もしくは、いじめた方を殺傷したり、年数を経て暴発したりと発症の仕方も多様化してきている。
私も小学生の頃は、いじめられっ子だった。
中高生になると、今度はいじめっ子となった。
でも、途中から見て見ぬふりをせず、嫌なことつまらぬ行為は止める側に回っていた。
それが火に油を注ぐようになろうとも・・・。
曲がったことが嫌いな性格は、このころ形成されたのかもしれない。
年齢を経て判ったのは、この年代は同一化、同質化を好む傾向があり、自分たちと違う異質なモノを排除しようとする。それが、学力や体力が劣っていたり、優れていたりしても同様。容姿についても相違を見つけ、仲間とするか排除するかに分かれてしまう。
これは大人世界でも同様で、田舎社会では残っている。それが今では都市社会でも見受けられるようになってしまった。
そして、外部に敵を作ることにより仲間意識を固めようとする傾向が出てくる。これは、アメリカや中国などの諸外国でもそうだが、内側が固まっていない場合、外に敵を作り、内部を固めようとする力が働く。政権基盤が安定しない時ほど、その傾向が強くなる。数が増えてくると群集心理が働き、さらにその力は増幅し、災いを拡大化していく。
そもそも、この問題は、「いじめ」と「自殺」を分けて考えねばならないと思っている。
では、何故、自殺まで行き着いてしまうのか?
子どもには子どもの世界がある。
昔なら、学校、遊び仲間、習い事、家庭、地域など、幾つかの世界観を持ち合わせていた。昨今は、これらに加え、ネット社会あるが・・・。それらがコミュティイ崩壊により、小さな集団となってしまい、それぞれの世界がより重なり、同一化するようになってしまった。
一つの世界で嫌なことが有っても、他の世界へ行けば逃げることが出来た。
それぞれの世界が共通化してしまったことにより、逃げ場を失ってしまった。
ある程度、チャランポランな子なら、その辺りが無頓着となり、上手く対応していくのだが、真面目な子、良い子と言われる子ほど、世界観が同質化してしまい、行き場が無くなってしまった。
大人の自殺でもそう。
会社社会しかない。生活範囲が小さい。交友関係が狭い。
これも、世界観が少ないせいで、クッションとなる踊り場が無い状態は同じとなる。
我が子が学校に行くようになったら、いじめの対象になり易い子だろう。
思春期になる頃、バックパッカーとして旅したアジア世界へ連れて行くつもりだ。
そこには、貧しい人、富を持つ人、病気の人、健康な人、権力に苛まれている人、希望を失わない人、様々な人たちが暮らし、生きたくても生きていくことが出来ない人がいることを見せるつもりだ。
生きるということは?
学ぶということは?
人とは?
命とは?
世界観を幾つも持つには、己の体を動かし、飛び込まないと始まらない。
強くなければ、優しくなれない。
優しくなければ、強くなれない。
過去ログ
最新の画像もっと見る
最近の「時事放談」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
1996年
人気記事