天龍寺と清涼寺の間に法然寺という寺がある。
法然寺は平安末期、建久8年(西暦1197年)に源氏の武将、
熊谷次郎直実が法然上人の弟子となって出家した後に、
両親の菩提を弔う為に作ったお寺です。
ここは観光寺院ではないのでひっそりとしています。
所在地 京都府京都市右京区嵯峨天竜寺立石町1
宗派 浄土宗
本尊 法然上人自作尊像
創建年 建久8年(1197年)5月
開基 蓮生、法然(開山)
札所等 法然上人二十五霊跡 第十九番
【歴史】
法然寺は京都市内の四条烏丸の北の元法然寺町にありました。
その後の法然寺は正応年間(1289-1292)にはご病気であった伏見天皇からの
手厚い加護を受け続いて後奈良、正親町天皇の勅願寺となる。
その間には足利義政や豊臣秀吉からの扶助も受け徳川幕府から
三百石と御朱印を拝した。
その後、京都市内を転々とし四条寺町下るから嵯峨の地には
三十年前に転居してきたので嵯峨の地と法然寺を結び付るものはない。
【蓮生】
戦国の武将熊谷次郎直実は十六歳の平敦盛を戦いで殺した事は有名です。
それだけでなく武将としての歴史に残る戦いにも大きな手柄を幾つもあげました。
しかし武士にあるまじき味方を裏切ったり敵と内通したりした事もあり、
その人生は波乱万丈でした。
その自分の人生に怒りを覚え自決する決心をして世に聞く高僧である
法然上人に見届けて頂き極楽への旅路を希望し、
この時初めて法然上人にお出遭いし法然上人より、
どんな罪人でも阿弥陀さんを信じたら誰でも極楽往生が出来る、
仏教の慈悲に初めて触れ周囲の反対にもかかわらず出家をします。
出家後は蓮生房と言うお坊さんの名前に変え、
まず敦盛の供養を高野山でして京都に滞在しながら世の為,人の為、
自分の全ての財産を使い学校や橋や道や沢山の寺院も作り大きな功績を残した。
【山門】
【本堂】
小さなお寺です。
本堂が開いてなくて残念。
仕方なく外から拝んで御朱印を寺の奥様にお願いしたところ、
本堂を開けて中へ入れていただきました。
こちらは御朱印をお願いすると本堂へ入れてもらえるみたいです。
残念なら法然上人自作尊像は修理中でした。
京都府の補助がありながら修理代は550万かかるそうです。
修理代って本当にお金がかかるもんなんですね。(^^;
御本尊は拝めませんでしたが、
お寺はやっぱり本堂にあがりたいので嬉しかったです。
【御朱印】
法然寺は平安末期、建久8年(西暦1197年)に源氏の武将、
熊谷次郎直実が法然上人の弟子となって出家した後に、
両親の菩提を弔う為に作ったお寺です。
ここは観光寺院ではないのでひっそりとしています。
所在地 京都府京都市右京区嵯峨天竜寺立石町1
宗派 浄土宗
本尊 法然上人自作尊像
創建年 建久8年(1197年)5月
開基 蓮生、法然(開山)
札所等 法然上人二十五霊跡 第十九番
【歴史】
法然寺は京都市内の四条烏丸の北の元法然寺町にありました。
その後の法然寺は正応年間(1289-1292)にはご病気であった伏見天皇からの
手厚い加護を受け続いて後奈良、正親町天皇の勅願寺となる。
その間には足利義政や豊臣秀吉からの扶助も受け徳川幕府から
三百石と御朱印を拝した。
その後、京都市内を転々とし四条寺町下るから嵯峨の地には
三十年前に転居してきたので嵯峨の地と法然寺を結び付るものはない。
【蓮生】
戦国の武将熊谷次郎直実は十六歳の平敦盛を戦いで殺した事は有名です。
それだけでなく武将としての歴史に残る戦いにも大きな手柄を幾つもあげました。
しかし武士にあるまじき味方を裏切ったり敵と内通したりした事もあり、
その人生は波乱万丈でした。
その自分の人生に怒りを覚え自決する決心をして世に聞く高僧である
法然上人に見届けて頂き極楽への旅路を希望し、
この時初めて法然上人にお出遭いし法然上人より、
どんな罪人でも阿弥陀さんを信じたら誰でも極楽往生が出来る、
仏教の慈悲に初めて触れ周囲の反対にもかかわらず出家をします。
出家後は蓮生房と言うお坊さんの名前に変え、
まず敦盛の供養を高野山でして京都に滞在しながら世の為,人の為、
自分の全ての財産を使い学校や橋や道や沢山の寺院も作り大きな功績を残した。
【山門】
【本堂】
小さなお寺です。
本堂が開いてなくて残念。
仕方なく外から拝んで御朱印を寺の奥様にお願いしたところ、
本堂を開けて中へ入れていただきました。
こちらは御朱印をお願いすると本堂へ入れてもらえるみたいです。
残念なら法然上人自作尊像は修理中でした。
京都府の補助がありながら修理代は550万かかるそうです。
修理代って本当にお金がかかるもんなんですね。(^^;
御本尊は拝めませんでしたが、
お寺はやっぱり本堂にあがりたいので嬉しかったです。
【御朱印】
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