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『木脇良太郎』と『薩長ウハウハ時代』

2013-02-26 21:18:51 | 日記
前回、『鶴城遺芳』の表紙を載せました。
気づいた人もおられるかも知れませんが、留学生8名のローマ字名中、
Ryotarou Kiwaki(Ryo Kiwaki)とありますね。
つまり、本名は木脇良で、通称を木脇良太郎と言うわけです。
この本名に付け足した「太郎」とは何でしょうか? 
そうです、首相「桂太郎」の太郎なのです。
桂太郎は若い時分、駐在武官として、ドイツに留学しておりました。その
同じ時期、木脇もドイツに留学したわけです。改めて申すまでもなく、明
治の初年、北半球の裏側にあるドイツ国に於いて、日本語を話す日本
人は一体、如何ばかりでありましょうか? 当然、指折り数えて、としか居
りません。
ここに、共に大志を抱いた同じ日本の若者として、長州・薩摩の仲の悪
さを超え、武人・文人の境界をも跨ぎ、桂と木脇は遙か異国の地で刎頸
(ふんけい)の交わりを結んだのです。木脇は、親友から二字を貰って良
太郎とし、以降、死ぬまで、この通称を用いたわけです。

そうして彼は、米国で3年、ドイツで5年の医学研鑽を終え、明治11年、
8年ぶりに故国の地を踏みました。その際は、ライプチッヒ医科大学で
医学博士の称号を得ておりました<当時小学生であった私は、祖母か
ら盛んに「ドクトル・メディチーネ」と聞かされましたが、何のことかサッパ
リ分かりませんでした(笑)。 尚、日本で、法・医・工・文・理、5種類の
博士号が制定されたのは、明治20年となります>。

サテ、明治11年の時代の空気は一体如何なるモノだったのでしょう!? 
それは明治新政府のもと、官民挙げて、どん欲に(或いは、涙ぐましい程
に)西洋文化の吸収に務め、文明開化に勤しんでおりました。一環として、
大金をはたいてまで、外国から多くの指導者を招ヘイしたわけです(ベル
ツもその一人)。
俗謡に言う、「ザンギリ頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」「嫁に
やるなら末は博士か大臣か」のハシリです。

ご承知のように、明治時代は、別名、薩長藩閥政治と言われるように、薩
摩・長州出身者は、無条件に出世できる時代でした(薩長にとってはウハ
ウハ時代)。
この日本中を覆う時代雰囲気のなか、最新西洋医学のメッカ・ドイツにて
医学博士となり、欧米事情に通じた(英・独語にも堪能)薩摩出身の木脇
が帰国したワケです。このことが、どれほど当時の日本医学界にインパク
トを与えたかは、想像に余りあります。
彼は望めば何処までも栄達できる恵まれたポジションにいた訳で(加えて、
桂太郎と言う政界・陸軍の大立て者をバックに持つ)、実際、明治新政府
は、「初代日赤院長」のポストを木脇の為に準備しておりました。

んが~! 皆様!? 
木脇は、一見、妙な人で、「ワシは窮屈な宮使いはゴメンじゃ!」とノタまっ
て(笑)、その席を、後輩の橋本綱常(後に子爵。幕末の志士、橋本左内
の弟)に譲り、当人はサッサと民間の医師になってしまいました(このため、
歴史に名を残す事は有りませんでした)。
その後、山形県立病院長、栃木県佐野病院長、福島県郡山病院長、など
を経て、東京の本所・緑町(国技館近く)にクリニックを開設したわけです。
(後年、北里柴三郎など、ドイツ留学する若者達が、多数、留学情報を得
るため、木脇を訪問したそうです)

木脇は、無名のイチ市井人にすぎませんが、一族の遺訓を守り【医は仁術】
(現在は死語のようですが)を実践した人物です。「貧しい人からは一銭のお
金も貰わなかったのよ。また、お相撲さん達のタニマチ(支援者)だったの」、
とは祖母の話です。
その証明と言っては何ですが、昭和53年2月4日付け、日経新聞「私の履
歴書」に、故・野村萬蔵氏(人間国宝。芸術院会員)が「木脇先生に無償で
命を助けられた。いわば『現代の赤ヒゲ』です」と、感謝を込めて紹介してお
ります<尚、お孫さんは、現在、映画や舞台で大活躍の、ご存じ野村萬斎氏
(最近、萬蔵を襲名)>。(後掲)
この記事を読み、早速、母に見せたとき、「ああ、おバアちゃんの言っていた
ことはホントだったのね~」と、大変喜んでいたことを思い出します。

(続きは後日。次回「世にも不思議なお話」を以て木脇シリーズはオシマイ)

「佐土原藩・清宮内親王・木脇 良」

2013-02-06 17:19:57 | 日記




むかし、宮崎県の中程に、薩摩藩・筆頭分家としての「佐土原藩」という
小藩がありました。幕末の戊辰戦争に於いては官軍・先鋒(とても名誉
なこと)として、真っ先に江戸に駆け上りました。
石高は3万石と大したことはなく、又、分家ではありますが、その実力は
なかなかのモノがあったようです。それは、時代が下がり、昭和の御世
にあっても、今上陛下の妹君である清宮貴子内親王の降嫁先が「佐土
原藩」で有ることからも、ご理解できるでしょう。夫の島津久永氏は香淳
皇后(昭和天皇妃。本名:良子様)の従兄弟で、今上陛下のご学友です 
(尚、常陸宮の華子妃殿下は、津軽・弘前藩主の子孫)。
この時は、宮崎・鹿児島、両県あげての大祝賀ムードだったと報道され
ております。

