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暮らしの豆知識、yumikoのブログより

ブログに興味を持ち、初めてのブログを作ります。生活の上での豆知識などを発信していきます。

無縁坂の意味、由来を調べました。

2019-02-22 20:12:00 | つぶやき、ひとりごと

忍ぶ 不忍(しのばず) 無縁坂

無縁坂(むえんざか)1975年、さだまさしさんが『グレープ』時代、その最後にリリースした名曲として知られており、私は聴く度に涙が出ます。だからなるべく聴かないようにしています。

 

東京都台東区池之端1丁目から文京区湯島4丁目へ登る、現在も実在する目立たない坂道です。私は今日無縁坂の意味、いわれなどを調べていました。そしたら今日この歌の奥深さを知りました。

無縁坂とは、『無縁仏』をイメージさせるものでありまして、事実、坂の上には行き倒れの無名の死者を葬る『無縁寺(現・講安寺)』があったことが、この呼び名の由来であると知りました。また、現在でも坂の左側の司法研修所(旧・岩崎弥太郎邸)は高い木々に覆われており、日中でも薄暗く、カラスの鳴き声も聞こえたりして、いかにも『無縁坂』という気配が漂っているような気がします。

無縁坂の坂道とはその坂道が、人生のたとえになっております。後ろを見る、というのは、過去を振り返る、という事でございます故、後ろを振り向くなという(主人公の)『母』の言葉は、過去を振り返っても仕方ないと、我が子に言い聞かせているところでございます。無縁坂のこの歌詞は、さだまさしさんが幼い頃に書いた小説の冒頭を歌にされたものだそうで、その小説では『坂の上に父親の家があった』という続きがあったそうでございます。坂道を、小さな子供の手を引いて、ため息をつきながら子供の父親の家に向かう女性。どうも普通の夫婦ではないようでございます。

私は無性に知りたくなった『忍ぶ 不忍(しのばず) 無縁坂』という本当の意味を!主人公の言う『僕の母』とは、独り淋しく死んでいった、無名の行き倒れの女性の一人に数えられていたようで(憶測です)。坂の下には不忍の池があり、その名はもう耐えられそうにない身投げの名所のような霧を放っているのは何故でございましょうか。耐えられるか,いやもう耐えられそうにないかという、2つに引き裂かれながら、危うく存続している母の人生。『忍ぶ 不忍(しのばず) 無縁坂』そういう危ういところで保たれた『かみしめるような ささやかな僕の母の人生』を感じ取り、少年の心で綴った詩であると私は思いました。

。『母はすべてを 暦にきざんで 流してきたんだろう 悲しさや苦しさは きっとあったはずなのに』悲しさや苦しさは明白にありましたが、それを不平不満のじゃじゃ漏れにせず、母は『ため息』の中に昇華し続けたのでございます。『運がいいとか 悪いとか 人はときどき 口にするけど めぐる暦は 季節の中で ただよいながら 過ぎてゆく』この少年の母は、不運だったにちがいないですが、それも一局の人生であり、月日はいつでも淡々と流れ、辛さ、淋しさは、時として乱暴に肌を刺したりいたしますが、それでも生き続ける、生き続けなければならないと思うのが、その当時の母親でございました。自分の愛する者(我が子)への、優しさだけを生きる価値として。

これは一時代前にはどこにもいた、何より子供にだけ優しさと正しさを注いでくれる『忍ぶ不忍無縁坂』型の母親でございます。ふっと、そういう母親の姿を『かみしめ』たくなる『ささやかな 僕の母の人生』というものが、あの一時代前には沢山あったはずなのに

この無縁坂を歩きながら、我が母の我慢に我慢を重ねた『ささやかな人生』を思い、この歌と重ね合わせますれば晩秋の空は高く、心の色は青かっ""忍ぶ 不忍(しのばず) 無縁坂

雑草ポエム より引用。

#無縁坂 意味

私は元主人との別れは、突然でした。私が好んで別れた訳ではなく、別れなくてはならない事情ができてしまいました。だから、この歌が自分みたいで。でも明るく強く生きています。メソメソしても仕方ないから。


ひとりごと

2019-02-22 04:24:00 | つぶやき、ひとりごと

 

 

 

"ありがとうは奇跡の言葉~人生は素晴らしい~よりありがとうは奇跡の言葉である。口に出せば、元気が出る。耳に入れば、勇気がわく。 私自身、毎日、朝から晩まで「ありがとう」「ありがとう」と言い続けている。 外国に行った時も、「ありがとう」の言葉だけは現地の言葉で伝えることにしている。「サンキュー」「メルシー」「ダンケ」「グラシアス」「スパシーバ」「謝謝(シェシェ)」。それを、心を込めて、きちっと相手の目を見て言っているつもりである。 「ありがとう」を言うとき、聞くとき、人は心のよろいを脱ぎ捨てる。人と人とが深いところで通い合える。「ありがとう」が非暴力の真髄なのである。 「ありがとう」の中には、相手への敬意がある。謙虚さがある。人生に対する大いなる肯定がある。前向きの楽観主義がある。強さがある。「ありがとう」と素直に言える心は健康である。だから「ありがとう」を言うたびに、あなたの心は光ってくる。体にも生命力がわく。サンティアゴ博士が師匠に捧げる感謝の熱さに、私は感銘した。 自分が、どんなにたくさんの人やものに支えられて生きているか――ありがたいと思う、その自覚が、感激が、その喜びが、さらに幸せを呼ぶ。 〈幸せだから感謝する〉以上に〈感謝するから幸せになる〉のである。 「祈り」も感謝しながらの祈りこそが、最も大宇宙のリズムと合致し、人生を好転させていく。 「ありがとう」と言えない時、人の成長は止まっている、成長している時、人は他人のすごさが見えるからだ。成長が止まると、人の欠点ばかりが目につくからだ。 ~人生は素晴らしい~より抜粋

一人の乙女が都会に憧れてやってきた。都会で一人の男性と出会った。弟みたいで話しやすかった。付き合おうとか惚れたとか別に思わないで、話しやすいので普通に接してた。それがいつの間にか付き合ってた。でも女性はその男性がいつも弟みたいだった。家族になったような感覚だった。でも別れは不意にやってきた。無理に引き離されるような別れが。女性は最近思う。男性と付き合う時は弟みたいだなんて気持ちで付き合うと駄目だなあって。