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「1Q84」村上春樹の世界観!(その1・記憶)

2010-02-16 11:24:25 | 村上春樹の世界観
こんにちは、テツせんです。
またまた寒くて鬱陶しい日がつづいていますが、
みなさんは風邪など引いていないでしょうか?

ところで、お正月のブログにもすこし触れましたが、
ようやく村上春樹の書き下ろし小説「1Q84」を読了しました。

みなさんの中にも読まれた人が多いとおもいますが、
これほど多くの人に読まれる、その魅力がどこにあるのか、また時代をどのように映しているのかを、
みなさんといっしょに見てみようとおもいますので、あらためてお付き合いください。

500ページ以上ある重たい本(しかも2冊!)をおもむろに開くと、
目次の前の扉のページには
“It's Only a Paper Moon”の歌詞の一節が口上書きのように並べられている。

“It's a Barnum and Bailey world,  Just as phony as it can be,
But it wouldn't be make-believe If you believed in me.”

“ ここは見世物の世界  何から何までつくりもの
でも私を信じてくれたなら  すべてが本物になる ”

(ずい分聞きなれた歌が、こうして扉に日本語で書き改まると、
曲の軽妙さは一転して、作品の有り様を暗示する重い言葉に生まれ変わっている。)

村上の何かと教養主義的でスタイリッシュな傾向が問題となるところですが、
ここでは率直に、この一節に込めた作者のつよい思い入れに期待しようとおもいます。

それでは早速、ページをめくっていくことにしましょう。

小説の構成におもしろい趣向が施されていて、
BOOK 1の、第一章が(青豆)、第二章が(天吾)という具合に、

作品のふたりの主人公が交互に登場して、
それぞれの生存の有り様を扉を1枚ずつ開けていくように物語られる。

この方法は、物語の《暗示》 や《必然性》 をいっそう際立たせる効果をもって、
読者を飽かすことなく程よいテンポで展開していく心地よさをも感じさせて成功しているといえるでしょう。

もちろん何ごとにも周到な作者は、
主人公である(青豆)と(天吾)それぞれの生育歴を
重要な要素として書き込むことに余念がない。

なかでも早速に、重要な《乳児期の記憶》が物語られる。
(天吾)の《最初の記憶》がそれだ。

一歳半のときの、
『母親は白いスリップの肩紐をはずし、父親ではない男に乳首を吸わせていた。
ベビーベッドには一人の赤ん坊がいて、それはおそらく天吾だった。』
という記憶であるという。

これが本当の記憶であるのかどうかという点では作者も懐疑的なわけだが、
乳児のカテゴリー・ベクトルの認知能力についての最新の知見・成果からみれば、
可能性がないわけでもないといえよう。

つまり『母親の不倫』が事実であったと受けとってもよいことになる。
ただこの場合、
『一歳半の天吾が横で眠っている』光景は
『母親の不倫の光景に、後付けに上書きされた記憶』になるが。・・

またこれに加えて、
人間の《生存の危機への直感》というものが大体において外れないことも
経験的に周知されているゆえに、

(天吾)が母親による『見捨てられ』の感覚を根拠にして、
最初の性の対象である母親との関係をイメージしつつ、

また“ 父親でない男”が『本当の父親』であるという直感 ”を根拠にして、
男と母親との性の関係をダブってイメージするという、

手の込んだ母子、父母、父子という三角関係のイメージを
真実の家族として無意識に認知したとしても無理なこじつけとはいえないだろう。・・

天吾自身は、
失われた家族、母親、父親の、唯一つのあまりにもはげしい記憶に対して、

「その鮮明な映像は前触れもなしにやってくる。
恐怖はない。しかし目を開けていることはできない。
お馴染みの映像が何度も意識のスクリーンに映し出される。
身体のいたるところから汗がふきだしてくる。全身が細かく震え始める。」
といった反応を示す。

それは、トラウマのフラッシュバックというものではなく、
むしろ離人症のひとの常同症的な行為とよぶべきものだろう。

自分だけが密かに抱える出生の記憶のイメージが、
現実のNHK職員の“本当の父親ではない”『父親』とのあいだで
天吾に、根無し草の生き難さをどこまでも強いてくる。

《 ひとは、愛されないと、愛せない 》 という言葉は、
母親から無償の愛情を受けて育つ乳幼児期の母子関係を指したものだ。

とすれば天吾は、失われた真実の家族に『見捨てられ』たことから、
『愛せない男』になったとすれば、否定しようがない。

そこが、人妻のガールフレンドとのセックスで、
「生身の女性に対する欲望のようなものはおおかた解消された」と考えるしかない
『愛せない男』天吾の《自覚のない》哀しさ、わびしさのゆえんである。

もとより、《性・セックス》は「解消」されるべきものではない。

人はその性の部分だけをつまみあげて、不倫というかりそめの対の《関係》を重ねても、

互いに「解消すべきことしか得るものがナイ!」
ということの意味をよく理解しなければならない。

何故なら、それは《対の関係》としての恋愛、夫婦の有り様を解き明かす唯一つの鍵(KEY)であるからだ。

(次回につづく。)
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