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Ciao from Asmara!

ここはエリトリアの首都アスマラ。イタリアとアラブとアフリカが混ざった不思議な街。在アフリカ歴8年のユニセフ職員の日記。

Nkhuluソマリア難民キャンプ(2)

2006-06-24 03:17:06 | エリトリア
91年に始まった、国内の紛争を逃れてやってきたソマリア人難民ためのNkhuluソマリア難民キャンプは、マッサワから内陸に10kmぐらいのところにあります。

なぜ、マッサワなのかと言えば、やはり、以前(91年~98年)は、ソマリアにより近い、先日出張で行ってきたアッサブの近くにあったようです。しかし、98年~2000年のエチオピアとの国境紛争の影響を受け、より安全な現在地に移転し、現在に至るとのこと。

現在も、約3500人が居住していて、住宅は、写真にあるような仮設のものですが、小中学校、診療所、給水、衛生施設が整う、一つの村のようなところ。UNHCRの支援を受けて、エリトリアの政府移民局の難民支援部が運営しています。

確かに、基礎サービス施設の充実度に比べて、住宅が仮設のままなのはどうしてかと疑問に思い聞いてみると、やはり、ここはあくまでも難民キャンプで、仮の場所であるというのがまず前提にあるよう。それに、ソマリ族の多くは、半遊牧民的なライフスタイルをおくってきたため、住居はそもそもテントのようなものらしい。また、とにかく暑いので、壁とかをしっかりと作ってしまうと、とても中に住めないというのもあるかもしれません。

しかし、考えさせられたのは、エリトリアには、あともう一つスーダンからの難民のためのキャンプが、スーダン国境の方にあること。つまり、エリトリアは、一人あたりGDPが200ドルぐらいの世界最貧国の一つにも関わらず、なんとか難民を支援するために努力をしていること。

独立闘争の時は、多くのエリトリア人が難民として、スーダン等に逃れていました。もちろん、政治的な思惑もあるかもしれませんが、エリトリアでは、どこかの国のように難民問題が他人事ではないのは事実です。

Dankalia

2006-06-21 01:09:36 | エリトリア
南紅海県には、Dankaliaという虫も住まないといわれている荒涼とした大地が広がっています。以前のブログでもチラッと触れましたが、日中は日陰でも50℃!想像を絶した地獄のようなところでした。

ロンリープラネットには、月のような景色が延々と続くと説明があったのですが、うーむ、写真で見る月と似ているとすれば、とにかく、石ころだらけの環境なことでしょうか。

エリトリア人の間でも、このDankaliaでは、地球上の石がすべて集まって会議をしているというジョークがあるようですが、本当にそんな感じ。地平線まで続く石ころ。観光地として、あまりアピールできるとは思えないですが、絶景と言えば絶景。

つくづく世界は広いと実感しました。


Martyr's Day

2006-06-20 01:36:42 | エリトリア
エリトリアでは、今日6月20日はMartyr's Dayという国民の祝日です。

その名の通り、エリトリアのためにこれまで犠牲となってきた人達(殉教者)への追悼の念を、厳粛に捧げることが目的です。

国家のための殉教者というと、やはり兵隊さんですが、ここエリトリアでは、独立のために女性も子どもも皆、武器を取って戦った歴史があるので、他の国での追悼とは、少し雰囲気が違うかもしれません。

あまりにも犠牲が多く、自分の家族、親戚の範囲で、この殉教者を出していない人は、まずエリトリアでは居ないですから。

もっとも最近の戦争は98-2000年。表向きは皆、陽気で気さくなエリトリア人が多いですが、身近な犠牲に今も心を痛めているのかと思うと辛いです。

一方で、大統領は今日のスピーチでも、エリトリアに無関心な国際社会、特に、米国を強く非難しています。まあ、言いえている部分はありますが、もうちょっと柔軟な方針は取りえないのでしょうか。残念ながら、国際社会は原理原則主義では動いていないですからね…。

