ほろ酔い日記

 佐佐木幸綱のブログです

名著探訪 川田順『戦国時代和歌集』  1943年9月・甲鳥書林刊

2016年07月26日 | 評論
 武道館で刊行している「武道」という月刊雑誌がある。そこに二年間「もののふの歌」というエッセイを連載した。武人や武士が作った歌、武道に関する歌等に関する短いエッセイである。その折に出あったのがこの川田順『戦国時代和歌集』(昭和一八年・甲鳥書林刊)である。これだけ多く武人の短歌を収録した本は他にない。
 まず武士の歌について書いた本が少ない。一昨年だったか、小川剛生『武士はなぜ歌を詠むか』という本が出て話題になったのをおぼえておられる読者もあるだろう。話題になって当然の充実した内容の本だったが、珍しさに注目した読者も少なくなかったはずだ。
 川田順は、そうした中で、武人の歌をもっとも広く読み、多く論じた歌人だった。ここでとりあげた『戦国時代和歌集』の他にも、有名な『吉野朝の悲歌』がある。そして『幕末愛国歌』『戦国武将歌』等、武人の歌に関する何冊もの著作を残している。

 武士たち、武将クラスの武人たちは、真面目に和歌に打ち込んだ者が多い。平安時代末期に最初の武士として歴史に登場する源氏・平家の武将たちから、江戸末期の大名・武士にいたるまで、しかるべき武人は当然のように和歌をたしなんだ。
 中には文学的に高い水準の歌を詠んだ武人も少なくない。川田順によれば、二十一代の勅撰集に入集した武人はおおよそ二百人ほどいるという。すぐれた家集を残した者も多い。有名なところでは、太田道灌の『慕景集』、細川幽斎の『衆妙集』、木下長嘯子の『挙白集』などがあり、これらは和歌史にもその名をとどめている。

 武人はなぜ熱心に短歌を作ったのか。
 武将にとって、人間関係の構築・調整は生き抜くための基本中の基本だった。歌には贈答という伝統的な方式があり、また、歌会という公認された形式があった。歌の贈答、歌会への参席は、武人たちの人間関係の構築・維持・調整の場として、重要かつ貴重な役割を果たした。
 上記の『武士はなぜ歌を詠むか』は、人間関係構築にかかわる和歌の効用を熟知していた人物として源頼朝の名を上げて、こう書いている。
 「頼朝自身はすぐれた歌才の持ち主であった。側近と詠み交わした和歌が吾妻鏡に記録されている。いずれも場の緊張を和らげたり、相手の機知を試したりした即興の詠である。家臣との人間的紐帯を強めるために、あるいは京都の要人との交渉にも、頼朝は和歌の力を利用したようである」。

 頼朝は盛んに慈円と歌の贈答を交わす。慈円は言うまでもなく当時の京都の最重要人物の一人であった。頼朝は歌によって慈円と深い人間関係を構築し、都の情報を得、貴族との人間関係を緊密にしていったのだ。頼朝は『新古今集』に二首採録されているほど、レベルの高い歌の作者で、歌が好きな人物でもあったが、それだけではなかった。鎌倉幕府の運営・安定のために京都方の情報収集のために歌を利用したのである。

 歌会を盛んに行った武将として知られるのは豊臣秀吉である。何度も大がかりな歌会を開催し、戦国武将を一同に集めてはそれぞれの忠誠心の軽重をはかった。
 たとえば天正十六年四月には、聚楽第に天皇の行幸を仰いで、作者七十人におよぶ盛大な歌会を行っている。徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、堀秀政、蒲生氏郷、細川忠興、織田信秀、丹羽長重、大友義統、長宗我部元親……等々、錚々たるメンバーが参会した。参加しなければ、秀吉にどう思われるか、何をされるか分からない。万難を廃して出席せなばならないのだった。
この歌会での題は「寄松祝」。松に寄せて祝いの心を詠むというのである。参加者は、それぞれの思いで、歌を詠み、歌が話題の会話を交わした。表と裏。表を流れる風雅な空気と裏に渦巻くスリリングな緊張関係がどきどきするほどあざやかである。

 さて『戦国時代和歌集』は、こうして歌われた無数の和歌の中で、たまたま記録に残された歌を、軍記、物語、日記、各種文書、歌合、手鑑等から探しだして収録し、注記を付した一冊である。川田順でなければ集められない、選べない、解説できない一冊である。根本資料にさかのぼっての確認がとれていない伝承歌のたぐいもあるが、この時代としては、じつによく拾ってある。
 応仁の乱から関ヶ原の戦い前後まで一三〇年ほどの歌を、年代順に並べ、注記として出典、作歌事情等が記してある。
 収録歌一一一二首。作者三二〇人。出典二三二点。コンピュータのない時代に、これだけの膨大な資料を編年体で採録した労力は大変なものだったろうと思う。太平洋戦争末期のたいへんな時代だったが、住友総本店の常務理事の激職を辞任して、自由な時間をやっと手に入れた壮年・川田順の渾身の編著である。

