心理カウンセラーの眼!

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『1Q84』村上春樹の世界観!(その6・充足)

2010-03-29 19:25:15 | 村上春樹の世界観
こんにちは、テツせんです。
またしても冬のような寒気がおそってきましたが、
みなさん、お風邪を召さないようにご用心くださいね。

それで、このシリーズもとうとう6回目になりましたがまだ終われそうにありません。
あきれついでにおつきあいをおねがいいたします。

-- これは作者村上春樹の考え方なんでしょうが、
宗教信者というものに対してわりに偏ったというか、
一面的な現象だけを見て否定的に描かれていることがあります。

宗教というものがこの作品で大きな比重を占めていることの意味は
おいおい問うていかなければならないのですが
まずは信者の側に立って《信仰 》ということを考えてみたいとおもいます。

たとえば『証人会』のような終末論を説き歩くキリスト教の信者であっても、
あるいは家内安全商売繁盛を願い踊る世俗宗教の信者であっても、

自ら信仰に入った人のものの考え方はおよそ同じ回路を経過してきているとみなされます。

すなわち、現実の生活の中に葛藤の原因があり、
その解決を他に《依存 》するほかないと思った結果
選択されたことのひとつということです。

それにはそれぞれに理由があるとしても、
やはり現実社会からの回避行動とみなさざるを得ないでしょう。

またそこは村上作品の『もう一つの世界』とはちがった、
日常の幸福観の欠乏を埋めるための擬似安心を授けられる《集まり 》の場というもの。

つまりは、現実社会と擬似安心世界とをたえず往ったり来たりできる
じつに手軽なお約束のシステムに乗っかって暮らすことといえるでしょう。

もちろん、《信仰 》にも質の相違、思考の深さの度合いがあるわけで、
当然のようにその人が積み上げてきたものの考え方の総体が尺度になってきます。

人は日常の幸福感だけで充足するなどというのは、本当はありえないわけです。

たとえば、「人と生まれてきても別に意味が無い」という学者連中がいてくれるお陰で、
わたしたちの横っ面をひっぱたくこの言葉に
「なにくそ!」「なぜなんだ?」と日常性からつきぬけたものの考え方へ向かうことになるわけですね。

ですから、わたしが《個としての存在の意味》について言及するとき、
手軽に日常的に充足している人たち(世俗的宗教信者)の《充足 》とはまったく違った次元のことになります。

それは、人が《個としての存在の意味》を突きつめていくことによって、
思惟の断崖の向こう側にはじめて望見されてくる
《絶対者への自己投棄》あるいは《世俗超越の意思》を覚悟した者たちを
けっして侮らない軽んじることのない次元といい直してもいいでしょう。

本の中で、作者は(さきがけ)の「リーダー」につぎのように語らせている。

「たいがいの人々は、実証可能な真実など求めてはいない。
真実というのはあなたが言ったように、強い痛みを伴うものだ。
そしてほとんどの人間は痛みを伴った真実なんぞ求めてはいない。
人々が求めているのは、美しく心地良いお話なんだ。だからこそ宗教が成立する」。

このおそらくオウムの“教祖”を模した人物を使って作者は、
ここではごく世俗的な宗教が大衆一般に同調している姿を
やや稚拙に一面的な衆愚意識をもって指し示しています。

宗教の到達した地平を無視するように!
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