ラヂオ惑星モルファス

自由ということ

かつて「自由と規律」(池田潔著)という岩波新書がベストセラーになり、中高生の頃は必読書として常にリストアップされていたことを思いだします。多くの方が概要をご存じだと思いますのでくだくだしくは述べませんが、15~6歳で読んだ頃、余りにも自分の置かれた環境とは異なるイングランドのパブリックスクールへの、ある意味での憧れに圧倒されてしまった様な気がします。勿論自由というものの価値とは何かを考えるきっかけではありました。

しかし、そもそも日本の教育や日本で優秀とされる人たちは「自分で考える」ということとはかなり遠いところにいる人たちですし、優秀な先生といわれる人も、自分の教え子がどれだけ「優秀な学校」に進学したかという物差しを当てられてしまう以上「自分で考える」教育はしてこなかったのです。

たぶん多くの日本人は「自分はこう思います」とか「自分はこう考えました」とかを「弁証法的に」きちんと説明できる力は持っていないと思います。勿論、私もそうですが・・・

さて、そういう日本人である私たちにとって「自由」という言葉はどのような作用を持つのでしょう?私は哲学も学んでいませんから分かりやすく説明は出来ませんが、まあ、辛うじて現象から・・・帰納的に描くことは出来るのかな?

様々な芸術の世界では、抽象度が高まれば高まるほど鑑賞者の自由度もまた高くなります。5~6年前でしょうか、仕事が早く終わり予約した飛行機までの時間がそこそこあったので美術館に出かけました。そこで出会ったのがモンドリアンでした・・・そう誰もが美術の教科書などでご存じの抽象画の大家ですね。何か特別な展覧会だったようですが、沢山見ているモンドリアンの内の一つ。椅子に座ってボーっと見ていましたが、なぜか心に鋭く入り込むものがありました。今正確に言葉には出来ませんが、モンドリアンを初めて見てから40年近くたって始めて心から美しいと感じたのです・・・美術の世界は「光と形象」ですね?色彩というものは1000人いれば1000通りの色彩感覚があることが分かっていますし、形の抽象度が高まればその形をどう捉えるかは自由でしょう。でも、画家の心象世界に溶け込んで美しさを感じ取ることが出来るまでこれだけ長い年月を必要としたのでした。見方を変えれば、それほどまでに私の芸術を理解するレベルが低いのだ・・・といわれるかもしれませんが。

一方、言葉を媒介にした「芸術」は、言葉という社会的な・・・人類が獲得してきた社会的な方法論・・・光や形象というアプリオリに存在するものではなく人と人が共通理解する方法・・・暗号形式として成立したのが言葉でしょうか?であれば、ある人が発する言葉を他の人が理解出来なければ、それは一つの社会としては成立せず人間という特性を獲得出来ないのかもしれません。

つまり歌にせよ詩にせよ、言葉を使う方法に「相互理解」は欠かせない要素であって、ある人の言葉はそれなりの発する意図や伝えたい意味は必ずあるのであって、言葉を聞いた人がその意味や意図を全く無視して勝手に受け止めた場合、伝達手段としての側面であれば社会は成立しない事になりますが美的な美的な感動に基づく表現としてもその美しさや感動も伝わらないのだろう・・・と思います。すなわち、自分から発せられた「言葉」をどう受け止めるかは受け手の「自由」に委ねざるを得ませんが、実は言葉を発する側は全ての自由を許容している訳では無く、究極的には自分の意図を理解すべきことを暗に求めています。その限りでは受け手の「自由」は確実に制限され、発信者の意図を理解出来ていないと感じる限りには受け手の「自由意思」を認めない、ということになるでしょうね。

これまた、私の言葉への感度が鈍い・・・ということに尽きるのかもしれませんが、この年になってようやく言葉の内奥への旅が始まったのだ・・・ということなのでしょう。


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