 川田順というと、「老いらくの恋」の歌人、あるいはまた財界で力をふるった経済人として思い出す人が多いだろう。
 私にとっての川田順は、木下利玄らとともに「心の花」の先輩歌人として親しい人物である。生前に何度も会う機会があった。信綱の葬儀では、葬儀委員長をつとめてくれた。小柄だが姿勢のいい、眼光の鋭い人だった。男っぽいフィーリングの人だった。 (「環」41号 2010年春号)
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読み直し近代短歌史12 啄木の発明(物語の復活)・石川啄木

2016年07月09日 | 評論
近代短歌史のなかで石川啄木はどんな役割をはたしたのでしょうか。私は次の二点だったと見ています。
 Aプライベートな題材を意識的に短歌に取り込んだこと。B一首に物語をもちこんだこと。この二点です。

 ここではBについて書きますが、まずAについて、簡単に解説しておきましょう。
 啄木は、プライベートな題材を意識的に短歌に取り込みました。古典和歌では、プライベートな題材はうたわないのが暗黙のルールでした。柿本人麻呂に自身の病気の歌はありません。和泉式部に家庭の歌はありません。西行に食事の歌はありません。

 現在でも、人前で自分のことばかりしゃべる困った人がいます。歌の世界でも自分のことを言うのは控えるべきだ。プライベートなことを歌にして人前にさし出す、そんな失礼があってはならない。
 そのために発明されたのが「題詠」というシステムでした。端的にいえば、「題詠」という装置は、プライベートな題材をうたわないための仕掛けだったのですね。

 明治二十年代後半にスタートした「短歌革新運動」は、プライベートな題材をうたってもかまわない詩として、短歌史をリスタートさせる運動でした。
 落合直文、与謝野鉄幹、佐佐木信綱、正岡子規といった短歌革新運動第一世代の歌人たちは、おぼつかないながらプライベートな内容を短歌に盛り込みました。
 第二世代にあたる啄木は、思い切って彼のプライベートを短歌に持ちこみました。たとえば、家庭、貧乏、病気……。
 
 このような徹してプライベートな題材をうたう、これが近代短歌史上にはたした啄木の役割の第一でした。
 この面での啄木の影響力は大きかった。近代、現代短歌のマイナス面として、個人的な愚痴にすぎない短歌、日常雑記のような短歌がいやになるほど量産されました。その背景として、結核の時代、日本全体が貧乏だった時代、食糧難の時代、そんな時代背景もあってのことでしたが、啄木の選択は多くのエピゴーネンを生んだのでした。

 塚本邦雄『水葬物語』によって起動した前衛短歌運動が戦った昭和20年代歌壇の起点に、石川啄木のここで挙げた「A」があったのでした。そして、この「読み直し近代短歌史4」で取り上げた正岡子規「写生」論がその理論的背景として支持されたのでした。
 思い出して下さい。〈「写生」とはつまり、「われ」という「視点」を世界の中心において、世界を遠近法でとらえる方法だ〉。

 さて、啄木が近代短歌史で果たした役割の第二はゆきましょう(B)。第二は、一首に物語を持ちこんだことでした。一首にストーリーが読める。あるいは一首の場面の背景をなすストーリーが読者に想像できる、そういう歌を啄木はたくさん作っています。

宗次郎に/おかねが泣きて口説き居り/大根の花白きゆふぐれ 一握の砂 
 
 たとえばこの歌、読者はどんなストーリーを読むでしょうか。宗次郎の浮気がばれて、妻おかねが女性と別れてくれとせがんでいる場面。あるいは、恋人・宗次郎が都会に出るというのをおかねが引き留めている場面。どちらとも読めますね。いずれにしても、夕暮れの農村でおかねが宗次郎を口説くにいたるまでに、なんらかの物語があったはずです。

 こういう啄木短歌の構造に注目したのは寺山修司でした。寺山は啄木の歌にさまざまな物語を読んでみせています。

やや長きキスを交して別れ来し/深夜の街の/遠き火事かな 悲しき玩具
たはむれに母を背負いて/そのあまり軽きに泣きて/三歩あゆまず 
 
 前者については、情事の後で、ああ俺の家が焼けてくれていればいいがなあ……、という歌とも読めるとし、後者については、これは,お袋を捨てたいと思っていたときの歌だけど、母を捨てに行く歌なのか、童心にかえっての歌なのか……、と読んでみせました。これらは「現代詩読本・石川啄木」に収録されている鼎談「自己内面化」での寺山修司の発言です。

 寺山修司はこうした啄木短歌の方法を自作に取り入れて、一首に物語を抱いた短歌を作りました。それだけではなく、寺山修司作詞「時には母のない子のように」の「母のない子」の出典は啄木ですし(「我と共に/栗毛の仔馬走らせし/母の無き子の盗癖かな」)、歌集『田園に死す』に出てくる「真っ赤な櫛」の出典も啄木でした。

亡き母の真赤な櫛で梳きやれば山鳩の羽毛抜けやまぬなり
 寺山修司
夷(なだ)らかに麦の青める/丘の根の/小径(こみち)に赤き小櫛ひろへり
 石川啄木

 寺山修司だけではありません。すでに知られている例ですが、谷村新司作詞「昴」も啄木の短歌を踏まえています。啄木の短歌が抱いている物語に触発されて歌詞ができたのでしょう。 

