目の前の相手は、目に見える相手です。
中には触るだけとか、聞くだけかもしれません。
目の前の相手とは、肉体という形ではありません。
また、肉体という名前でもありません。
名前と肉体に内包している存在。
それは真我です。
真我という愛の塊を目にし、触り、聞いています。
「いやいや、そんなわけないよ。愛の塊とはいっても、その相手は自分に嫌なことを言ったり、嫌なことをしてくるよ」
というかもしれません。
ごもっともです。
確かに、相手は、あなたに嫌なことを言ったり、嫌なことをしてきます。
しかし、その時、その一瞬は嫌な思いはするけど、長い目で見たらどうでしょうか。
生まれてから死ぬまでの一瞬の嫌なこと。
しかも、その一瞬の嫌なことは、自分を育ててくれていた。
嫌なことが自分を進化させていた。
避けられないことならば嫌なことを受けてみよう。
そういう気持ちが一瞬の嫌なことで自分を進化させるかもしれません。
誰にも嫌なことはありますよ。(私もあります)
けど、嫌なことはなくせない。
ならば嫌なことを感じることが幸福だった。
生きてこその嫌なことであり、もし、今、生きていなければ嫌なことすら体験できない。
生きるとは嫌なことと、いいことのセット。
どちらか片方に偏ることはできなかった。
だから、嫌なことをあるということは同じくらいいいことがあるということです。
では、いいことがあったら嫌なことが起こるのか?
この程度の嫌なこともあって幸福です。
このくらいの気持ちでいいと思います。