今年もこの日がやってきた。
私にとっても忘れられないあの日
私は当時、西日本にすんでいたので
揺れは感知していない。
阪神淡路大震災の時は自宅で寝ていて
遠くから地響きのような何とも言えない音が聞こえてきて
それから間もなくして揺れが始まった。
私の住んでいた地域は震度4だったと記憶しているが
とにかく横揺れが長かった。・・・今まで感じたことの無いような長さ
すぐにテレビを付けたが
その時は地震速報くらいで、被害の実態が分からなかった。
それから一時間も経たないうちに
次々と目を覆うような悲惨な状況が映し出されて
被害の大きさを思い知った。
2011年3月10日
なぜか私は阪神淡路大震災が思い出されて
会社の人に
「近頃地震多いですね。なんかこわい」
ともらした。
次の日、会社で普段あまりしゃべらない方が
お昼休みに
「きのう○○さんが、言ってたことが気になって昔のアルバム見てたんだ」
と、一冊のアルバムを見せてくれた。
写真をみると、そこにはがれきの山が・・・
彼は、当時大学生で神戸に住んでいて
お店屋さんの2階に下宿していて
建物は倒壊したけれど、かすり傷程度で済んだそうだ。
1階部分がぺちゃんこになっていて
気が付いたら、1階部分に自分がいたらしい・・・
明け方だったので、下には人がいなくてよかったのだが
同級生や知り合いが亡くなったり、怪我をしたり、
当時、記録として写真をアルバムにまとめたけど
今まで、つらくて見てなかったとの事。
「なぜ、今日持ってきたのか自分でもわからない・・・」と
昼休みは、みんなでその写真を見せてもらいながら
普段から災害に備えないとね と話し合った。
午後3時前、その一報は届いた。
東京出張の課長からの電話だった。
「いま、羽田で凄い地震があって、電車やバス、
すべての交通機関がストップしているので動けない
お客様に連絡してほしい」との事
私たちは大急ぎで会議室のテレビを付けると
テレビは緊急地震速報と津波警報を出していた。
福島にお子さんがいる同僚は、
テレビを見た瞬間
「今から迎えに行く」と、すぐ帰った。
信じられない勢いで、家にある食べ物と飲み物、
毛布や布団、ガスコンロやホッカイロをワゴンに詰めて
ご主人と福島に向かったそうだ。
のちに彼女はこの初動が、その後の明暗を分けたと
私に語ってくれた。
彼女夫婦は、福島原発で道路が閉鎖される前に
子供を連れて現地を脱出した。被ばくを免れたのだ。
道なき道を、真っ暗な中、ただひたすら子供を助けるために走ったそうだ。
課長からの電話はその後無かった。
というか、全くつながらなかったのだ。
勿論、お客様にも繋がらなかった。
課長は羽田空港で一泊したそうだ。
毛布とパンを配ってもらったと、後で聞いた。
その頃、私は個人的なことで人生に悩んでいた。
もう、死んでしまいたいくらい苦しい思いをしていた。
しかし、生々しい津波の映像・・・火災・・・
サイレンの音と、人々の叫び声
そして、原発の画像と
刻々と危険度を増す、放射能漏れの報道が
あまりにも現実味がなくて
でも、それは紛れもなく今起こっている事。
沢山の命が亡くなった。みんな誰かの大切な人たち・・・
生きなきゃってその時思った。
2年後に仕事で被災地を巡った。
がれきは処理され、ただただ何もない、広い平野
でも、よく見ると、玄関のタイルがあったり、土台の束があったり
そこに家が建っていた証拠が残っていた。
気仙沼では海からすごく離れた場所に大きな船が打ち上げられていた。
女川では、コンクリートの大きな建物が横倒しになっていた。
自然の力は強大だ。人類は抗えないのだろうか・・
避難所を慰問すると、皆さんが温かく迎えてくれて
来てくれるだけでありがたい。
私たちを忘れないでいてくれるだけで嬉しいと言ってくれた。
皆さんどれほど苦労してきただろう、身内や知り合いを無くした方も少なくなかった。
いま、コロナウィルスが街中に広がり
まさに、パンダミック
マスクを転売して儲けたり
トイレットペーパーを取り合いして喧嘩したり
咳やくしゃみをする人を罵倒する
あの、震災の時に
あたたかい支援を差し伸べた同じ国民の皆さんが・・・
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