目を閉じて何も見えず 哀しくて目を開ければ…… 谷村新司
目閉づれど/心にうかぶ何も無し。/さびしくもまた眼をあけるかな。 石川啄木
呼吸をすれば胸の中 凩は吠(な)きつづける 谷村新司
呼吸(いき)をすれば胸の中にて鳴る音あり。凩よりもさびしきその音! 石川啄木

 物語を抱く短歌は、啄木のオリジナルではありません。じつは古典和歌のなかには物語を抱く短歌はふんだんに見られます。
 古典和歌の世界では、短歌はしばしば物語を抱き込んでいました。『伊勢物語』や『大和物語』を見れば分かります。また、『伊勢集』『一条摂政御集』のように、歌が抱く物語によって人物の物語が浮かび上がる歌集もあります。

 物語を抱く歌の例は古くからあります。記紀歌謡と呼ばれる『古事記』『日本書紀』に収められた歌(短歌を含む長短多様な型式の歌)の中にも、物語を抱いている例が多くあります。『万葉集』にももちろん多くの例があります。中では、「真間の手児名」「周淮(すゑ)の珠名娘子(たまなをとめ)」など、伝説に取材した高橋虫麻呂の歌が特に有名です。

 ここでは、万葉集中の高橋虫麻呂の一首、浦島太郎をうたった短歌をあげておきましょう。浦島をテーマにした長歌があり、その反歌が次の一首です。

常世(とこよ)べに住むべきもを剣(つるぎ)太刀己(な)が心から鈍(おそ)やこの君 橋虫麻呂 万葉集

 乙姫さまといっしょに暮らしているとき、浦島は故郷にちょっと帰ってくると言って竜宮城を後にし、浜辺で玉手箱を開いてしまいます。この歌は、その物語を踏まえて「ずっと竜宮城にいればよかったのに、馬鹿な浦島さん!」といった意味です。
 こうした和歌史の流れが、やがて『伊勢物語』等の歌物語を生んでゆくわけですね。

 石川啄木は、こうした和歌史の伝統をうまく近代短歌史の取り込んだわけです。この取り込み方は「啄木の発明」だったと見ていいでしょう。
 もう二首、物語を抱いた啄木短歌をあげておきましょう。

酒のめば/刀をぬきて妻を逐ふ教師もありき/村を逐はれき
死にたくはないかと言へば/これ見よと/咽喉(のみど)の痍(きず)を見せし女かな

 一言、言いそえておきましょう。近現代短歌では、物語を抱く歌は避けられてきました。一首が抱く時間は短い方がいい。その方が一首の切っ先が鋭くなる。そう言われてきたのです。
 その代表的歌人である佐藤佐太郎は、短歌は時間という流れの断面をうたうべし、といった意味の発言をしています。つまり一首が抱く時間は今という一瞬。それが短歌の理想型だとの意味です。物語というだらだらと続く時間を抱く短歌は駄目、というわけです。近現代短歌史のなかでは、物語を抱く啄木の短歌は異例だったのです。

 前にも少し触れましたが、啄木の発明をうまく盗んだのが、寺山修司の短歌でした。寺山のデビュー作「チエホフ祭」(『空には本』所収)には父と母の歌あるいは父や母のイメージをうたった歌が何首かあるのですが、これがみな物語を抱き込んだ短歌でした。
 短歌は物語を抱くことでフィクションを呼び込みやすくなるのです。これは万葉集の浦島太郎の歌以来のことです。

わが通る果樹園の小屋いつも暗く父と呼びたき番人が棲む 空には本
アカハタ売るわれを夏蝶越えゆけり母は故郷の田を打ちていむ 同

 さらに、2008年に『月光書簡』という寺山修司の遺歌集が刊行されます。この本は寺山さんの近くにいた田中未知さんが預かっていた歌稿を、私が整理し(谷岡亜紀君に手伝って貰いました)、解説を書いて一冊にしたものです。そこにある短歌も物語を抱く歌が大部分でした。引用しましょう。

義母義兄義妹義弟があつまりて花野に穴を掘りはじめたり 『月光書簡』
履歴書に蝶という字を入れたくてまた嘘を書く失業の叔父

 最後に、もう一人、物語を抱く歌を得意としている例をあげておきます。

まだ三十三歳だって手を洗いながら鏡と鏡に話す  藤島秀憲『二丁目通信』  
首のない男女が金を受け渡すシャッター半分下ろされた店
われからの電話に父が[留守番でわかりません」と答えて切りぬ

 藤島秀憲君の歌集『二丁目通信』は2009年に刊行、「現代歌人協会賞」を受賞した歌集です。一首一首がじつにうまく物語を抱き込んでいます。一首目はちょっと分かりにくいかも知れませんが、葬儀会場のトイレでの会話でしょう。
 話を聞くと、現実の作者は二丁目ではなく、三丁目に住んでいたとのこと。歌集のタイトルもじつは物語を抱いていたのでした。
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読み直し近代短歌史11 カタカナ語の採用(明治・大正期の新しさ) 北原白秋

