nakappのひとり言

何をするか、何をしたいのか、どんなブログになるか全然分かりませんが、一歩踏み込んでみたいと思います。ブログに初挑戦。

目を閉じてみれば !

2011年12月31日 14時40分39秒 | Weblog
2011年を振り返る。

一昨年から計画、人生最後の大仕事として長男家族との二世帯住宅がちょうど一年前の12月に完成した。
核家族時代の昨今、親と一緒に住んでくれる長男家族に感謝しなければならない。

長男夫婦が一生の買い物を一生懸命に考え、私たちの終の棲家を作ってくれた。
長姉の孫に「じいちゃん幸せ?」って言われる、「もちろん幸せ!」っと答える。

12月に完成した新築、「新しい家でお正月・・・」っと考えましたが、30年生活した家にも未練があり、今年1月7日の引っ越しとなった。

1月は30年間ため込んだ荷物(財産)、引っ越し後はごみ屋敷状態、処分には苦悩・苦痛の作業が続いた。

2月は旧宅2軒を繋いでいた渡り廊下の取り外し、築8年の新しい家を売り物件として整理・片付けの月でした。

2月から話があった築8年の家を近所の人が買ってくれることになり、3月に入ると本契約10日には引き渡しを行った。
震災前で好条件での売買、引き渡しであった。

3月11日、長男が仙台に旅行中に東日本大震災に遭遇、帰宅までの家族の心配は未曽有の災害に匹敵する心配でした。

東日本大震災は死者・行方不明者19000人超、33万人以上が現在も避難・転居を余儀なくされている。
東日本大震災の悪夢は戦後生まれの私には、引揚者の父母が話してくれた戦争の話を思い出すほどでした。

被災された方、お亡くなりになった方、ご家族・関係者の皆さんに心より弔意申し上げます。

原子力発電の「安全神話」は崩れ去り、原発事故の恐ろしさをまざまざと思い知らされ、以前ブログにも掲載した≪火を使い始めた猿≫と同じく、原発には想定外は無い、どんなことでも造った以上は想定内としなければならないと感じた。

4月は孫の入学・入園と嬉しいことが続いた、それとともに30年間住み慣れた家の荷物整理に追われた月だった。

5月は義父の逝去、初めて骨葬儀を経験、この月まではバドミントンがやれていたし、やる気もあったような気がする。

6月は父の13回忌、義父の49日の法要、新潟との往復で月の前半は忙しい日々だった。
この頃から、股関節痛・坐骨神経痛を発症、思うように身体が動かなくなりバドミントンが出来なくなった。

7月、荷物が片付いた住み慣れた家の契約が決まり、売却したが震災後の景気の低迷で業者に買い叩かれたが、後ろを見てばかりいては仕方ないと決断した。
腋の下のおできなど、体調を崩し、バドミントンをやりたくない月でもあった。

8月は臨月の娘に待望の男の子が誕生(私にとって6人目の孫)、6月頃から切迫流産の恐れがあり心配していましたが安心して孫に癒される日々でした。
月末には、たった一人の甥っ子の結婚式など吉報が多い月でもありました。

9月、前々職の先輩の叙勲のお祝い。
10月、8月に生まれた孫の初宮参り、バドミントン仲間の送別会。
11月、一年以上前に故障でバイク屋さんに預けていたスカッシュ(骨董ミニバイク)が帰ってきた。

12月は解散した羽球会のメンバーと熱海旅行で旧交を温めて思い出をつくった。

12月は喪中葉書が多く届いた。
そして、一年を通じて義父・町内会、友人、友人の親御さんなどなど礼服を着て数珠を持っての参列に出かけたのが多く、いろんな意味で、自分もそのような年齢になった事を感じた一年でした。

バドミントンが出来ない日が続いていますが、来年こそは完治して楽しいバドミントンしたいと思っています。
バドミントン仲間のみなさん、その他のみなさんも来年こそは平和で美しい日本が良い年になりますように、最後に0.1㌧に近づいているnakappのダイエットの祈念して2011年の最後の言葉といたします。

皆様のご多幸をお祈りし、来年もよろしくお願い申し上げます。


万葉倶楽部

2011年12月30日 15時33分29秒 | Weblog
年末の掃除

仏壇の掃除が終わり、昨日の午前中はサッシ&シャッター雨戸の内外の汚れ落しでした。

息子家族は嫁さんの実家(新潟・村上)に帰省、娘と8月に生まれた孫も厚木の自宅に、次男は仕事。

5・6年前に母たちと行った、万葉倶楽部にお疲れ様と一年の垢落しに行きました。

25枚の写真をこれでもかと掲載します。
屋上の足湯から写したものです。
昼(夕方)と夜の素晴らしい都会の景色を堪能してください。


大観覧車と奥にランドマーク


パシフィコ横浜全景


鶴見区大黒町方面


横浜ベイブリッジ


足湯と大観覧車、奥にはランドマークタワー


足湯全景


左手前の茶色の建物はカップラーメンミュージアム
奥には赤レンガ倉庫


望遠で写した赤レンガ倉庫


ベイブリッジ(スカイウォークは休業中)


