心理カウンセラーの眼!

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『1Q84』村上春樹の世界観!(その3・自閉)

2010-03-01 14:57:00 | 村上春樹の世界観
こんにちは、テツせんです。
バンクーバー冬季オリンピックが昨日で終わりましたが、
みなさんは誰に興奮しましたか?

もっともスリリングで圧巻だったのはスケルトンやリュージュ。
もうスポーツの次元を超えて、タイムトンネルを突っ走るように
恐怖そのものに挑む姿には、まったくあきれるばかりでしたね。

さて一週間のごぶさたでした。(玉置ひろしの歌番組のおきまりみたいですが・・)
村上春樹の『1Q84』にしぼった書評というか批評をすすめていきましょう。

作者村上が描く、人妻と天吾とのなんだかスタイリッシュな不倫関係について、

前回わたしは、それが《消費としての性・セックス》だと言い、
人妻の夫との《対の関係の中の鬱》からの無意識の逃亡、
すなわち《鬱破りの躁行動》にすぎないとも指摘しておきました。

そういった視座からみれば、
このあとの天吾たちの生き方がきわめて狭苦しい世界にかぎられることが見えてきます。

天吾の考え方・生き方を作者はこう語っている。

「定期的なセックスの機会が確保できれば、それ以上女性に対して求めるべきものはなかった。
恋に落ち、性的な関係を持ち、それが必然的にもたらす責任を抱え込むことは、歓迎するところではなかった。
踏み込むべきいくつかの心理的段階、可能性について仄めかし、思惑の避けがたい衝突・・・
そんな一連の面倒はできることなら背負い込まずに済ませたかった。」
「一人で自由にもの静かに生きていくこと。それが彼の一貫して求め続けてきたことだ。」
「結婚もせず、比較的自由のきく職業に就き、満足のできる(そして要求の少ない)
性的パートナーを見つけ、潤沢な余暇を利用して小説を書いた。」・・・

まず何とも言いようがないほど貧相で味気ない女性観であり、人生観です。

だがこの考え方は《欠落感》を抱えた天吾のみならず、作者村上のものでもあるように読み取れる。
これを欧米的なスタイリッシュな生き方・考え方ではないかと受けとるのは自由というものだが。・・

同様に、片棒の人妻が「ただ夫とのセックスからじゅうぶんな満足を得ることができないだけ」で、
不足する満足を不倫で埋め合わせるという考え方をも肯定する自由とは、

西欧近代主義思想の《機能主義》(ファンクショナリズム)にからめとられた人の考え方であり、
《対の関係》というものをなし崩しに《破壊する自由》であることを知っておく必要がある。・・・

この考え方は、
わたしたちの《対の関係》の恋愛・結婚生活を成り立たせなくするという意味で、
もっとも破壊的であり、すでに社会で無自覚に流通していることが危機的なのだ。

青臭い言い方だが、
《個の存在》と《対の関係》の精神のゆたかな世界性というものが、
はじめから断念され、排除されたプラグマティックな思想である。

社会(性)から心的に疎外され、自閉的で恣意的な自己観念に固執する自己完結型の人は、
それに必要と思ったものを補填できれば、「一応完結」したとして自足する。
それが機能主義の思考の人の典型というものである。

言いかえると、このタイプの人はつねに自分を不安にする《他者》しか見ていない。
そのために、自分は心的に《自閉》に向かう存在であるしかないわけだ。

かくして天吾はきわめて狭量な自足をよしとする世界に生きることになる。

そのような自閉的な自己完結の思考・生き方のもとに「余暇を利用して書く」小説など
読むに値するものだろうか?
すると、まったく読むに値しないものを逆説として提示したかったのかといった
うがった見方が必要なのかとついおもってしまう。
そこには、本当に「なんにもわかっていない」天吾くんが、作者に同伴させられているように見える。・・


やがて、物語の道筋が明瞭に色づけされ、収斂に向かうと、
ふたりの主人公を際立たせるために、
人妻を削除する必要に迫られてくる。

きっと作者は、
『青豆と人妻』、『人妻とふかえり』が現実に接触することを避けたかったのだろう。
それが天吾にも、作者にとっても
手に負えない厄介なことにならざるを得ないからだ。

しかしそこから、『つくりものの別の世界』ではない《本当の物語》、
作者にとっては《厄介このうえない物語 》が書き記されなければならなかったのだが。・・・

「家内はもうお宅にお邪魔することができないと思います。」・・

“人妻の夫”の抑制しきった声からは、
作者が書きたくなかったはずの、不倫の二人へのやり切れなさが伝わってくる。

そこはつくりものの世界ではない、厄介だが本物の世界からの『なまなましい声』が、
自閉自足をよしとする天吾と作者とに正面から対峙するシーンだったはずだ。

作者はこのとき《本当の物語》を回避して《外に出ない、つくりものの世界》に自閉する。

本の扉に記されたPaper Moonの歌詞が暗示する世界とは、
期待とは裏腹にこのように『スマートに解離する』世界のことだったというわけか?

たしかに村上春樹は最後まで渾身の力ですみずみまで丁寧に物語っていくのだが、
しかしそこは、どうころんでも厄介な世界を削除したことで、

この時代の《個の存在》と《対の関係》の切実な課題に
一指も触れられないのではないかとおもえてくる。・・・

(次回につづきます。)
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