イタリア製中古車

2006-06-18 03:44:37 | エリトリア
Ciao from Asmaraと言いながら、最近、アスマラの話を書いていませんでした。今回は、街を走る限りなく古い車です。

途上国だとどこでもそうだと思いますが、ここエリトリア、そして、アスマラでも、日本などではまず見ないようなとんでもなく古い中古車が走っています。

10-20年物はざら。なかでも30年以上になるような車がまだ現役で走っているのは、なかなかの光景。

特に、イタリア風の建築物が並ぶアスマラで、その雰囲気にあっているのが、写真にあるような60-70年代のイタリア車。まあ、この写真は、だいぶ前にマッサワに行った時に撮ったものですが…。

今では、やはりトヨタが一番人気で、街で最もよく見かける車です。しかし、フィアット、アウトビアンキ、そして、アルファロメオの、他では見たことないようなイタリア製おんぼろ車。マニアな人が見たら興奮ものなのかもしれません。

閉ざされた村の貧血の少女

2006-06-15 04:03:21 | エリトリア
それで、Aytuse村で遭遇したナイロビの蜂ジレンマですが、旱魃調査の一環で訪れた、診療所でそれは起こりました。

診療所と言っても、看護師さんが一人だけでなんとかやっているところ。彼は、非常に優秀で、かつやる気があるようで、診療所自体はしっかりと管理されていました。ちゃんと、村で予防接種をした子どものカルテをもとに、月ごとのデータをグラフにまとめているぐらいですから。

しかし、彼にもどうしようもないのが、栄養失調から重度の貧血を起こした子どもに対する治療。初期の段階だと、貧血用の鉄分補給薬があるようですが、重度になってしまうと、Aytuse村の診療所では点滴補給の治療はできなくて、40kmぐらい離れた、Tioという町にあるお医者さんのいる診療所に送らなければならないのです。

この貧血で診療所の庭の簡易ベットに寝かされていたYoditちゃん(仮名)は1歳と3ヶ月。かなり衰弱していて、見たところ7kgぐらいしか体重はない感じ。か弱い指で、横に座るお母さんの手を握る姿は、あまりにも痛々しい。

Aytuse村には、車をもっている人もいないし、電話はおろか無線機もありません。よって、Tioの町にある救急車を呼ぶこともできません。

なら、自分達が使っている、ユニセフの車にスペースがあるのでは、と思い、Yoditちゃんのお母さんに伝えました。しかし、彼女はすぐTioに向かう準備はできていなく、この案は現実的でないことを知ります。

替わりに、我々が宿泊先のGelhalo村(約250kmは離れています)に向かう途中に、Tioの診療所によって、翌日救急車を手配してもらえるようにしました。ただし、現在、エリトリアはガソリン不足。なんども、確認しましたが、ちゃんと救急車はAytuse村に向かったのか確かめるすべはありません。

そもそも、Yoditちゃんのような子は、Aytuse村にはいっぱいいて、診療所にさえ来ることができないのかもしれません。よって、彼女のことだけにこだわっても本質的な問題解決にならないでしょう。でも、その場で何もできない自分は、そこでYoditちゃんのお母さんにお金を渡しました。もちろん自分のポケットマネーを。

まさに一過性の支援。ユニセフの職員のすることではないのかもしれません。でも、その状況で、僕はYoditちゃんのためにとにかく何かしたかったのです。彼女は、日本で、沢山の食べ物も囲まれすくすく元気に育っているうちのドラ息子と、半年ぐらいしか歳がかわらないのですよ。あまりにも過酷な現実です。

ちなみに写真は、Aytuse村で驢馬と一緒に水汲みから帰る少年達です。水汲みは、集落から3-4km離れていて、炎天下の気温は40度を超えます。

出張から帰ってきました

2006-06-04 04:31:58 | エリトリア
今日一日早く、旱魃調査のための地方出張から帰ってきました。

いやー、今までいろんな所を行って見てきましたけど、ある意味で今回の紅海沿岸の旅、一番強烈でした。恐らく、人間が住める環境としては極限に近い場所ではないか、というのが最初の感想です。

