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ほろ酔い日記

 佐佐木幸綱のブログです

読み直し近代短歌史10 ひびきと調べと愛誦性(声を意識する短歌) 若山牧水

2016年06月17日 | 評論
 若山牧水はいま、大人気の近代歌人です。たぶん石川啄木と人気を二分していると言っていいのではないでしょうか。
 何と言っても人々に愛誦されている歌が多い。だれもが暗誦している歌数が多い。愛誦性こそが牧水の歌の大きな特色といっていいでしょう。

幾山河越えさり行かば寂しさの終(は)てなむ国ぞ今日も旅ゆく 海の声 
白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり 路上

 歌のひびきがいいんですね。そしてリズムがいい。声に出して何度も発声してみると、なんとなく気持ちがいい。のびのびとしたそして流れるような歌の韻律がこころよい。一語一語の舌ざわりがいい。そんな気がします。
 
 牧水自身、自分の歌を声に出して気持ちよさそうに朗誦していたということです。その話を、私は画家の中川一政さんから直接、聞きました。
 むかし、雑誌「婦人の友」(だったと思います)の企画で、中川一政さんと対談したことがありました。真鶴の海をひろびろと見下ろすぜいたくなお宅にうかがっての対談でした(そのお宅は現在、「中川一政美術館」になっていると聞きました)。

 文学少年だった中川さんは、牧水が大好きで、十代の終わりころに牧水を知り、チャンスがあれば牧水の後ろについて散歩をしたとのことでした。
 そんな時、牧水は歩きながら、自分の歩調に合わせるようにして、自身の短歌を大きな声で朗誦しながら歩いたそうです。中川さんは感心して聞きながら、牧水の後ろを歩いたとのこと。そんな話をなつかしそうにしておられました。

 牧水は1885(明18)年生、中川さんは1893(明26)年生。牧水は中川一政さんより8歳年長です。中川さんが17歳だとすると牧水は25歳。
 二十代の青年が、自分の短歌を大声でとなえながら散歩している図は、現代では思いうかべにくいのですが、本当のことのようでした。
 歩行のリズムに合うように、一語一語を発声していたのだと思います。この話は他で読んだことがありません。貴重な証言とみていいと思います。
 また、これは私の想像ですが、牧水は作歌するときも、くりかえしくりかえし声にだし、発声しながら作歌したのだろうと思います。

 余談です。中川さんは長生きされ、1991(平成3)年までご健在でした。享年97。私は80代はじめに2度お目にかかりました。
 お宅に伺ったのは2回目のときでした。その折、雑誌の編集者が、色紙に二人でサインしろというので、筆でサインをすることになりました。先生は堂々とした立派な書をかかれます。まず中川先生が先にサインされました。

 ご存じの豪快な字なのですが、じつにゆっくりと書かれるのでびっくりしました。しかも小さく小さく書かれたので、これもびっくりしました。色紙の下3分の1ぐらいだったと思います。
 私は先生より大きな字では失礼になると思い緊張しました。先生のお名前は四字ですし、画数の少ない字ばかりです。こちらは五字だし画数も多い。自分の名前を書くだけなのに、あんなに困ったことはありませんでした。

 さて、話をもとにもどします。今では大人気の牧水ですが、この人気は昔からずっとつづいていたわけではありません。信じてもらえないかも知れませんが、戦後長く、不人気の時代がつづいたのです。
 なぜ不人気だったのか。今言った牧水の歌の調べのよさが原因でした。

 戦後間もなく桑原武夫の評論「第二芸術」をきっかけに短歌否定論が数多く発表されました。それらを一括して「第二芸術論」と呼んでいます。小説や現代詩は第一芸術だけれども、短歌・俳句は、第二芸術だ、という意味です。

 戦争中のような困難な状況、過酷な現実のまえで、短歌は無力だった。大日本帝国を賛美し、鬼畜米英を熱心にうたった戦争中の短歌が戦後の目で検証され、徹底的に批判されました。
 短歌型式に拠ってたつかぎり、抒情に流されて批判精神が育たない。「調べ」によって思考を追求する矛先がにぶらされる。
 時代や現実と厳しくかかわることのない二流の芸術としてしか短歌は生きえないだろう。そんな厳しい批判をあびせかけられたのでした。