望遠で大黒町方面を写す


夕日に染まるパシフィコ横浜


夜の足湯と大観覧車


夜のパシフィコ横浜全景


ネオンの大観覧車


大観覧車上空の三日月


ベイブリッジの夜景


のんびりと足湯に浸かりながら大観覧車を見る


夜の赤レンガ方面


素敵なおみ足


フラッシュをたくとせっかくのネオンが


お湯に浸かっている足は温か、上半身は備え付のジャンパーを着ていないと寒い


パシフィコ横浜に泊まっての夜景を見てみたい


夜の大観覧車に

満足・満足


昔、海、埋め立て地のみなとみらい(MM21地区)ビル群

来年に英気の一夜でした。

冬至

2011年12月23日 14時46分11秒 | Weblog
昨日12月22日は冬至、冬至と言えば「ゆず湯」。

我が家でも人並みに


ゆず湯に入りました


引っ越す前はゆずの木があり、ゆずも10個以上入れてのゆず湯で日本人を満喫していました。

今年は2個。

このゆずは他界した母のお友達、近所のおばあさん(94歳)が「ゆず湯に入いんな~」と4個持ってきてくれた2個。
あとの2個は食卓にのせる予定。

亡くなった母のおかげで日本人の幸せを再認識した夜でした。
”日本人に生まれて本当に良かった・ありがとう・感謝・感謝”

弱音

2011年12月17日 14時59分18秒 | Weblog
先月からバドミントンを週2回ペースにしていました。
下半身に力が入らずに寝ていても両側の大腿骨骨頭が痺れ&倦怠感があるからです。

今週、いつものように火曜日に総合体育館へ。
それなりに、ごまかしながらバドミントンして帰宅。
なんか、いつものような身体に切れが無い。

夕方、忘年会で「山鹿喜」へ。
全員が揃って「乾杯」。

背中がゾクゾク、お腹がグルグル。

目の前のご馳走も箸がすすまない。

でも、アルコールは人並みに(女性)飲んだ。

いつもなら、看板近くまで飲むのに「お先に失礼」。

帰宅して一晩、寝室とトイレを20往復くらい。

水曜日には北里東HPでMRIの予約でしたがキャンセル。

かかりつけ医院へ行くと採血&点滴3本。

少し楽になって帰宅。

木曜日も点滴・血液検査の結果、白血球数10900、炎症CRPは通常0.3のところ6.68もあった。

先生「腸障害(ノロの疑い)」。

今日も採血・点滴をしてきました。

今年4月にも腸障害の診断の時は高熱・嘔吐がありましたが、今回は悪寒・腹痛・下痢でした。

やっと、パソコンに向かえるようになりましたが、月曜日も点滴に行かなければなりません。

今年になってから、体力&抵抗力の低下は著しく自分自身情けないくらいです。
なかなか、内科的、外科的な劣ろいに対処できていないこのごろです。

♪弱音を吐いてはだめですね・♪

♪年末くらいは・・攻めないと・♪

♪来年は、もっと、もっと、攻めないと・♪

久しぶりの横浜

2011年12月08日 15時33分59秒 | Weblog
寒暖の差が大きい今日この頃、ポカポカ陽気に誘われて横浜三渓園に久しぶりに行ってきた。

三溪園は生糸貿易により財を成した実業家 原 三溪によって、1906年(明治39)5月1日に公開されました。175,000m2に及ぶ園内には京都や鎌倉などから移築された歴史的に価値の高い建造物が巧みに配置されています。(現在、重要文化財10棟・横浜市指定有形文化財3棟)
東京湾を望む横浜の東南部・本牧に広がる広大な土地は、三溪の手により1902年(明治35)頃から造成が始められ、1914年(大正3)に外苑、1922年(大正11)に内苑が完成するに至りました。三溪が存命中は、新進芸術家の育成と支援の場ともなり、前田青邨の「御輿振り」、横山大観の「柳蔭」、下村観山の「弱法師」など近代日本画を代表する多くの作品が園内で生まれました。その後、戦災により大きな被害をうけ、1953年(昭和28年)、原家から横浜市に譲渡・寄贈されるのを機に、財団法人三溪園保勝会が設立され、復旧工事を実施し現在に至ります。


園内は年配者が多く、本格的な望遠レンズ付のカメラを持っている人が多数いた。

原 三溪(本名富太郎)(1868年/慶応4-1939年/昭和14)
岐阜県厚見群佐波村(現在の岐阜県岐阜市柳津町)で代々に渡り、庄屋をつとめた青木家の長男として生まれました。幼少の頃から絵、漢学、詩文を学び、1885年(明治18)東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学、政治・法律を学びました。1888年(明治21)頃に跡見学校の助教師になり、1891年(明治24)に、教え子であった原善三郎の孫娘、屋寿と結婚し、原家に入籍。原家の家業を継ぐと、個人商社を合名会社へと改組、生糸輸出を始めるなどの経営の近代化と国際化に力を入れ、実業家として成功を収めました。実業家以外にも様々な面を持ちあわせた三溪は、住まいを本牧・三之谷へ移すと古建築の移築を開始し、1906年(明治39)三溪園を無料開園するほか、美術品の蒐集や芸術家の支援・育成を行いました。1923年(大正12)の関東大震災後は、横浜市復興会長に就任し、それまでの作家支援を止め荒廃した横浜の復興に力を注ぎました。三溪自身も書画をたしなみ、その作品の一部は、園内の三溪記念館に収蔵されています。


