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Ciao from Asmara!

ここはエリトリアの首都アスマラ。イタリアとアラブとアフリカが混ざった不思議な街。在アフリカ歴8年のユニセフ職員の日記。

旱魃後の洪水

2006-08-23 05:27:33 | エリトリア
お隣のエチオピアで、河川が増水した洪水によって1000人近くの犠牲者が出ており、心が痛みます。1000人近い死者って、日本だととんでもない大惨事ですよね。

なんとも、皮肉なのは、ここエリトリアも含め、アフリカの角地域は、ここ最近酷い旱魃状態だったわけで、念願の恵みの雨が洪水を引き起こしていること。

エチオピアの惨劇ほどではないですが、エリトリアのスーダン国境に近い、Tessenyという街の近くでも、河川が氾濫して、何百という単位で家が流されてしまいました。ユニセフとしても旱魃の次は、洪水の緊急援助モードです…。

しかし、普段乾燥している、この地域では、突然の雨による洪水ということはよく起こるようです。年間通して、ほとんど乾いている砂漠の川に、突然、鉄砲水が流れてきて、犠牲になる人はエリトリアでもかなりの数になるそうですから。

在外エリトリア人(その2)

2006-08-20 05:18:32 | エリトリア
在外エリトリア人ですが、彼らは見た目エリトリア人ですが、やはり全然違います。

特に、若者。着ている服、仕草、アメリカ訛りの英語、見てすぐBelesと分かります。無理も無いですよね、彼らの多くは、海外で生まれ育って、エリトリアには年1回の夏休みに帰ってくるだけなのですから。

アスマラで一番良いホテル、インターコンチネンタルでも、この時期はこのBelesの若者だらけ。インターコンで遊べるのは、もちろん彼らぐらいしかいないわけですからね。

でも、なんだか複雑な気分にさせられます。結構、彼らは、これ見よがしにお金を使っている感じがするので。

海外に行ったことのないエリトリア人にしてみれば、やはりあまりいい気持ちはしないと思います。Belesという表現に、その辺の気持ちも含まれているのかもしれません。

在外エリトリア人(その1)

2006-08-19 22:47:38 | エリトリア
昨日の話で、現在帰国中の在外エリトリア人達のことに触れましたが、今日は彼らについて少し。

エチオピアからの30年に及ぶ独立解放闘争の間に、多くのエリトリア人が当時のエチオピアから、政治亡命として世界中に散らばりました。主な行き先は、やはり、米国、カナダ、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、オランダ、ドイツ、そして、イギリス。特に、米国、カナダ、スウェーデン、ドイツあたりがマジョリティーの住むところ。

大分前に書きましたが、彼らの多くは、米ソ両国を敵に回していた、当時のエリトリアゲリラ軍(EPLF)を経済的にも政治的にも支援していたようで、その貢献は今でも語り草になっています。本当に、苦しい時で、国際社会は誰も何もしてくれない中、在外エリトリア人だけが頼りだった、と。

実際、その貢献が評価されてか、彼らは現在のエリトリア政府によっても特別待遇です。アスマラに家を建てるための土地を優先的に与えられているようですし。

しかし、エリトリア政府もちゃっかりしていて、彼ら在外エリトリア人が年に1回帰ってくる時のビザを無条件で発給する条件に、在外エリトリア人税なるものを課しているのです。年収の10%ぐらいといいますから、これは外貨不足に苦しむエリトリア政府にとって、かなりの収入のはず。

面白いのは、彼らのことを、普通のエリトリア人達は、Belesと呼んでいます。そうです、8月3日に書いた、サボテンの果物Belesです。Belesの季節にだけ、やってきて、そしていなくなってしまうからだそうです。

寒いアフリカ…

2006-08-16 03:22:20 | エリトリア
日本、特に関西は猛暑のようですね。BBCでも、大阪は37℃とか表示されていましたから。

し、しかし、ここアスマラ、毎日寒いです。南半球の、南アやレソトにいた時は、まさに、季節が反対ですから、この時期は寒いのですが、エリトリア、一応、北半球なのに。

8月5日のブログでも書きましたが、雨季のため、一日の日照時間が限られているというのが原因ですが、それにしても寒い。さすがに、標高2400m。多分、夜は10℃以下。そうです、アフリカにも寒いところはあるのですよ。