2016年06月29日 | 評論
 現代短歌にはカタカナ語がたくさん出てきます。はなはだしい例では、「ギョーム・アポリネール・ド・コストロウツスキー蝉火の秋の方に遁れつ」(塚本邦雄『森曜集』)のように、31拍の半分ほどがカタカナの短歌もあります。
 また、カタカナのタイトルをつけた歌集もたくさんあります。香川ヒサさんのように『テクネー』『マテシス』『ファブリカ』『モウド』といったカタカナ語をタイトルにした歌集を次々に刊行している人もいます。
 
 このようなカタカナ語が頻出する短歌界の現状のルーツは、いつごろの誰の歌集と見るべきなのか。近代短歌史上、カタカナ語を多く採用した最初の歌人は誰だったのでしょう。
 私見では、1913年(大2)1月に刊行された北原白秋の第一歌集『桐の花』が、カタカナ語がたくさん出てくる最初の歌集とみていい、そう思います。

 もちろん近代短歌史上では、『桐の花』以前に出た歌集にもカタカナ語は登場しています。具体例をあげておきましょう。
 「シカゴ」(与謝野鉄幹『東西南北』)、「チチアン(十六世紀のイタリアの画家の名前)」(与謝野晶子『みだれ髪』)、「ガラス」「ビードロ」「テーブル」など(正岡子規『竹の里歌』)等々があります。
 しかし、まとまった数が出てくるのは『桐の花』ですし、西欧の地名、人名、事物等々を、意識的に短歌に登場させた最初は、若き日の北原白秋だったと見てまちがいないでしょう。

 白秋は歌集『桐の花』刊行の前、まだ二十代半ばに『邪宗門』という詩集を刊行しています。「邪宗門」とは、邪教視されていた時代のキリスト教の呼称ですが、ここでは、新時代にふさわしい新しい詩人の比喩的な呼称として使っています。『邪宗門』の序に「我ら近代邪宗門の徒」とみずからを名のっていることでわかります。

 白秋は詩集『邪宗門』で、近代ヨーロッパへのあこがれと好奇心を全開にしています。わざと漢字をつかって「波爾杜瓦爾(ポルトガル)」「天鵞絨(ビロード)」などと表記したり、「ちやるめら」「あまりりす」などのようにカタカナではなく平仮名表記にしたりもしていますが、相当数のカタカナ語が『邪宗門』に出てきています。
 これにはどういう背景があったのか。なぜ、この時代だったのか。なぜ北原白秋だったのでしょうか。 

 当時、ヨーロッパの詩歌をつぎつぎに日本に紹介していた森鴎外、上田敏らの仕事を、じかに、リアルタイムで若い心にしみ入るように受け入れた世代が、白秋の世代だったのです。
 とくに上田敏『海潮音』は、白秋が早稲田大学の学生時代に刊行されており、当時の学生たちは熱心にこれを読んだようです。ボードレールやベルレーヌ、マラルメ、そして引用歌に出てくるクリスチナ・ロセチなどの名前とは、みな、上田敏訳の『海潮音』で出あうのです。

 白秋には、特に、西欧の文化にあこがれを抱く素地がありました。子供ころの思い出を書いた「わが生ひたち」の中にそんなエピソードが出て来ます。柳川では子供たちが「びいどろ瓶に薄荷や肉桂水を入れて吸つて歩いた」、そんな子供時代の思い出が出てきたりします。
 明治二十年代の話です。びいどろ瓶とかニッキ水を子供が持っている風景は、他の地域では見られなかったと思います。柳川独特の南蛮趣味的風景だったようなのです。

 また、熊本英学校を出た母方の叔父が、子供だった白秋に、催眠術をかけようとしたり、アラビアンナイトや西洋の魔法使いの話などを聞かせてくれ、黒い表紙の讃美歌集を貸してくれたりもしました。
 そういう背景があって、南蛮へのあこがれと好奇心が育っていったのでしょう。そんな素地があって、新しい西洋の翻訳詩集『海潮音』にであった。心になじむ素地があったわけですね。

そぞろあるき煙草くゆらすつかのまも哀しからずやわかきランボウ  桐の花

にほやかにトロムボーンの音は鳴りぬ君と歩みしあとの思ひ出

サラダとり白きソースをかけてましさみしき春の思ひ出のため

フラスコに青きリキュールさしよせて寝(ぬ)ればよしなや月さしにけり

クリスチナ・ロセチが頭巾かぶせまし秋のはじめの母の横顔
 
 「ランボウ」はご存じのように十九世紀末のフランス象徴派の詩人です。パイプをくわえ、両手をポケット入れて歩くランボウを描いたヴェルレーヌの有名なデッサンがあります。一首目はそれをベースにしているようです。
 2首目、『桐の花』には楽器、音楽用語がよく出てきます。クラリネット、ハモニカ、ワルツ……、カタカナ語ではありませんが三味線まで出てきます。
 3首目の「……かけてまし」は白きソースをかけようよ、の意味です。4首目の「フラスコ」はガラスの水差し。青いリキュール入りの水差しを近くに置いて寝ると、いいぐあいに月光が射してきたというのです。白秋らしい耽美的な作ですね。5首目の「クリスチナ・ロセチ」は十九世紀のイギリスの女流詩人で、『海潮音』にも出てきます。
 『桐の花』にはこのほか、ローンテニス、ヒステリー、バリカン、ペンキ、ウイスキー、キャベツ、クロロホルム等、「えっ!」と思うような多彩なカタカナ語が登場します。

