nakappのひとり言

何をするか、何をしたいのか、どんなブログになるか全然分かりませんが、一歩踏み込んでみたいと思います。ブログに初挑戦。

保証期限切れ

2016年08月14日 13時54分27秒 | Weblog
8月13日神奈川新聞「照明灯」

2015年の日本人の平均寿命は、女性87.05歳、男性80.79歳となった。
厚生労働省によると、男女とも過去最高を更新した。
女性は3年間続いた1位の座を香港に明け渡した。
とはいえ世界に冠たる長寿国には変わりない。
上位の国の顔触れを見ると、1人当たりの国内総生産(GDP)との相関関係がうなづける。
医療技術進歩、衛生環境の向上、豊富な食糧、冷暖房の整備などの国民の長生きに結びついている。
そうした大量のエネルギーを必要とする技術を買える日本は、着実に寿命を延ばしている。
生物学者の本川達雄さんは「人間にとって寿命とはなにか」(角川書店)の中で≪私のような年金世代は技術が作った『人口生命体』です≫と論じた。
ロングセラー「ぞうの時間ネズミの時間」(中公新書)の著者でもある本川さん曰く、哺乳類は心臓が15億回打つと死を迎える。ヒトの場合は41.5歳に相当し、50歳以降は(保証期間切れ)の体で生きていかざるを得ないと表現した。
医療・介護費用が増え続ける超高齢化社会で、長い老後をどう送るかは重大な課題である。
厚生労働省が算出した13年の健康寿命は男性71.19歳、女性74.21歳だった。
まずは自立して暮らす年月を延ばすのが人口生命体の責務となろう。