確か、日本で、高校生向けのとある地理の教科書の、ジブチという国の紹介文が、世界で一番暑い国らしいですが、今回行った、エリトリアの紅海沿岸も、同じだと思います。年間の平均気温は40℃ぐらい。今、6月は多分、年間通して一番暑く、日中など炎天下には10分も居られない状況。午後2時ごろには、50℃以上あったはず。湿気も海沿いはとても高く、不快指数全開。なんと、アッサブの手前にある、Dankaliaという海抜下にある砂漠地帯など、日陰でも50℃あるとか…。

降水量も限りなく少なく、年間の平均が150mmぐらい。ここ最近は、それすら満たないとか。これはとても厳しいです。まさに、旱魃に近い状態です。

島へ渡っての調査、パンク天国、哀愁漂うアッサブの町、アファー族の暮らし、紅海のマグロ、そして、今でも思えば辛い「ナイロビの蜂」ジレンマとの遭遇。

???でしょうが、カレンダーを遡ってブログに書いていきますので、乞うご期待。

紅海のマグロ

2006-06-03 05:14:25 | エリトリア
アファー族の村々は主に海沿いにあるので、漁業を営んでいるのかと思いきや、なかなかそういう訳でもなさそうです。

とにかく、水産資源に恵まれる紅海。確かに、漁村のようなところもあるし、エリトリア政府は、この紅海の水産資源開発に力を入れたいらしく、魚を加工する工場を2-3ヶ所は建設しているとのこと。

しかし、昼食を食べようと食堂に入っても、なかなか魚はありません。テフやソルガムも入手困難なので、ミレットのようなもので作ったインジェラ、そして、ヤギ肉のソース。こればっかり。エリトリア人は、本当に肉が好きなのだなー、と実感。

メニューにないなら、その辺の漁師から直接、魚を買うという行動を思いつき即実行。なんだ、ちゃんとあるところにはあるじゃないですか。

しかも、入手したのは小ぶりだけどマグロ!紅海のマグロです。誰も他に買う人がいないようなので、値段はなんと約50円。マグロ一匹がですよ!!

それで、このマグロを食堂で調理してもらったのがこの写真。一体、どういう風に調理されるのか心配だったのですが、ちゃんとグリルされていて美味でした。まあ、刺身でも食べられたのかもしれませんがね…。

アッサブの街

2006-06-02 04:41:21 | エリトリア
旱魃の調査は、もちろん村々で行ったのですが、一応調査をする前に、県知事に挨拶をしなければなりません。そして、県の水資源省の人と一緒に調査に行かなければ意味がないですからね。プログラムを実施するのは、あくまでもエリトリアの政府であり、ユニセフではないですから。

それで、まずは南紅海県の県都(県庁所在地??)はアッサブに行くことが今回の出張の始まり。しかし、何と言っても、アッサブはアスマラから、900kmぐらい離れているエリトリアの最果ての地。月曜の昼前にアスマラを出て、途中一泊、翌日、アッサブに到着したのはなんと夜6時半。とにかく遠かったです。

アッサブは、エチオピア時代、そして、98年に国境紛争が勃発するまでは、約7000万の人口を後背地に持つ港町。それはそれは栄えていたようで、なんと、立派な石油精選工場群までありました。アジスアベバに向かうトラックは、一日200~300と言われていたみたいですし。

しかし、今は昔の栄華は全くありません。石油精選工場群は、依然、威容を誇っていましたが、誰も使う人はいません。シェル、モービル、BPという看板が、朽ち果てた姿を晒してあちこちにあるだけです。

栄えていたであろう港に停泊する船は一隻もなく、歓楽街があった通りには人はまばら。

なんでも、アッサブはイタリアがエリトリアで最初の拠点を築いた街で、瀟洒なイタリア人コミュニティーもあったようですが、今は影も形もありません。

アスマラを中心としたエリトリア中心部からは遠すぎるアッサブ。エチオピアとの関係が改善されない限り昔の栄華を取り戻すことはないでしょう。栄枯盛衰とは言え残酷な現実です。