今も、セーターを着てこれを書いています…。

Refugee Boy

2006-08-14 03:59:31 | エリトリア
ある書評を読んでどうしても読みたかった本を最近読み終えました。「Refugee Boy」というタイトルで、Benjamin Zephaniahが著者。邦訳は出ていませんが、日本のアマゾンでも買えるため、前回の帰国時に買ってきました。

いやー、ノンフィクション小説なのですが、正直言って、かなり泣けました。本当に、読みながら泣いてしまいましたから。

内容は、エチオピア人の父親、エリトリア人の母親を持つある男の子が、98-2000年のエチオピア-エリトリア国境紛争の最中、イギリスに逃れてきて難民として暮らしていこうとする話。

戦争状態になった、エチオピア、エリトリア両国から歓迎されない、まだ14歳の彼は、数々の悲劇に直面しながら、懸命に生きていこうとします。また、その彼を、必死で支えようとする、幾多の普通の人々。最終的に、彼にイギリス政府(裁判所)から正式な政治難民認定がおりるとこでストーリーは終わるのですが、恐らく、著者自身がこの少年のモデルだと思います。現在は、アーティストとしてイギリスで活躍しているよう。

実際、エチオピア人、エリトリア人の夫婦は沢山いて、前回の戦争の時の悲劇は、いろいろと聞いてきました。ユニセフエリトリア事務所にも、妻も子どももエチオピアに残したまま、エリトリアに強制送還されたスタッフが何人かいます。

ある日、突然、警察がやってきて、家族も家も財産も全てから切り裂かれエリトリアに送られたようです。本人がエリトリア人というだけで…。この反対、つまり、エリトリアからエチオピアへの強制送還も当然起きていたでしょう。

彼らは、今となっても、自分の家族と電話で話すこともできません。最近は、Eメール等があるでしょうが、自分の配偶者や子どもと会うことは、両国の国境問題が解決するまでないでしょう。

この小説の主人公はまだイギリスという新しい場所を見つけられただけ幸いなのかもしれません。外国人排斥運動が起こることはあれど、やはり、多くのイギリス人にとって難民を受け入れるということは生活の一部のようですから。

あるエチオピア軍准将の亡命?

2006-08-11 21:13:33 | エリトリア
BBCで、ロンドンでのテロ未遂事件に関する、特別プログラムを見ていたら、なんと、画面下のテロップに、臨時ニュースとして、エチオピア軍のある高官がエリトリアに亡命したと、流れているではないですか。

なんじゃそりゃ、と思い。エリトリア政府情報省のホームページ(エリトリアで唯一のメディア!)を覗いてみると、おお、早速いろいろと書かれてありました。その日の晩には、エリトリアで一つだけあるTVチャンネルで、特番インタビューが組まれていたようですし。

Gelchi氏という、その高官はエチオピア陸軍准将の立場。エチオピアで、反政府活動を実施していているオロモ解放前線(OLF)(オロモ族は、エチオピアの人口の約4割を占める最大多数者ですが、政治経済的な実権を握る主流派ではない)の活動をさらに支援するために、まずはエリトリアにやってきたのだとか。

まあ、エチオピアにある、多くの反政府グループは、物質的にも軍事的にもエリトリアの支援を受けているというのは周知の事実。よって、オロモ族の彼がエリトリアに亡命というのはわからないではないのですが、なんと、彼は、100人以上の彼自身の部下達と、武器、装備もろとも越境してきたらしいのです。

これは、結構な数。大国エチオピア側は、たんなる小数派の反政府分子の行為と見ているようで、特に騒ぐ感じでもないですが、エリトリア側にしてみれば、一大ニュースですよ。やはり。これからどうなるのでしょうか…。

死者へ対する敬意

2006-08-08 04:34:06 | エリトリア
昨日、同僚が亡くなったという話を書きましたが、彼の葬儀に参列した時に、驚く体験をしました。

カソリックであった彼の場合、まずは自宅での聖職者による儀式、そして、教会へ場所を移しての次の儀式が終わった後、埋葬する墓地へ、遺体を先頭に行列行進をしたのですが、その時でした。

教会から墓地へは、約2kmといった距離で、比較的、交通量の多い主要道路を通りました。したがって、道行く人や車も多いわけですが、なんと、通りにいる歩行者は皆、我々の行列が通りすぎるまで、じっとこちらを向いて黙祷しているではないですが。しかも、歩行者だけではありません、道沿いの家々の住人も家から出てきて黙祷。対向車線を走る車のドライバーも、皆車を止めて、車からわざわざ降りて黙祷。路線バスすら、停車して、ドライバーもバスの乗客も皆黙祷。