平均寿命よりも健康寿命で生涯を終わらせたい。

平和の願い

2016年08月11日 14時15分11秒 | Weblog
明日(8月12日)は9回目の母の命日、その母が戦後50年に重い口を開くように自分史書きました。

今年もこの日が来ました。
母の自分史を掲載します。


語りたくない50年前の喉の乾き  ・・ 富美

 ババーン! ドカーン! 銃声と振動が追いかかってきます。
 昭和20年(1945年)8月、私達一家の夫婦と娘二人は、中国、北京から南西700キロの山西省運城(うんじょう)という町に居りました。
 戦局が危うくなったので婦女子は集団で内地に引き揚げることになり、私は4歳の長女久美と生後5カ月の次女明美との3人でオムツだけを持って運城から列車に乗りました。
 終戦の玉音放送など聞く由もなく、終戦から一週間たって敗戦を知りました。
 私達の集団は約千人でしたが敗戦と同時に中国軍の捕虜となり、荷物のように無蓋車(むがいしゃ・トロッコのような屋根のない貨車)に乗せ換えられました。
 夜になると八路軍の襲撃があり、次女を背中に、眠い目をこする長女の手を引いて暗闇の中を貨車から逃げるのです。
 次女がビックリして泣き出すと、一緒に走っている気の荒いおばさんが目をつり上げて「敵に見つかるから首を絞めて殺してしまえ。」と激しい口調で怒ります。私は我が子を殺すのは最後の手段だと思って何度怒られても我慢しました。こんな夜がいく晩も続きました。   
 暗闇の帰り道、足先に何かがぶつかったので拾い上げて見ると蓋のない飯盒(はんごう)でした。無蓋車の中は狭いので3人は額を合せて毛糸玉のように丸まっての寝起きです。
 水もないので持ってきたオムツも使えなくなり、貨車が止まる度に逃げた日本軍が脱ぎ捨てた軍服をちぎってゴワゴワのオムツを作ります。
 勿論トイレなどあるはずもなく、子供の用便は拾って来た飯盒にさせて外に捨てます。この飯盒は本当に神様からの贈物だと感謝しました。
 顔も洗えず、体も拭けず、そのうちに貨車の中はスッパイような何とも言えない異様な臭いがプンプンしてきますが鼻も馴れて子供の虱(しらみ)取りが楽しい日課になりました。
 頭は黒いのに、体には虱がイッパイたかって、私達と共存しているのだなあと思い、黙々と子供の虱を取って上げます。
 この集団は半数以上が子供なので、何かの病気で下痢をし出して死ぬ子が多くなり始めました。
 襲撃のない夜で駅に貨車が止まると、親達が泣きながら穴を掘って埋葬しました。
 水が無いので次女のお尻を拭いてあげることもできず、爛れて薄皮がむけてきました。痛くても泣く声に心なしか元気が無くなってきました。
 3カ月位無蓋車に揺られ天津(てんしん)に着き、収容所へ入りました。収容所は大きな倉庫で、下は硬いセメント。それでも毛布を敷いて子供の手足を精一杯伸ばして寝かせてやることができ、天国だと思いました。
 収容所の生活が1カ月か2カ月位続き、娘二人は風邪がもとで39度の熱が続き、苦しむようになりました。
 私は一人ずつ、手と体で抱き包んで一緒に泣いて暖めてやるしかできませんでした。
 天井の大きな高窓から吹雪が吹き込んできて、娘達の顔にかかります。新聞紙を拾って来て掛けてあげると少しは手足が暖かくなりました。
 年が明けて1月、乗船が決まった前日に、収容所にいる日本人は広場に集めされました。
 中国の将校が壇上に立ち、手を後ろに組んで私達を睨みながら「お前達はこの中国に来て何をしたか、胸に手を当てて、よく考えてみろ。本当は一人残らず殺しても飽きたらないのだが、体だけは帰してやるからお金は勿論、貴金属などカネメのものは今直ぐそこに置け。これに違反した時は全員銃殺する。」と大声で怒鳴りました。
 私はここまでいつもお腹に巻いていた百万円余りの虎の子の全財産を足もとに置き、無一文になりました。しかし、この子達と私の生命は助けてくれるのかなぁ、と心の中で安堵する気持にもなりました。
 いよいよ天津から程近いたん空塘沽(たんくう)という港でアメリカの上陸用舟艇に乗せてもらいました。この時、運城で別れ別れになっていた主人が運良く私達を見つけて来てくれて、とても心強くなりました。
 乗船して鋼鉄の舟で揺られ、狭い舟の中で私と長女は喉の乾きを我慢しながら、周りに聞こえないように小さい声で話をして励まし合いました。
 娘「ないち(内地)ってどんなところ?・・・」
 私「山があって、川があってきれいな水がどんどん流れているのよ。」
 娘「じゃ、水にはいって遊べるねぇ。」
 娘「おばあちゃんってどんな人?」
 私「とてもやさしいよ。おいしい物をたくさん作ってくれるよ。」
 娘「ちゃみ(久美)ちゃん、抱っこしてしてくれるかなぁ。」4歳の子供ながら、不安の中にも夢をふくらませているようでした。
 船内では一日一回一つの水筒と四人分の水と、ほんの少しの外米を蒸したものが支給されます。子供は日に日に衰弱してゆくのがわかりました。外米は生米なので子供は全然食べられず、水ばかり欲しがります。 長女は栄養失調で骨と皮、つぶらな目は鋭く、お腹は大きく膨らんでいました。
 飲み水は午前中で無くなり、枕元を通る人達にかすれ声で「おじちゃん、お水・・・」「おばちゃん、お水頂戴」と足にすがるようにおねだりします。でも、誰からも一滴も貰えませんでした。
 そして、乗船五日目、佐世保が遠く見えてきたのに、声も出なくなり、冷たくなって息をしなくなりました。
 周囲の人に死んだことがわかると海に投げられてしまいます。遺体(なきがら)は何としても一緒に連れて帰るんだと思い、涙が止まらないのを我慢して平静を装い、気付かれないように注意しました。
 夜になると次女をお腹の上に寝かせ、死んだ子の頭と肩を抱いて思いっきり泣いて謝りました。
 下船までの三日間、針のむしろのような時間が長く感じました。
 下船の時は息のある次女を私が背負い、死んだこの子は手作りの帽子を深々とかぶせ、手拭いで作った大きめのマスクをさせて主人におんぶをしてもらい上陸しました。
 長女は4歳5カ月でしたが、骨が伸びたのか、背が高くなったのか、まるで棒を背負っているようでした。
 少し離れた海辺まで歩いて行き、砂浜に穴を掘り、流木を集め、拾った敷布で遺体を包み、分けて貰った重油をかけて火をつけました。
 外側のシーツが燃え、髪の毛がヂリヂリしてきて顔を火が舐め始めた時、私の心臓は締め付けられて、失神しそうになりました。
 背中の次女も衰弱していて小鼻を動かして喘いでいるので、気を取り直して、涙で歪む炎の中の我が子に向って、私が生まれた禅宗のお寺でおぼえた般若心経を必死でで何度も何度も唱え、足の震えを止めようとしました。
 火がおさまって燃え残りの中を涙で濡れる手で小さい骨を一つ一つ拾い集めました。
 命日は昭和21年1月29日で、故郷に帰り「久芳禅童女」という戒名を貰いました。あの子のお骨を私の故郷へ持って帰れたことがせめてもの慰めです。
 人生の中で、我が子を亡くすようなこんな思いは二度としたくないと思いました。が、その七年後、今度は次女の明美も疫痢で「お父さんありがとう、お母さんありがとう。」と最後の言葉を残してあっけなく死んでしまいました。
 私はこの思い出したくない鮮烈な記憶を誰にも語りたくありませんでした。
 しかし、あれから50年が経って、日本の人々から戦争の記憶がしだいに忘れ去られていくような気がしてくると、心に「もう誰にも二度と体験させてはいけない。」という思いがつのります。
 冷たくて美味しい水を小さい口に注いでやりたかった、生きていたら美味しい物を腹いっぱい食べさせてやりたかった。花嫁衣裳も着せてやりたかった。娘達に女としての、母としての、人間としてのたくさんの喜びを味あわせてあげたかった。
 私は悔しい・・・・・。
 テレビで中国残留孤児顔が映し出されます。ちょうど娘達と同じ年頃です。
 娘の命、それだけを助けるのであれば中国に置いてくる方法もあったかもしれません。でも、私にはそんな事、思いもしなかった。今でもあの極限の状況での行動を、むろん間違っていなかったと思います。
 銃口に晒された家族のさまざまな記憶を、51年めにして語ることで、薄れていきそうな平和の意味をあらためて問い直したい。
 昨年は長女の五十回忌を迎えました。次女と一緒に眠る墓前に花をたむけ、欲しがっていたお水を墓石に滝のように浴びせてあげました。

  合  掌     
(1996年度あじさい大学歴史科3記念文集「丙子文集」より)

戦後71年の今年、アメリカのオバマ大統領が広島を訪問して新しいページを開いた。
しかし、南シナ海での中国の行動、尖閣諸島では中国漁船の領海侵犯などで「きな臭い」ニュースが連日のように報道されている。
隣国同士、私利私欲に走らずに仲良くできないものでしょうか???
平和国家「ニッポン」を誰もが願っている。
苦しんで亡くなった人たちや将来のある孫たちのために数の力や武力で事を決めることだけは無いことを祈っている。