アファー族

2006-06-01 03:35:30 | エリトリア
南紅海県に居住する人達はアファー(Afar)族。半遊牧民の彼らは、エリトリア、エチオピア、ジプチにまたがって生活しており、全体としての人口は、恐らく70-80万人を数える大きなグループ。エリトリアに住んでいる人の数は、約10万人と少数ですが。

たまたま、出張に出かける前の晩に、BBCで特にエチオピアのアファー族の特集をやっていたのですが、なんでも、好戦的で残酷なのが有名だとか…。植民者のイタリア人、イギリス人、そして、フランス人側の記録もそうですが、近隣の他民族からも、恐れられてきた歴史があるようです。

まあ、今回の出張で会った人達はそんなことはなかったですが、彼らの残酷と思える儀式、生活形態は、やはりその自然環境から大きく影響を受けている、というのが一般的解釈のようです。

ロンリープラネットで調べても、世界で最も過酷な環境に住む民族のような説明があります。あの暑さ、生活の厳しさを考えると、強ち誇張ではないかも。

厳格なイスラム教徒で、女性に対しては非常に保守的な考え方を持っているよう。30日のブログでも書きましたが、学校がある町ならともかく、ほとんどの学校がない村々では、女の子には教育のオプションが最初からないのです。誰も、寄宿舎に娘を預けてまで学校へ通わそうとしません。

5-10kmは歩く水汲みも基本的に女性の仕事。女子性器削除(FGM/C:Female Genital Mutilation/Cutting)という、世にも恐ろしい悪習も、皆、幼少期に強制的にされてしまいます。

ユニセフとして、あまりにもやらなければならないことが多すぎて圧倒されてしまいます。道のりは険しいですが、一歩一歩、エリトリア政府を共に、困難な状況にある女の子のために頑張っていきたいとの思いを強くしました。

沖合いの島にある貯水池へ

2006-05-30 18:40:16 | エリトリア
アフリカの角地域の旱魃、エリトリアで最も深刻な影響を受けている地域が、今回行ってきた、紅海沿岸地域です。

難しいのは、旱魃が急にやってきて、水不足で、人や家畜がバタバタ死んでいるわけではなく、ここ4-5年の年間降水量が非常に限られていて、その影響がじわじわきていることです。

今回の調査でも、村の人口が激減するような緊急事態はないのですが、彼らの生活環境が年々厳しくなっていることは、観察されました。

そもそも、この地域、年間降水量が100ー150mmと、農業は基本的に不可能。いわゆる、半遊牧民的なライフスタイルで、家畜が財産のほとんど。海岸沿いある村々では、漁業も営なわれていますが、非常に限定的。

よって、彼らは、家畜を売って現金を得て、食糧を購入するというのが普通。しかし、最近は、村にある井戸や、貯水池が枯渇してきたので、水も現金購入するのです。

水を買う?ミネラルウォーターじゃないですよ。生存の為の生活用水、ポリバケツ(20リットル)を70円近く出して買うのです。配給は、週に1回トラックが来ます。

もちろん、こんなシステムは持続可能なわけなく、なんとか水源を確保して、住民のための最低限の生活用水を供給できるように することが、ユニセフの水プログラムの課題。

井戸の状況を調べて、また、年間1-2ヶ月の間だけ降る雨をためておく、様々な貯水池システムも観察。南紅海州政府が、事前に実施していた地質調査に基づきながら、てくてくと回ってきました。

そのハイライトが、この写真!なんと、訪れた、人口500人ほどのSahir村は海沿いなのですが、この村の貯水池は、2kmぐらい離れた、沖合いの島にあったのです!!ナイロビから来ている緊急援助のアドバイザーも、ユニセフエリトリアの副所長も一緒に、みんなでボートに乗って、船で行けるとこまで行ったら、この様に、泥の中を歩いて島まで渡ります。

この泥が曲者で、やわらかい部分、硬い部分があって、とても危険。皆、腰まで泥につかりながら、やっとのことで島に到着。

貯水池はどこ??と思えば、なんと、島の丘の地下だとか!!

