心理カウンセラーの眼!

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『1Q84』村上春樹の世界観!(その8・自己了解へ)

2010-04-12 15:28:46 | 村上春樹の世界観
こんにちは、テツせんです。
昨日からの雨で、残っていた桜の花も舞い落ち、道沿いを桜の花びらでおおいつくしていきます。
そのうえをぴかぴかの一年生が傘をくるくるしながら習い始めた歌を唄って通りすぎます。
はたして、みなさんのところではどんな光景が見られますでしょうか?

さて『1Q84』村上春樹の書評も早や8回をかぞえますが、
今回も最終稿には至らず書きのこしてしまった次第です。
そうこうするうちに、第3巻が刊行されるということですが、それはそれでたのしみにしております。
だからわたしの書評をどうするということも考えてはいないし、
「いつでもお相手します」という心境です。
それではまたみなさんとともに、村上春樹の『1Q84』を読み解いていきましょう。・・・

-- 作者村上春樹が、「人間は遺伝子の乗り物にすぎない」という、社会生物学のウィルソンらの言説を
作中の、資本家で聡明な(老婦人)に肯定的バイアスをきかせて語らせることには、
それなりにつよい理由と意思がこめられているとかんがえてよいでしょう。

世界は、遺伝子が自己複製運動を永続するのみという考え方には、
『ひとはクローンとして生きられない』という意味において、
根本的な矛盾があるという異議をひとまずあとにまわして、
なぜ遺伝子支配論が蔓延するようになったのかというあたりをまずみてみようとおもいます。

そうです、いまやわたしたちは高度資本主義文明のへさきに立たされているわけで、
すでに《世界の中の自己了解性 》の簒奪を経て久しい。・・・

あの敗戦以来、日本の人々は徹底して物質的な豊かさを求めてやまなかった。・・・

それはまだいいとして、《高度成長 》という名のもとに、
教育までもテスト偏差値至上主義という米国流のプラグマティズムへ転落していったことは致命的だった。
子どもたちまでが商品化されていったわけだ。

そうした商品化の風潮は個人(とくに若者)をどんどん画一化・記号化していったあげくに、
《自己了解性 》までもが、有無を言わさぬ管理システムのなかで
当の若者たちによって《ダサい》《面倒くせえ》と蹴飛ばされていったのだ。

社会はもうすでに見事に記号化された若者たちであふれていく。
すると当然《記号》として生きられるはずのない彼らは鬱病をかかえるはめになる一方で、
しかしまた彼ら自身が記号人間であるという規定から逃れられないために、

哀しいまでにまわりと同調する記号性に執着する病理をあらわし、
その皮肉にみちて屈曲した重い負荷に堪えがたく、その反動で『いじめ』を生み出した。

その異様な同調性と対をなすようにして、
人々は美化の妄想としての見た目のわずかな《差異 》を競わされて、どこまでも固執させられていく。

自己了解そのものが狭小な差異性と数量化のパラダイムにすり替えられていったわけである。
そして《自己了解性 》はいつのまにか《個性 》という名称に上書きされて、
わたしたちはそのときから《生存の意味 》を喪失させられたといえるだろう。

このときにわたしたちはプラグマティズムの論理がみずからの上に貫徹されたといい直してもよい。
やがてプラグマティズムが遺伝子支配の論理にまで行き着くことは自明のことであったのだ。

あとに残されたことといえば、《強迫的なまでに消費する》というあまりにも空虚な、
総中流意識という病理をかかえた時代そのものにほかならない。

そしていつのまにかわたしたちは、
『任意の、偶然的な、何の意味も含まぬ存在にまで解体され』(渡辺京二「なぜいま人類史か」)ようとしている。・・・

そして作者は、こんどは青豆にこうも言わせる。・・・
「(蜘蛛には)ライフスタイルの選択肢もない。
ひとところに留まって獲物を待ち続け、寿命が尽きて死んでひからびてしまう。
すべては遺伝子の中に前もって設定されていることだ。
そこには迷いもなく、絶望もなく、後悔もない。
形而上的な疑問もモラルの葛藤もない。おそらく。
・・・私は移動する。ゆえに私はある。」・・・

このことについてお話しますと、
簡単なまちがいとして、蜘蛛は生涯をじっとして暮らすわけではないこと。
風に乗ってどこまでも移動しますから、ご心配なく。
それに、寿命で死のうが事故で死のうが、そこは人間もおなじだぜと。
そのあと作者お気に入りの『遺伝子』が登場してきて、蜘蛛はまるで無機物のような扱いをうけます。

『遺伝子さまの思し召すまま、虫けらは何の意味もなくくたばるのを待っているが、
自分(青豆)は主体的に行動できるだけ由とするか』
とまあいうような心象でしょうか?

そこですこし長くなりますが、この作者の背景にあるプラグマティックな思想を解体すべく
前出の渡辺京二氏のつぎの文を引用させていただきます。

『(自然という実在系)
-- 人間は自然という実在、ひとつの大きな系をなしている存在の一構成要素にすぎません。
生物は自然という自分と異なる系のなかに侵入して、適応したりそれを変改したりしているわけではなく、
生物= 生命がそもそも自然の分化したありかたであり、
その自然という系の欠くべからざる要素として、系のいとなみの一部を構成しているのです。・・
自然は大きな生命であり、その構成要素もまた生命であって、みんな自己主張しています。
火山が爆発するのと、男の子がある年齢になると精通をみるのはおなじ自然の自己主張です。・・
自然の各構成要素はこのように自己主張しつつ、相互適応しているのです。
人間だけ生物だけが適応しているのではなく、
実在という大きな系の構成要素は、その系の構造によってみな規定され、
一定の位相で存在せしめられているのであって、
適応とは系の中でのそういう位置の定まりをいうにすぎません。・・
そしてそういう構成要素の自己主張の対立・拮抗が
ひとつの系として大きな破綻なく収まり合って来た過程がまさに進化であったわけです。
構成要素が不動のものでなくつねに運動しているからこそ、ある構成要素に不均等な質量両面の変化が生じ、
そうして生じた不均衡を平衡に導くために他の構成要素が変らねばならない。
この相互作用が進化であって、けっして人間や動物のみについて進化論が成り立つのではなく、
進化とは生命をうちに含む実在全体の進化であらねばなりません。
その意味ではネオダーウィニズムなどは、
地球進化と理論的結合されない、極めて局視的一面的な仮説にすぎません。』・・・

この実在系の概念のまえでは、
まことにきわめて局視的な遺伝子支配論が吹き飛ぶような爽快な感慨さえおぼえます。
遺伝子もまたこの論理の中に収められて、構成要素としてのいとなみを担うだけのことなのです。

(またまた長くなりますので、次回につづくことになりました。)
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1 コメント

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Unknown (ポルコ)
2010-04-18 10:46:24
こんにちは。
見させていただきました。
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