誰もイライラしたりしません。じっーと、子どもも大人も、男性も女性も、行列に向かって敬意を払っているのです。驚きました。そして、なんとも熱い物が胸からこみ上げてきました。

生前の社会的地位とは関係なく、また、通りを行く人にとっては赤の他人である死者に対するこれほどの敬意。エリトリア人にとっての連帯感とはこういうことなのか、と強烈に認識させられました。

アスマラの雹

2006-08-05 04:21:34 | エリトリア
アスマラは最近、雨ばっかり。もちろん、年間10ヶ月はほとんど雨が降らないのですから、これは大切な大切な恵みの雨です。

日本の梅雨のように、何日も雨がやまないということはなく、長時間降っても3-4時間か。

それでも、空には厚い雲が垂れ込めていて、すっきりはしません。また、この雲の影響で、日中でも結構寒いです。日によっては、20℃に達さない時もあると思います。以前のブログにも書きましたが、まさにアスマラの人にとって今は冬なのです。

ところで、アスマラの雨で怖いのは突然降りはじめる大粒の雹!2年前に撮ったこの家の庭の写真からは、分かり図らいかもしれませんが、地面に広がる氷がそうです。

バタバタという音をたてて突然降ってきます。車とか傷つきますし、歩いていたら大変です。ここ最近は降っていませんがね。

まさに、アスマラは高山性気候なのでしょう。

Beles(べレス)

2006-08-03 03:05:58 | エリトリア
現在雨季真っ最中ですが、この季節と言えば、昨日書いたExpoとBeles(べレス)!

そうです、べレスというのは、この写真の子ども達の足元にある果物。この季節だけ出回っていて、なんと、これサボテンです!!

毎日、毎日、悪天候にも関わらず、こうやって子ども達が売り歩いています。「竿竹ー、竿竹ー」ならぬ、「べレース、べレース」といった風に。

それで、肝心なお味ですが、これがなかなかいけます。洋ナシとメロンの中間のような感じ。

思えば、学生時代住んでいたロンドンで、92年ごろから、Kiwano Fruit(意味不明)という名前で売っていたのが、このべレスでした。結構高い値段だったと思いますが、確かに美味しかった記憶はあります。

しかし、露天で売っているものを買うときは要注意!丸ごと買って来て、家で食べる分にはいいでしょうが、その場でカットしてくれるのは問題あり。そう、ナイフが衛生的でない可能性大ですから。僕も、1回これで2日ぐらい苦しみました…。

年に一度のお祭り

2006-08-02 03:30:50 | エリトリア
毎年この時期になると、日本のようにお祭りがアスマラでもあります。

その名もExpoで、街のはずれの大規模イベント会場のようなところで、約2週間ばかり開催されます。この間、日替わりで、いろいろなイベントがあったりします。

しかし、アスマラは現在雨季で、毎日のように雨が降ります。なんでまた、年間で一番天気が悪い時に、このお祭りを開催するかと言えば、なんでも、この時期は、世界中に散らばって暮らしているエリトリア人(エリトリア系移民)達が本国に里帰りする時と重なるからです。

それで、どういったイベントが行われているかですが、Expoという名の通り、エリトリアの各地方の名産展のようなものが主。いろいろな屋台が出ていて楽しいのですが、とにかく人だらけで、なかなか目的の場所には辿り着けません…。

その他は、子ども向けのアトラクションで、蒸気機関車がイベント会場を走っていて一番人気です。また、駱駝に、お金を払えば乗せてくれるサービスもあります。

一方、世界各地から帰省しているエリトリア移民達が、国ごとに自分達の生活を紹介するパビリオン(まあ、そんな大したものではないのですが…)を出していたりします。米国在住グループとか、ドイツ在住グループとか。

まあ、普段は娯楽がないエリトリア。アスマラ市民は、この年1回のイベントを楽しみにしているようです。

驢馬車

2006-07-28 04:07:36 | エリトリア
昨日の話に続いて、またも愉快なエリトリアの一面について。

これも、前回の出張時にKerenの街でとった写真で、驢馬とその荷車。でも、よく見ると、なんとナンバープレートがありますよね。ちゃんと、自治体毎に登録されているようで、マークになんとも愛嬌があります。

アスマラでも時々見かけますが、やはり、多く見かけるのは地方都市。この驢馬車が、車の間をのんびりと走っています。

もちろん、馬車でもこのナンバープレートは必要なようですが、実は、あまり馬はエリトリアでは見かけません。驢馬でなければ、やはり駱駝ですね!