 さて、『桐の花』以後はどうなるのでしょう。その後の展開についてはまだ詳しい検証をしてませんが、時代が飛んで、昭和前期のモダニズム系の歌集に、カタカナ語が多く見られるようになってゆくようです。
 前川佐美雄『植物祭』(1930年刊)、土岐善麿『新歌集作品Ⅰ』(1933年刊)、加藤克美『螺旋階段』などにも、それなりにカタカナ語がでてきますが、文学史的に注目するほどではありません。
 注目していい歌集となると、はじめてカタカナ語をタイトルにした石川信夫歌集『シネマ』(1936年刊)、そして斎藤史の第一歌集『魚歌』(1940年刊)でしょうか。

 作品を引用しておきましょう。『シネマ』は、歌数の少ない歌集ですが(121首)、ほとんど1首おきぐらいにカタカナ語が出てきます。カタカナ語は、当時の時代的な面での新しさを反映する名詞だったのだろうと推測されます。「シネマ」、「エクレア」、「アブサン」、「コオン・ビイフ」……、実物はもちろん、言葉のひびき自体が新鮮だったのでしょうね。

剥製のカナリヤを鳴かせきき入れるシネマの女ふと思ひだす  石川信夫『シネマ』

ああまたもエクレアかお茶かアブサンかもう旅に出る気さへ起こらぬ  同

ガルボオがコオン・ビイフが好きなので赤黒の缶また買ひに出す  同

 斎藤史『魚歌』のカタカナ語の数は多くありません。しかし、『シネマ』のようにただ単に新しい時代の空気を感じさせるだけではなく、それぞれが独特のイメージをもって一首の方向性を決めています。

てのひらをかんざしのやうにかざす時マダムバタフライの歌がきこえる  斎藤史『魚歌』

指先にセント・エルモの火をともし霧ふかき日を人と交れり  同

定住の家をもたねば朝に夜にシシリイの薔薇マジヨルカの花  同

 こうした流れが昭和前期にあって、戦後、カタカナ語は短歌の重要な語になってくるのです。現在では、カタカナ語が一つも出てこない歌集はほとんどないほどになりました。
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B 母・菊枝さんの物語

2016年06月23日 | 評論

 連合赤軍事件の坂口弘の歌集『常しへの道』が刊行されて、今ほっとしているところである。私が著者の歌を見るようになってから、かれこれ五年が経った。
 本人からの手紙に、装幀が素晴らしい、印刷もきれいだ、とあった。著者は歌集のできにほぼ満足しているらしい。そして、だれよりもほっとしているのは母・坂口菊枝さんだろうと思う。歌集刊行に漕ぎつけるまでに、一番気を使い一番体力を使ったのは、今年もう九十四歳になられた坂口菊枝さんなのである。

 東京駅近くのホテルの喫茶室で、角川書店の杉岡、山口両氏と坂口菊枝さんを引き合わせたことがあった。歌集への具体的な第一歩だった。遠く千葉県の富津から来られた菊枝さんは、年齢よりもずっと若々しい。息子のためを思ってだろう、気さくに、よくしゃべって下さった。弘さんの歌に対する情熱の激しさ、面会時のこと、少年時代のこと等々。

 角川書店の側も、著者の希望を具体的に知りたいむねを話した。弘さんが考える歌集のイメージを聞いてきて欲しい。歌数はしぼって五百首前後にするのがいいだろう……。面会時に弘さんに伝えるべきこと、訊ねるべきことを、菊枝さんはいちいちノートにメモを取っておられた。「さっそく、あした小菅に行ってきます」。別れぎわにそう言って、ていねいにおじぎをされた。

 この歌集のことで、いくつかのメディアが私のところに取材にきた。そんな折、私は「お母さんの物語を書いてください」と答えてきた。
 歌集『常しへ道』は、さまざまな切り口で読むことができる。凄惨な総括・リンチの場面をうたった作がある。死刑囚から見た死刑の問題がうたわれている。近くに見ざるをえない死を見つめる歌がある。深い孤独感をうたった歌がある。かいま見るように見た蒲公英の花や落蝉や月光、かすかに聞こえる雨だれの音、そんな自然がうたわれてもいる。これらはみなそれぞれにこの歌集の注目点と言っていい。

 そんな数多くの読み方の可能性の一つに、獄中で短歌を詠む息子を支えつづけた母の物語として、『常しへの道』を読む読み方もあってもいい。



 犠牲者十七人を出した連合赤軍事件は、一九七一年・七二年のことであった。それから数えるともう三十年以上。死刑確定が九三年だから、それからでも十年以上の歳月が経っている。坂口弘さんは現在六十一歳。長い歳月を、菊枝さんはほとんど息子のために生きて来られた。
 死刑囚は、詳しいことは知らないが、外部との連絡は禁止される。肉親か夫婦関係にあるものとしか面会・交信が許されないらしい(〇七年六月に明治四十一年以来の監獄法が廃止され、新法が施行されたらしいが)。

