霊はあるのか。石原慎太郎の「弟」を読んで、そんな事を感じるようになった。今日は、母の命日である。母は、幼い頃から心優しい教師だった。何故、僕はこのような日に霊について書くのか疑問に思う人もいるだろう。僕の洋間の部屋には、文学全集があった。50冊くらいある文学全集から、生まれて初めて活字に触れたのが作家の「三島由紀夫」だった。幼い僕は、その本を指してこの漢字は何と呼ぶのか聞いたものである。母は大人になったら作家というものの描写の仕方がわかる旨を小さな声で囁いた。そうして、国語と心理学の教師は、注意をそらそうとディズニーの映画を見せてくれた気がする。また、僕が建築に興味を示すと、シルバニアファミリーの家族を買ってきてくれた。目を閉じてと母は言った。
僕は、20才の成人になっていた。それまでに、色々な事があった。青春時代の思い出はここでは省こう。大学に入学した。常に、母が支えてくれた事を示そう。僕は九段下の満開の桜の下で入学式を迎えた。そして、すぐに学友が出来た。最初に友達になってくれた学友は自由が丘に住んでいた。学業に励んだ。それから、ふと生まれた時から忘れられない「国語の先生」と呼ばれた三島の文学を読み漁る機会が来た。文章は、僕よりも何段も上で「死」の予感を漂わせながら、すれすれで輝く女性の描き方がもの凄くうまかった。中でも「沈める滝」は、傑作だった。昭和の中で「あなたは私にとってダムでした」と男の凛々しい姿をいうのである。一方、主人公の貴公子、城所昇は功利主義の役割を果たす小物、瀬山が「感動しない人が好きなんだ」とヒロインに告げ口するところを出世や位相の為に、茂みの中で隠れてきく。女性を引き止める事なく、茂みから出ていかないのだ。そうして、ヒロインは(ダム現場の壮絶さをみて)「あなたはダムでした」という。
古代ローマから、霊についてはずっと考えられている問題である。それは、雰囲気が盛り上がっているところではわからない。また、わかるはずもない。そうして、僕は24才の11月24日から書かれた「仮面の告白」という作品に辿り着く。そうして、三島神話が終わり、石原慎太郎が治める東京都で、市ヶ谷の隣の神楽坂で、女だけが行列になって踊る阿波踊りを彼女と見ることになる。僕はちらりと女たちの群れをみていた。「仮面の告白」では、キリスト教のお嬢様に「いつ?」「どなたと?」と童貞を捨てた事を何回も聞かれて、疲れ切って男たちをみて終わる。僕は「女を見ていた」
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