サテ、維新が成就し明治新政府は、功績のあった諸藩に慰労金を贈り
ました。使い道は自由です。 佐土原藩も受領し、そこで、英邁な藩主
(島津忠寛公)は、そのお金を、次の時代を背負う人材育成のために使
いました。具体的には、藩内の各分野から俊英8名を選抜し、アメリカに
6~7年、留学させることにしたのです。明治維新の翌年と翌々年にかけ
て2班に分かれて送り出しました。
正に画期的な出来事であり、大藩でも為し得なかった壮挙にして、当時
の教育界に衝撃を与えました。かの岩倉具視が54名の留学生を引率
した、明治5年の米国留学よりも早かったのですから。

木脇良(祖母の父)もその一人で、明治3年7月、25才の若者はアメリカ
で医学研鑽すべく、大いなる志を抱き、勇躍、太平洋の波頭を越えてい
きました。しかし3年後、木脇だけは、明治新政府の依頼(or指示)により、
西洋医学のメッカ、ドイツ(当時はプロシア)のライプチッヒ医科大学(明治
近代医学の師、ベルツ博士はこの大学出身)に留学することとなり、今度
は大西洋を渡ったのです。

ここに『鶴城遺芳』なる冊子があります(祖母からもらいました。鶴城とは、
佐土原の城を鶴城と称していたから)。終戦直後の昭和24年、佐土原町
の有志が米国留学80周年を記念して、発刊したものです。
その木脇良の項には、「幼にして穎悟、神童の称あり、明治3年米国に留
学し、それよりドイツに渡りて医学を研鑽す。同11年に帰朝。 尚、解剖
学の権威にして、当時『木脇の解剖図』は特に着色に依りて解説し、大に
日本の医学界に認められたものである・・・」と記載されています。
ここに『木脇の解剖図』とは、帰朝4年後の明治15年(16年の鹿鳴館より
早くに)に発刊された『解剖全書』(木脇著)を指します(この書は昭和の初
め頃まで日本中で使われていた、とは祖母の話です)。
又、この『遺芳』の発行時は、まだ戦後のドサクサ時代であり、東京にいた
祖母の所には何の連絡もありませんでした。祖母は「もし私の所に問い合
わせがきていたら、色々お話出来たのに」と大変残念がっておりました。

 (以下、続く) 

 <写真は渡米前、浅草公園の写真館で撮ったもの。向かって右が木脇>

「桂太郎:ニコポン宰相」

2013-02-04 17:01:33 | 日記




前回に続き、明治のお話です。

明治の諸事多難のおり、「ニコポン首相」と言われた傑物がおります。
ニコポンとは「ニコニコしながら相手の肩をポンと叩き、親しげにする
ことで人を懐柔したり、人に物を頼むという処世術の一つである」と言
われ、余り良い意味では使われないようですが、人をまとめ動かすリ
ーダーに取っては、大切な処世の術と思えます。「人たらし」と言われ
ながらも天下を掌握した太閤秀吉を見れば、良く理解できましょう。
ニコポン首相とは 「桂 太郎」その人で、早速wikiを見れば、

『桂 太郎(かつら たろう)。1848年(弘化4年)~1913年(大正2年)
は、日本の武士、陸軍軍人、政治家、元老。
階級は陸軍大将(元帥贈号の内示を固辞)。位階は従一位。
勲等は大勲位。功級は功三級。爵位は公爵。
台湾総督(第2代)、陸軍大臣(第10・11・12・13代)、内閣総理大
臣(第11・13・15代)、内務大臣(第22代)、文部大臣(第23代)、
大蔵大臣(第13代)、貴族院議員、内大臣、外務大臣(第25代)な
どを歴任した。
長州藩士であり、戊辰戦争に参加し、明治維新後、ドイツへ留学。
帰国後は山縣有朋の下で軍制を学んで陸軍次官、第3師団長、台
湾総督を歴任した後、第3次伊藤内閣・第1次大隈内閣・第2次山縣
内閣・第4次伊藤内閣で陸軍大臣をつとめた。
1901年(明治34年)、首相に就任。日英同盟を締結し、日露戦争で
日本を勝利に導いた。
西園寺公望と交代で首相を務め「桂園時代」と呼ばれ、総理在職日数
2886日は佐藤栄作を凌ぎ、歴代1位』・・・
とあり、勲等・名誉・位階・官職を総ナメです。

何と言っても、日英同盟締結(あの、7つの海に君臨した世界に冠たる
大英帝国が、唯一、対等な同盟を結んだのが、この日英同盟)と、ボロ
ボロになりながらも、日露戦争を勝利に導いたのが最大の功績です。
元勲・山縣有朋に匹敵します(東京の椿山荘は山縣の別邸)。

桂ほどの人物なら、親友もさぞや多いことでしょう。
そのウチの一人を、私は明確に指摘できます。
その名は、「キ・ワ・キ リョウ」で「木脇 良」と申します。
そうです。木脇の一員です(笑) 
薩摩(木脇)と長州(桂)は本来、仲が悪いのですが、にもかかわらず、
何ゆえ親友関係になり得たのか、と申せば、その鍵はプロシア(ドイツ)
に有るのです。

 (以下、続きは後日に)