 歌集の冒頭部に死刑囚として確定告知を受けた折の歌がある。九三年の歌だ。

  確定し
  外部交通遮断されぬ
  静まれる房の不気味なること

 この時から、郵便・面会等が遮断され、坂口さんの場合は、外部との交信はすべて、母・菊枝さんを通してしか行えなくなったようだ。「静まれる房の不気味なること」とは、社会から孤絶した空間の不気味さ、の意味である。
 東京都葛飾区にいながら、千二百余万人もいる都民のだれとも交流・通信できない不気味な空間。その空間の静けさである。

 その空間は、当然ながら厳重に監視されている。

  雨の日は
  笠の中をし恋ふるなり
  寸時たりとも監視ゆるまず

 傘の中が、安らぎの空間であることを忘れている私たちの心には、深くしみる歌だ。

 さて、歌稿である。死刑が確定すると歌稿を外部へ送るのも大変だ。私の自宅へ、三百首から四百首ぐらいの歌稿の束が、坂口菊枝さんから速達で送られてくる。菊枝さんが面会に行って預かってきた歌稿である。
 私は手元に来た歌稿を、一ヶ月か二ヶ月かかって見て送り返す。受け取った菊枝さんはふたたび歌稿を持って面会に行って坂口に渡す。こういう経緯を何度くりかえしただろう。十回以上くり返したはずである。
 
小菅まで近ければいいが、千葉県の富津からだ。高齢の菊枝さんには、丸一日がかりの往復だっただろうと想像する。
 私がすぐ返送する場合はそれでいい。しかし、しばしば遅れた。歌稿がいつ来るか予定が立たないから時間を空けて待っているわけにはゆかないし、忙しかったりもする。
 さらに、気力がないと人の歌稿は見られない。心を込めて作った歌を消したり手を入れたりするには、充実した気力がいる。

 一方、作者は当然のこと早く返してほしい。私の返送が遅れると、坂口弘さんからせっつかれるのだろう、菊枝さんから私に「歌稿は届いているでしょうか?」といった遠慮がちな催促の郵便がくる。間に立たされての気苦労がずいぶんあったにちがいない。

汝(な)が原稿
  届かざるといふ
  面会の母の惑へる言に絶句す

 母へ送ったはずの原稿が未着だというのだ。こういうトラブルが何度かあったらしい。房内ではコピーが使えずすべて手書きだから、紛失は大事件だ。「母の惑える言」に、言い出しにくいことを言う母と母の心を思いやる息子の気持ちが表現されている。



 『常しへの道』には母をうたった作がこのほかに数首ある。数はそれほど多くないが、また地味な歌が大方で目立つことはないが、歌集の中で重要な作と見ていい。

  これが最後
  これが最後と思ひつつ
  面会の母は八十五になる

 すでに言ったように、菊枝さんは年齢よりずっと若々しい方だが、それでも弱って見えることもあったのだろう。もし面会に来られなくなったら、外部との連絡は途絶してしまう。口には出さないが、母も息子もそのことが痛いほど分かっている。

  わが在りたる須坂の牢に
  母は来て
  世話してあげると言ひ給ひしも
 
  奥深く拒まれ
  いまも実家にて吾の名禁句と
  母は嘆けり

 前者。「須坂」は長野県の須坂だろう。詳しいことは分からないが、逮捕されて間もない時期に須坂に拘留されており、そこに母が来てくれたのだろう。菊枝さんの通いはこの時期から今日まで三十余年つづいているのだ。
 「世話してあげる」という直接話法の引用、この歌集ではめずらしい「言ひ給ふ」という尊敬をあらわす表現が、息子の側の心情を的確に表現している。
 
 後者。一般社会における死刑囚の厳しい位置をあえてうたった辛い歌だ。「奥深く拒まれ」は見事な表現と思う。家族や親戚の人たちには、それぞれの生活の場があり、それぞれの人間関係がある。単なる個人ではない。生きている者一人一人の奥行きの部分に抵触するからこそ拒むのである。
 母も息子も、充分にそのことを理解しつつ、やはり嘆かないではいられないのだ。「母は嘆けり」が重くひびく。
 
 こうした歌に見られるように、母以外の家族は絶対に面会に来ないわけだから、すべては菊枝さん一人の肩にかかっているのだ。
 
  女知らず躓(つまづ)ける吾に
  男ばかり産みしからにと
  済まな気に言ふ
 
  汝(な)が人生を狂はせし彼と
  いふ母よ
  吾もあまたを狂はせたるぞ

  出火して
  逃げ出さむとき持つ物に
  吾を戒むる母からの手紙

 面会時における母と息子の対話の内容がうたわれている。母の息子に対する愛の深さ。母が言った「男ばかりを産みしからに」「汝が人生を狂はせし彼」とは、「お前だけが悪いんじゃないよ」「一人で罪を背負い込まなくてもいいんだよ」の意味だろう。
 母は、息子が自分を責めて孤立しようとするのを、身をもって庇おうとしている。「済まな気に言ふ」が読者の心に深くしみる。