 言葉をかえれば、うたいあげるような短歌、流れるような調べを重んじる短歌は、もう現代の詩としてはだめなのだ、そんな空気が、戦後間もない歌壇をおおったのです。
 そこで、うたいあげない短歌、一語一語立ち止まって考えるような、つぶやくような短歌が主流をしめる時代がはじまります。
 どんな短歌か? 具体的には、その中心は、昭和20年代から30年代に活躍した新歌人集団と呼ばれる人たちの短歌でした。名前をあげれば、近藤芳美、宮柊二らの短歌ですね。
 戦後間もなくのこの時代以後、牧水はほとんどかえりみられることがなくなったわけです。

 牧水人気復活のきざしがみえるのは、1970年代半ば、昭和50年前後からです。30年ほどのあいだ、不人気の時代がつづいたわけです。
 70年代半ば、前衛短歌の次の世代が歌壇で活躍しはじめます。名前をあげれば、私などから河野裕子さんあたりまで。昭和10年代生まれ、20年代初め生まれです。前衛短歌には欠けていた、肉体あるいは肉声など、短歌に人間の生の声や身体をもとめはじめるのです。
 そこで、短歌朗読会が何度も開かれました。私も、何度か舞台に立って、ギターの伴奏で自作短歌を朗読したりしました。

 1977年(昭52)に、岡野弘彦・島田修二・佐佐木幸綱編『現代短歌朗読集成』が大修館から刊行されます。
 これは戦前の歌人9人、当時健在だった現代歌人24人の自作朗読集です。各10首~20余首の自作を朗読して、カセットテープ4本にまとめたものです。

 残念ながら、ここで話題の牧水は入っていないのですが(近代歌人のものは、昭和13年にコロンビアが作ったレコードがもとになっています。牧水は昭和3年に他界)、これまでにこの「読み直し近代短歌史」に登場した信綱、晶子、茂吉、夕暮らの肉声が聞けます。

 また、前川佐美雄、宮柊二、近藤芳美、さらには塚本邦雄、寺山修司らの自作朗読が聞けるのも今ではこれだけになりました。
 ちなみに、塚本邦雄はピアノ、前登志夫はバイオリン、寺山修司は大正琴のBGMを使っています。私はウエスタンのギターをバックに「充実のわが馬よ」と題する16首を朗読しています。

 このように「第二芸術論」から30年ほどが経った70年代半ばになって、歌壇の空気・状況が変わってきたわけですね。そんな時期に折りよく、大岡信『今日も旅ゆく 若山牧水紀行』(昭49)、大悟法利雄編『若山牧水全歌集』(昭50)、大悟法利雄『若山牧水伝』(昭51)があいついで刊行されます。牧水が一挙に読みやすくなります。 

 大岡さんの本は、牧水の妻・喜志子に光を当てた牧水論で、親しみやすい牧水が描かれています。
 大悟法利雄さんは、晩年の牧水の助手をつとめた人で、牧水没後もずっと研究をつづけ、牧水研究に一生をささげた人でした。私は何度か会いましたが、牧水研究の第一人者でありながら全く酒が飲めない方でした。
 この大悟法さんの『若山牧水伝』で、それまで不分明だった牧水の恋人・園田小枝子のことがあきらかにされます。そしてはじめて詳細に牧水の生涯がたどられたわけです。
 やはり大悟法さんがまとめられた『若山牧水全歌集』と合わせて、一挙に牧水がよみやすくなったのです。

 それ以来、牧水研究、牧水に関する評論等は急速に多くなります。そして宮崎の伊藤一彦君の活躍が大きい。彼の精力的な牧水研究、そして普及活動で、牧水人気はたかまります。 特に中堅歌人の歌集を対象にした「若山牧水賞」の創設は、地元・宮崎市民に牧水を広く知らしめるのに大いに貢献したようです。地元の熱い支持が牧水人気の核になっていると思われます。