大池から奥には鶴翔閣を望む

鶴翔閣(旧原家住宅) 横浜市指定有形文化財 <貸出施設>
1902年(明治35年)三溪が建て、三溪園造成の足がかりになりました。 広さ290坪に及ぶこの住宅は、主に、楽室棟、茶の間棟、客間棟から構成されています。 上空から見た形があたかも鶴が飛翔している姿を思わせることから、“鶴翔閣”と名づけられました。 震災、戦災などをへて多くの改変がなされましたが、1998年(平成10年)から2000年(平成12年)にかけて修復工事を行い、建築当初の姿に復元されました。 鶴翔閣には日本を代表する政治家や文学者が集い、横山大観、下村観山といった日本美術院の画家が創作活動のために滞在しました。 こうした由緒ある歴史を背景に、現在、“利用できる横浜市有形文化財”として活用されています。 大規模な日本間や広大な前庭を有し、茶会、句会などの日本的文化活動の場はもとより、国内外の賓客接遇、結婚披露宴、演奏会や展示会など、幅広い用途にご利用いただけます。


大池から三重塔を望む

旧燈明寺三重塔【重要文化財】1457年(康正3年)建築
園内のほぼ全域から、その姿を見ることができる三重塔は三溪園を象徴とする建物です。 三溪園には、1914年(大正3年)に移築されました。
ひとこと&みどころ
燈明寺は江戸時代に宗派が変わった際に東明寺から燈明寺に改名されました。 瓦に東明寺と刻印されているのは、そのためです。


紅葉と三重塔


内苑の臨春閣

臨春閣 【重要文化財指定】 1649年(慶安2年)建築
桃山時代に豊臣秀吉が建てた聚楽第の遺構と伝えられていましたが、現在では和歌山県岩出市にあった紀州徳川家の別荘 巌出御殿(いわでごてん)ではないかと考えられています。内部は狩野派を中心とする障壁画と繊細・精巧な数寄屋風書院造りの意匠を随所に見ることができます。
※障壁画は複製画で、原本は園内の三溪記念館で収蔵し定期的に展示を行っています。
ひとこと&みどころ
部屋の境にある欄間には、波の彫刻(第一屋)や、和歌を書いた色紙(第二屋)をはめ込むなどの工夫が凝らされています。 なかでも面白いのは、第三屋「天楽の間」にある欄間で、ここには、雅楽に馴染み深い笙と笛など本物の楽器があしらわれています。
紀州から徳川家8代将軍となった徳川吉宗は幼少期、巌出御殿に遊び育ちました。


紅葉の素晴らしい木々が重要文化財とマッチしていた。


旧天瑞寺寿塔覆堂裏の銀杏は遅いくらいでしたが見事でした。

旧天瑞寺寿塔覆堂
桃山時代 天正19(1591)年建築
明治38(1905)年移築
豊臣秀吉が京都・大徳寺に母の長寿祈願のために建てさせた寿塔(生前墓)
を納めるための建築。


蓮華院の竹林

蓮華院
大正6(1917)年建築
三渓の構想による茶室

この後、外苑の高台、三重塔、松風閣の展望台からの富士山を拝み下に降りて庭園をゆっくり散策、園内を約一周してたっぷり2時間強の癒された時間でした。

昼食を食べていないのでMM21(みなとみらい)のワールドポーターズ駐車場に直行


中華を堪能

昼食後は


都会を散策


赤レンガ倉庫

中で無料のコーヒーをご馳走になり


最後はコスモワールド近くの


CUPNOODLES MUSEUM
中をチョッピリ見学(マイラーメン作りは次に)トイレタイム

ワールドポーターズで買い物し帰宅の途に。

みなとみらいから高速に乗ったのですが、久しぶりの横浜に戸惑い次の横浜公園で下りてしまった。(600円)

横浜スタジアム・中華街を車で見学、阪東橋から狩場へ(500円)。


9時間の初めての横浜小旅行を体験した4ヶ月の小さな小さな孫君お疲れ様でした。

5歳

2011年12月08日 13時30分26秒 | Weblog
今日は2番目の孫の誕生日。
夕べ次男家族が急遽来宅、一日早い誕生会を長姉の司会進行で行われた。

ケーキはお母さんの手作り

ローソクはもちろん5本

誕生日の本人と他にもローソクを吹き消す人がいた

食事は

お寿司と

ケンタッキー


ピアノ演奏や寸劇も長姉の司会・出演で終わり最後は

プレゼント

贈り物に夢中な孫たち、順調に育っているのにお父さん、お母さんに無責任な爺・婆は感謝、感謝、楽しい時間もアット過ぎていきました。

今朝、朝姉(孫)は学校に行く時、昨夜の疲れか無口状態でした。
お疲れ様でした。