  いつか母に
  ずつと黙りて居りしがとて
  聴かさるることあらむと思ふ

 この歌は読む者をぎくっとさせる。母がまだ言わない何かとは何なのか。事件関係者のことだろうか。家族のことだろうか、あるいは母自身のことかもしれない。息子のためを思って言わない何かなのだろうか。
 そうではないだろう。息子の側でもうすうすそのことに気づいているにちがいない。隠しているのではない。言えないのだ。息子への深い愛を、直接息子に向かって言うことはできないのだ。

 九十余年を生きてきた菊枝さんの一生の物語。その中で、息子のことだけを思って生きた三十余年の物語の中心をなす思いである。なかなか言葉にはならないのであろう




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A 坂口弘歌集『とこしへの道』解説・佐佐木幸綱

2016年06月23日 | 評論

 「朝日歌壇」に坂口弘の歌がはじめて載ったのは、一九八九年五月のこと。最初は島田修二選の欄だった。そして二回目に載ったのが十二月。これは私の選だった。次のような作である。

死刑囚と呼ばるるよりも呼び捨ての今がまだしもよろしかりけり

 私が選をしたこの歌は、死刑確定前の動揺する気分をうたっている。一審、二審で死刑判決をうけ、上告して最高裁の判決を待つ期間の作である。
 細字の万年筆で書かれた投稿葉書には、小さく赤い検閲の印が押されていた。一点一画をおろそかにしないきっちりとした四角い字で、その葉書の字は、作者の几帳面な性格をあらわしているように思われた。

 それ以後、彼の歌はひんぱんに「朝日歌壇」に掲載されるようになる。上告審の判決を待つ者の本音をうたった歌は、私だけではなく、他の三選者・近藤芳美・馬場あき子・島田修二の目にもかなったようである。
 「朝日歌壇」には、毎週三〇〇〇首から四〇〇〇首ほどの投稿歌がある。掲載されるのは四選者の選による四〇首だけ。相当の倍率をくぐりぬけてのことであった。
 
 投稿歌がはじめて載ってから約四年、一九九三年二月に、最高裁で死刑判決が確定する。そのときから坂口弘の「朝日歌壇」への投稿は途絶えた。
 それからしばらくして、お母様の手を通して、短歌が私のところに送られてくるようになった。短歌をチェックしてほしいという。当時の「朝日歌壇」選者の中で私が一番若く、年齢が比較的近かったからだろうと思う。

  年に一度ぐらいの割合で、三〇〇首から四〇〇首ぐらいの短歌が送られてくる。私は、用語・言い回しを点検し、短歌としての出来の良し悪しをチェックする。表現上・修辞上の疑問点があれば傍線を引いて「?」印をつける。文法的な疑問があれば答え、作歌上のポイントを折々にアドバイスする。そんなかたちで作品に目を通し、お母様を通じて送り返した。
 
 送られてくる歌稿は、束ねた二百字詰の原稿用紙に、三行書きで二首ずつ、表記は旧仮名遣いで、これも四角い端正な字で書かれていた。旧仮名遣いを完全にマスターし、行分けの仕方、句読点の一つ一つにこだわりをもっていることが、原稿を見るとよく分かった。
 
 坂口弘は、短歌にあくまでも真剣で、一字一音もおろそかせず、最善の表現へむかって懸命の努力を尽くした。たとえば、「揺蕩(たゆた)ふ」と表記するか「たゆたふ」と表記するか。一般の文章ではどうでもいいことであるが、短歌ではこういうディテールもおろそかにできない。坂口はそういう点で私以上のこだわりをもっている。

 たとえば私が、この方が読みやすいからという理由で漢字表記を仮名表記に変えてはどうかと提案すると、次回の原稿を送ってくるときに、ニュアンスの違いや調べの問題等、自分がその表記を選んだ理由を書いてくる。彼の短歌へのこだわりがなみなみではないことを思わせた。

  こうした彼のせっかくの短歌への情熱を、歌集というかたちにまとめあげることはできないか。
 「歌集を目標にしてみませんか?」
 そう提案したところ、彼もその気になってくれた。そんな縁で、私がここに解説を書くことになったのである。 
 本歌集は、多くの作の中から坂口弘自身が自選したものであるが、言ったようなかたちでのやりとりを経てきたうえの作品である。
 


 坂口弘が短歌をつくりはじめたきっかけは、西行の『山家集』を読んだことによると聞く。後にふれる『坂口弘歌稿』の高橋檀氏「あとがき」にそうある。『山家集』を読んで、見よう見まね作歌をはじめたとのことである。
 事実その通りなのだろうが、私が坂口の歌を読んで思い浮かべるのは石川啄木である。三行書きの表記はもちろん啄木を踏襲するものだろう。それだけではない。随所に、啄木を読み込んだ形跡が見てとれる。

芍薬の大輪の花見るたびに
思へり
わが生活(くらし)身に余れりと

 自然を愛するやわらかい心をうたった佳作だが、「生活」に「くらし」と振り仮名を振るのは啄木の影響だろう。
振り仮名だけではない。次の歌のように、題材・ムードがよく似ている例もある。

