけです。
そうして彼は、米国で3年、ドイツで5年の医学研鑽を終え、明治11年、
8年ぶりに故国の地を踏みました。その際は、ライプチッヒ医科大学で
医学博士の称号を得ておりました<当時小学生であった私は、祖母か
ら盛んに「ドクトル・メディチーネ」と聞かされましたが、何のことかサッパ
リ分かりませんでした(笑)。 尚、日本で、法・医・工・文・理、5種類の
博士号が制定されたのは、明治20年となります>。
サテ、明治11年の時代の空気は一体如何なるモノだったのでしょう!?
それは明治新政府のもと、官民挙げて、どん欲に(或いは、涙ぐましい程
に)西洋文化の吸収に務め、文明開化に勤しんでおりました。一環として、
大金をはたいてまで、外国から多くの指導者を招ヘイしたわけです(ベル
ツもその一人)。
俗謡に言う、「ザンギリ頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」「嫁に
やるなら末は博士か大臣か」のハシリです。
ご承知のように、明治時代は、別名、薩長藩閥政治と言われるように、薩
摩・長州出身者は、無条件に出世できる時代でした(薩長にとってはウハ
ウハ時代)。
この日本中を覆う時代雰囲気のなか、最新西洋医学のメッカ・ドイツにて
医学博士となり、欧米事情に通じた(英・独語にも堪能)薩摩出身の木脇
が帰国したワケです。このことが、どれほど当時の日本医学界にインパク
トを与えたかは、想像に余りあります。
彼は望めば何処までも栄達できる恵まれたポジションにいた訳で(加えて、
桂太郎と言う政界・陸軍の大立て者をバックに持つ)、実際、明治新政府
は、「初代日赤院長」のポストを木脇の為に準備しておりました。
んが~! 皆様!?
木脇は、一見、妙な人で、「ワシは窮屈な宮使いはゴメンじゃ!」とノタまっ
て(笑)、その席を、後輩の橋本綱常(後に子爵。幕末の志士、橋本左内
の弟)に譲り、当人はサッサと民間の医師になってしまいました(このため、
歴史に名を残す事は有りませんでした)。
その後、山形県立病院長、栃木県佐野病院長、福島県郡山病院長、など
を経て、東京の本所・緑町(国技館近く)にクリニックを開設したわけです。
(後年、北里柴三郎など、ドイツ留学する若者達が、多数、留学情報を得
るため、木脇を訪問したそうです)
木脇は、無名のイチ市井人にすぎませんが、一族の遺訓を守り【医は仁術】
(現在は死語のようですが)を実践した人物です。「貧しい人からは一銭のお
金も貰わなかったのよ。また、お相撲さん達のタニマチ(支援者)だったの」、
とは祖母の話です。
その証明と言っては何ですが、昭和53年2月4日付け、日経新聞「私の履
歴書」に、故・野村萬蔵氏(人間国宝。芸術院会員)が「木脇先生に無償で
命を助けられた。いわば『現代の赤ヒゲ』です」と、感謝を込めて紹介してお
ります<尚、お孫さんは、現在、映画や舞台で大活躍の、ご存じ野村萬斎氏
(最近、萬蔵を襲名)>。(後掲)
この記事を読み、早速、母に見せたとき、「ああ、おバアちゃんの言っていた
ことはホントだったのね~」と、大変喜んでいたことを思い出します。
(続きは後日。次回「世にも不思議なお話」を以て木脇シリーズはオシマイ)