直立するヤギ!

2006-07-27 04:47:07 | エリトリア
今日は久しぶりにエリトリアのことについて。

麻疹キャンペーンの出張で、アンセバ県に行った時に目撃したのですが、この写真の光景、かなり笑えません?!

まあ、旱魃の影響で地表に食べるものがないからとも言えないことはないですが、エリトリアでは結構良く見られるシーンなようです。

なんでも、家畜も食糧不足のせいか全体的に痩せ気味。ぶくぶくと肥えたヤギには出来ない芸当かもしれません。木々には良くないとエリトリア人のドライバーは追っ払おうとしていましたがね。

Kerenの街

2006-07-03 04:45:00 | エリトリア
今回の出張で基点とした街はKeren。一応、エリトリアで第2の都市です。まあ、人口は、8万人というところなので、郷里の阪神間の住宅街、芦屋市とさして変わらない規模ですがね。

とは言っても、いろいろな歴史には溢れた街です。バオバブのマドンナは、3月22日に書きましたが、そもそも、第2次世界大戦中のイギリス軍にとって、ここKerenはアフリカ最大の激戦地。

Kerenからさらに、西の方へはずーっと細長い谷を下っていく地勢になっており、これが、スーダンからイタリア領のエリトリアを攻め込みたいイギリス軍にとって難攻不落の天然の要塞になっていたのです。最終的には、Kerenは陥落し、イギリス軍の手に落ちますが、この時の犠牲者の数は双方にとってかなりの数だったとか。

また、エチオピアからの独立戦争時も、Kerenは常に、解放軍とエチオピア軍の激突の舞台で多くの血が流れました。

一方、現在の主要な観光資源は、なんと、毎週月曜日に開かれる駱駝市!そう、駱駝を売買する市が立つのです。100頭以上はいる駱駝が、所狭しと並べられて、買い手を待っているシーンは想像するだけで凄そうだと思いません?

残念ながら、今回は5日間もKerenに滞在したのに月曜日にはあたりませんでした。なんとか、エリトリアを離れる前に一度この駱駝市は見たいです。

仕事熱心なエリトリア人

2006-07-02 22:30:30 | エリトリア
今回のキャンペーンに参加してつくづく実感したことは、エリトリア人の真面目さと、仕事熱心なことです。

確かに、5日間の間に、対象としている地域すべての乳幼児に、予防接種と、ビタミンAを投与するという目的が非常に具体的で、わかりやすいというのもありますが、とにかく、現場レベルでかかわっている人がテキパキと仕事をこなしている姿に感動しました。

県の保健省スタッフ、診療所の保健士のみならず、現場の村でのボランティア達、みな自分自身の役割が何かしっかり理解して、きびきびと動いていましたから。

ある村では、4日目の午前中に既に対象となる乳幼児の95%をカバーできていましたが、「後、残りは12人で100%!午後も頑張ろう!!」と、看護士がスタッフにはっぱをかけてました。

他の県を訪問してきたユニセフの同僚も同じようなコメントをしていました。彼女は、過去20年、世界中いろいろなところで予防接種キャンペーンを見てきたそうですが、今回のが一番凄いと感動していました。

Hagazワイン

2006-06-30 22:01:13 | エリトリア
実は、今回出張で行ったアンセバ県には、有名な国営農業学校があるHagazという町があります。なんでも、麻疹とビタミンAのキャンペーンの記念式典も、この農業学校で行われました。

学校のことは、前から聞いていたし、何度も前を通っていましたが、今回初めて中に入って驚きました。ここでは、ワインからチーズまで作っているのですが、その施設の立派なこと。かなり本格的です。緑の中、たわわに実る葡萄を見ると、旱魃の影響を受けている国にいるとは、とても思えません。

そもそもはカソリックの修道女達が始めた、このワイン、チーズ事業ですが、ちゃんと軌道に載っているようです。ワインなど、以前は、ローカルなもと言えば、それはひどいものしかなかったエリトリアですが、このHagazワインのお味はなかなかのもの。

JICAも、その除隊兵士のためのプログラムの中でこの農業学校と連携しようとしているとか。なんでも最近は、フランスはプロバンス地方のある農業学校から技術支援も受けているようで、いつか、Hagazワインが有名になる日がくるかもしれません。