そうなのです、地下に100mmの雨水を、1年間貯めておくシステムを、村の住民は、100年ぐらい前から維持してきたようです。それが、最近は1年どころが半年ぐらいしか、水がもたなくて、上記のような、トラック配水に依存せざるえないとか。

村には、もちろん学校も診療所もありません。一番近いところでも約30km。この地域の子どもたちは、11-2歳になってから、初めて、寄宿施設のある小学校に通い出すとか。もちろん、女の子は、学校に行くというオプションが最初からありません。

かくも厳しいエリトリア紅海沿岸。ここまで過酷な社会環境を見たのは初めてです。

JICA除隊兵士社会再統合プログラム

2006-05-28 23:40:22 | エリトリア
今日は、JICA(国際協力機構)がエリトリア政府教育省と実施している、除隊兵士社会再統合プログラムの中の、第2回美容師養成コース修了証書授与式がありました。JICAの当プログラムリーダーの伊藤さん、専門家の井上さんから、ご丁寧にも招待を受け参加してきました。

今回の第2回コースは、2つの民間の美容学校で実施され、総勢60人の女性が対象。いろいろと、受講者の選考過程ではトラブルもあったようですが、今日の修了式に参加していた人達は皆堂々としていました。

実際、戦場現場を経験した人と、いわゆるナショナルサービスを終えた人等、様々な背景、また異なった年齢構成。苦労もあったと思いますが、なにより、エリトリア女性の髪形に対するこだわりの深さが、この美容師要請コースのニーズを支えているのかも。

皆、パーマを当て、編みこむのですが、そのパターンの種類の豊富さ、手間暇、お金のかけようといえば半端ではありません。この話は、いつか別途触れますね。

今回のコースを終えた、地方出身の人達は、皆、アスマラの最新のヘアスタイルを学んだということで、地元に戻れば引っ張りダコなのでは。

感動したのは、恐らく98-2000年の国境紛争の前線で半身不随になってしまった車椅子の女性が修了書をもらったシーン。彼女は恐らくまだ20代半ば。本当、立派な美容師さんになってもらいたいです。

独立記念日

2006-05-24 23:41:40 | エリトリア
今日、5月24日はエリトリアの15回目の独立記念日です。EPLFによってアスマラがエチオピアから解放された記念すべき日なのです。15年前の今日は。

厳密には、国連の監視のもと国民投票が実施され、エチオピアからの分離独立が正式に諸外国によって認められることになるのは1993年なので、13回目とも言えますが。エリトリアでは、皆、15回目として祝っています。

1週間ぐらい前から、街のあちこちに国旗が飾られ(今日の写真のように)、またあらゆる種類のパレード(トラクターとか、トレーラー(?)とか…)が行われていました。クライマックスは昨晩で、市内メインストリートでのパレードと24日0時になった時の花火。今日は、日中は比較的おとなしく、夕方にナショナルスタジアムである政府による正式な独立記念式典。

現在大統領は、紅海沿岸の港町マッサワに住んでいるのですが(誰も理由は知りません…)、さすがにこの時ばかりはアスマラにやってきて、昨晩のパレードにも参加していたようです。

夕方の式典自体は、戦闘機のショー(と言えるほど大したものではないですが)に始まり、歌と踊り、そして、マスゲームっぽい劇も交えた盛大なもの。

社会主義風なイベントであることは確かなのですが、兵隊のパレードとかは、なんともちぐはぐとしていて揃っていないのがご愛嬌。日本で、自分が小学生の時にした運動会の行進なんかのほうがよっぽど整然としていると思います。

以前、社会主義路線のアフリカ諸国で、北朝鮮のマスゲームのプロが指導をしたという話を聞きましたが(例えば、ジンバブエ)、なんでも、指導が厳しすぎて成功しなかったとか。エリトリアに北朝鮮の指導者が来たという話は聞きませんが、なんとも分かるような気がします。

ともあれ、祝独立記念日。早く、エリトリアに安定した平和が訪れますように!