 最後に一言。じつは、牧水は調べのいい愛誦性のある歌ばかりを作り続けていたわけではありません。

納戸の隅に折から一挺の大鎌あり、汝(なんじ)が意志ををまぐるなといふがごとくに  みなかみ

 のような破調の短歌を作った時期もあったのです。ここではそのことに触れる紙幅がありませんでした。

 私が推奨する牧水の作を3首引用しておきましょう。1首目は浅間での作。2首目は三浦三崎。3首目は沼津市の静浦での作です。

忘却(ばうきやく)のかげかさびしきいちにんの人あり旅をながれ渡れる  路上
旅人のからだもいつか海となり五月の雨が降るよ港に  死か芸術か
海鳥の風にさからふ一ならび一羽くづれてみなくづれたり  山桜の歌

読み直し近代短歌史9 伝統詩としての短歌(古典の引用)・斎藤茂吉

2016年06月07日 | 評論
 短歌には二つの側面があります。「定型詩」そして「伝統詩」の二つの面です。
 現在の短歌は口語化がすすみ、古典和歌からずいぶん遠くへだたってきてしまいました。ですから古典和歌など知らなくたってかまわない、そう思っている自称・歌人も少なくないのが現状です。短歌は、五・七・五・七・七の「定型詩」。ここさえ踏まえればそれで充分。もう一つの「伝統詩」の面はどうでもいいと考えるのです。

 今回、クローズアップする斎藤茂吉は、近代短歌史の中でないがしろにされがちだった「伝統詩」の面に、あえて強い光をあてた歌人だった。そこにこそ近代短歌史上の大きな意味があった、そう私は見ています。

 短歌史における口語は、明治40年代から少しずつ見えはじめます。青山霞村、石川啄木などの歌に口語がでてきます。また大正期には、定型を絶対とは見ない自由律短歌が出て、口語自由律短歌という、二つの面の両方を絶対とは見ない作者たちも登場し、作品もおおくみられます。たとえば、若山牧水も一時、かなり多くの口語自由律短歌をつくっています。

 さらに、昭和はじめにも大きな自由律短歌のうねりがあり、多くの口語歌が作られています。昭和はじめの口語自由律短歌のうねりのシンボリックな出来事が前回、前田夕暮ところで触れた昭和4年の「四歌人空の競詠」でした。
 飛行機から下りたとき斎藤茂吉が、「これは短歌では間に合わない」と言ったというエピソードをすでに紹介しました。新しい文明の産物である飛行機体験に、短歌の「定型詩」「伝統詩」の二面がどう対応するべきか、斎藤茂吉でさえゆらいでいたことを思わせます。
 
 口語短歌史は、このように明治末以来、幾つかの大きな波を生んできたのですが、現在進行形の今の口語短歌の流れの淵源はどこに見るべきなのでしょうか。幾つかの見方があると思いますが、私は60年代後半から70年代にかけて、当時の二,三十代の歌集が淵源になっていると考えています。

 口語歌の現在は、84年刊の俵万智『サラダ記念日』を始発点としています。その『サラダ記念日』を生み出した口語歌集は、いつのどの歌集だったかという問題です。
 平井弘『顔をあげる』、福島泰樹『バリケード・一九六六年二月』、佐佐木幸綱『群黎(ぐんれい)』などと見ていいでしょう。
 私はすぐ近くで現場を見ていました。『サラダ記念日』は、確実にこれらの歌集の口語短歌をベースにしていました。

 つまり現在の口語短歌の歴史はまだ五十年しかないわけですね(一般の短歌史では、前にも触れた明治36年刊の青山霞村(かそん)『池塘集(ちとうしゆう)』を先駆として上げます。それでもまだ百年の歴史しかないことになります)。

 五・七・五・七・七という短歌型式の成立は、舒明天皇の時代と見ていいでしょう。推古天皇の次の天皇です。舒明天皇の即位は629ですから、短歌形式成立以後、ほぼ1400年の歴史になります。
 50年ないしは100年の口語短歌を絶対視して、1400年の歴史がある「伝統詩」の面を消去してとらえるのは、あまりに近視眼的でしょう。

 こうしてみると、口語短歌が隆盛しつつあった大正時代に、短歌の「伝統詩」という面にあえて光を当てた斎藤茂吉の仕事を、口語化が一気に進みつつある今こそクローズアップした方がいい、私はそう考えます。

 近代短歌は江戸時代短歌を否定することで成立しました。江戸短歌が指標としていた『古今集』を正岡子規が「歌よみに与ふる書」によって否定したのはご存じのとおり。『古今集』を否定して、では「伝統詩」の面をどうするか。指標を『古今集』から『万葉集』に変えようというのが、短歌革新運動期の正岡子規、与謝野鉄幹らのアイディアでした。