春の宵房(へや)の灯漏れて    坂口弘
ゆかしくも
ほの白く見ゆる庭の草かな

こころよく      石川啄木
春のねむりをむさぼれる
目にやはらかき春の草かな

 「ゆかしく」は古語で、「何となく懐かしい」「心惹かれる」の意味。啄木の歌の「目にやはらかき」と近似の感覚だ。啄木の歌は、目覚めてすぐに見た朝の庭草で、坂口作は夜の独房から見た庭草である。
 同じ春の草とはいえ異なった視点と条件で見ているはずだが、惹かれる思いの質はじつのよく似ている。もともとの気質が、二人は似通っているのかもしれない。
  
夏の宵     坂口弘
ほの白きものが物憂げに庭を歩めり
猫にやあらむ
 
夜おそく戸を繰りをれば  石川啄木
白きもの庭を走れり
犬にやあらむ

 これは啄木の歌の本歌取りである。「夜」を「夏の宵」に変え、「走る」を「歩む」に変え、「犬」を「猫」に変えている。一世紀をへだてて、啄木と歌で対話を楽しんでいる風情だ。坂口は啄木が本気で好きなのである。気が合うのだ。

指笛のできるものなら      坂口弘
月の夜に
思ひの丈を吹いてみたきかな

叱られて      石川啄木
わつと泣き出す子供心
その心にもなりてみたきかな

 「……みたきかな」という表現で、できることならしてみたい、でもできない、という歌である。次に引用する、「……こと」というフレーズで過去のある事実にスポットを当てる言い回しとともに、啄木の歌に学んだ表現と見ていいだろう。

「囚人だ、囚人バスだ」と    坂口弘
子どもらが
隣のバスより指さししこと

城跡(しろあと)の 石川啄木
石に腰掛け
禁制の木(こ)の実(み)をひとり味ひしこと

 引用はこのぐらいにしておくが、坂口の歌が積極的に啄木の影響を受けている実情は、これだけで十分におわかりいただけるだろう。啄木の歌は基本的に青春の歌である。坂口弘の歌も大枠は青春の歌と見てよさそうである。
 
 このように啄木の影響を進んで受けつつ、それでも、この作者独自の思いをさまざまなかたちで短歌に実現している。
 集中の佳作を数首引用しておこう。高齢の母をうたった歌、孤独をうたった歌、監視下の日々をうたった歌、そしてかいま見るようにして自然をうたった歌。

これが最後
これが最後と思ひつつ
面会の母は八十五になる

隠れ家に星見るアンネを
思ひ居り
目隠しの間(あひ)に月見つつ吾は

雨の日は
傘の中をし恋ふるなり
寸時たりとも監視ゆるまず

気配せる
闇の外(と)の面(も)に目を凝らせば
ああ落蝉の羽撃(はばた)きなりき

 短歌は人間の本音を引き出す。これらの歌には坂口弘という人物の本音が引き出されていると読む。死刑囚・坂口弘という枠組みでこの歌集が読まれるのはよんどころないことながら、彼の短歌をずっと読んできた者としては、枠組みを外して読んでもらいたいという気持ちはある。そうでないと、こういう短歌は読み過ごされてしまうだろう。
 かなわぬ望みながら、同じく短歌を愛する者の一人として、そんな読まれ方を願うのである。



 前にも言及したが、じつはすでに『坂口弘歌稿』という歌集が出ている。今から十余年前、一九九三年十一月に朝日新聞社から刊行された一冊で、三〇七首の短歌をおさめている。同書には、高橋檀氏による懇切な「あとがき」が付されていた。
 高橋氏はそこで、連合赤軍事件にかかわる多くの犠牲者の方々、さらに犠牲者のご家族をはじめとする関係者の方々に対する、坂口弘のお詫びの気持ちをくりかえし述べておられた。

 また、短歌には多様な読み方があり、作者の意図とは別の読みがなされる危惧に言及されていた。坂口のような特殊な立場にある作者の場合はとくに、その点に関する配慮の必要性を言っておられた。
 この解説を書くにあたって、まず心に浮かんだのも、その二つのことであった。連合赤軍事件は、事件の異常性、残酷性、陰惨さ、悲惨さにおいて忘れることができない特異な事件だった。

 年表を参照しながら、事件のあらましを記しておこう。一九七二年二月十九日、坂口弘ら銃を持った五人が「あさま山荘」に人質をとってたてこもり、十日目に警官隊が突入し、五人は逮捕された。この事件で、警察官二人が銃撃によって射殺され、民間人一人も射殺された。
 その後、三月に入って群馬県の山林で十二人の遺体が発見される。遺体は軍事訓練中に仲間のリンチによって殺されたことが判明する。坂口弘は、これらの全ての事件に直接かかわった。
 
 事件には多くの犠牲者・被害者の方々がおられる。あらためて亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、ご遺族・被害者・関係者の方々の、今にいたっても傷の癒えぬだろう心中をお察ししつつ、擱筆したいと思う。

  二〇〇七年七月三一日 佐佐木幸綱




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