ロンドンでの会合

2006-05-19 23:26:58 | エリトリア
5月17日に、ロンドンでエチオピア・エリトリア国境策定委員会(EEBC)の会合が開催されました。2003年秋に、エチオピアがEEBCの国境線最終決定案を拒否して、袋小路に陥っていた国境策定プロセスですが、3月に会議が再開され、今回はその2回目になります。

なんとか物事が前に進まないかと皆が期待していたこの会合。しかし、特にこれといった解決策は提示されなかったよう。

確かに、エチオピアはEEBCの最終案は原則的に受理すると言い、エリトリアも国境付近にいる軍は退却させる、というような話はされたようですが、まあ、これは今まで言われていることの繰り返し。

国境監視のための国連PKO(UNMEE)も、現在は、毎月、安保理で続けるのかどうか議論され、1ヶ月毎の更新といった状況。働いているスタッフにしてみれば、来月には、自分がどうなるのか分からない状態。きついと思います。

何より、大多数のエリトリア人、そして、エチオピア人は、一刻も早い国境線画定、そして、国交復興を願っているはず。南北朝鮮ではないですが、双方に、約8万人の犠牲者が出た前回の戦争が終わった2000年以降、一家離散になっている人も沢山います。

紛争が終わらないソマリア。冷戦状態のエチオピア、エリトリア。アフリカの角に真の平和はいつ訪れるのでしょうか。

警備体制の強化

2006-05-18 22:28:27 | エリトリア
無線点呼の話の続きですが、ここ最近は、普通に市内へ外出する時もトランシーバーを携帯するように、と国連のセキュリティーオフィサーから通知がきました。

なんでも、5月24日の独立記念日を前にアスマラ市内の警察や軍による警備がものものしくなっているからですが、トランシーバーって結構嵩張るので、持っていっても車に置きっぱなしだったりします。意味ないですね、これでは…。

昨年、一昨年と、独立記念日を前にしたこの時期に、大統領に対しての暗殺未遂(もちろん、これも公にはなっていません。念のため)があったりしたので、一応厳戒体制なのです。ハイ。

しかし、今回の警備体制の強化はかなりのもので、PKOのエリトリア人スタッフなど、いきなり11人も警察にしょっ引かれて、4日たって今もまだ1人しか釈放されていません。うーむ、恐るべし。もちろん、理由など誰も教えてくれませんよ!

夜8時以降は、車も検問で止められることが多いとのことで、要はあまり出歩くなとのお達しもあり。

まあ、3月6日のブログで書きましたが、僕はここエリトリアではチャイナ扱いで、しかも、エリトリア人の対中国人感情は比較的良いので、この点で安全とは思いますが。

駱駝の話(2)

2006-05-11 23:55:05 | エリトリア
さて、間があいてしまいましたが、駱駝の話、第2弾です。

駱駝がエリトリアのシンボルだという話を書きましたが、まさに、この写真にあるとおりです。保健省の公文レターヘッドなのですが、中央に駱駝。その下に、英語、左側は、ティグリニア語、そして、右側はアラビア語と、ちゃんと3つの言語(文字!)でエリトリア政府、保健省と書かれています。

さてその理由ですが、やはり、エリトリアと言えば、独立解放闘争なので、それに関連しているのでは、と推察していたのですが、やはりその通りのよう。

なんでも、過酷なゲリラ戦現場で、とにかく役に立ったのがこの駱駝。もちろん、乾燥地帯には、もともと沢山生息していたこともあるでしょうが、重たい荷物を背負って、一日に何十キロと行軍していた中で、少ない水で生きられる駱駝は本当に貴重だったようです。

エリトリア人曰く、駱駝無しでは独立は出来なかった。だから、国のシンボルだと。

しかし、この無名戦士ならぬ、駱駝をシンボルにしてしまうところに、エリトリアらしさを実感します。そうなのです、もう一つの国のシンボルは、これまたゲリラ戦で重宝したゴムサンダルなのですから。

この話はまた今度!