 茂吉が「伝統詩」の面を強く意識しはじめるのは『あらたま』以後です。古典和歌の「調べ」に注目し、それを当時の現代短歌にどう生かすか、論・作両面で精力的に追求しはじめます。
 具体的にいえば、『万葉集』を指標とした子規の設計図をベースにして、「万葉調」という「調べ」を、彼の考える「伝統詩」としての短歌の骨格にします。万葉調を実現した歌人として、源実朝を大いに顕彰したのは、これもご存じのとおりです。

 『源実朝』のほかにも、大著『柿本人麿』、ベストセラーとなった『万葉秀歌』等、茂吉は古典研究、古典評論を多く書いています。彼が「伝統詩」としての短歌を強く主張することで、近代短歌史が骨太なものになったことは疑いないと思います。

 斎藤茂吉は口語短歌の台頭に断固反対して、古典和歌の修辞や言い回しを大切にしようと提唱します。大正8年(1919)刊の歌論集『童馬漫語』中の「口語短歌」にこう書いています。

 『口語短歌』といふのが此ごろ世の中に見える。我等なら『けるかも』で行く所を『であった』で行つて居る。そんな歌は己は否である。どうしても『けるかも』で無ければならん。

 ここで言う「口語短歌」は,大正はじめの西出朝風らのそれをさしています。茂吉は短歌の「伝統詩」としての面に光を当てて、古典和歌ならではの修辞法(枕詞、掛詞、縁語などです)、さらには古典和歌独特の短歌的言い回し(「……なりけり」「……けるかも」といったたぐいです)を活用することで、現代短歌は活性化すると主張します。
 とくに音楽的な面で、古典和歌の言い回しは短歌の「調べ」に関して重要な役割を果たすと主張します。
 実例をあげましょう。

あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり  『あらたま』

 この作は茂吉の代表作の一つで、しかも愛誦歌の人気投票ではいつでも上位にくる人気のある歌です。明るく輪郭鮮明な一本の道、そして命。単純明快なそのイメージを生かしているのは、「たまきはる」という枕詞、そして「命なりけり」という伝統的な短歌的言い回しです。
 枕詞と古典和歌的な言い回しが、単純明快なだけではない、「荘重な印象」を読者に与えるのだとおもわれます。
 
 茂吉自身これは得意な歌で、とくに「命なりけり」の部分に大いに自信をもっていると書いています。これも 『童馬漫語』の「『命なりけり』といふ結句」という章を見ておきましょう。
 この「命なりけり」は『山家集』の「年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけり佐夜の中山」がベースになっています。西行が東北への旅の途次、現在の静岡県掛川市の佐夜の中山でうたった一首です。

 茂吉は作歌時に西行の「命なりけり」が念頭にあったと言っています。つまり引用したわけですね。
 しかし模倣ではなく、自分なりの工夫が二点あると書いています。一つは、「命なりけり」を結句(第五句)に置いたこと。いま一つは、両者は意味がちがう、という言い分です。

 『国歌大観』などを見ると、じつは古今集や新古今集などに「命なりけり」が結句に置かれている作が十数首あります。 また、西行の歌では「存命のゆゑである」の意味なのに対して、「あかあかと……」では「生命である」の意味だと茂吉は書いていますが、どうでしょう。
 塚本邦雄『茂吉秀歌・「あらたま百首」』が指摘しているように、この差異は微妙です。西行の歌にだって「生命である」の意味も籠められていると読むべきでしょう。

 茂吉は言い訳をしていますが、そんな必要はありません。ここでのオリジナリティの有無はどうでもいいことでしょう。
 古典和歌の修辞や言い回しを、現代短歌に合うかたちで引用するのは、そのこと自体「伝統詩」としての短歌にあってはオリジナルと考えていいはずだからです。

 最後に茂吉が古典を意識しはじめた歌集『あらたま』から引用しておきます。古典和歌の語法を引用することで、また、意味を希薄にすることで、短歌形式がもつ味わい深い調べを引き出しています。

ゆふされば大根の葉にふる時雨いたく寂しく降りにけるかも  『あらたま』
うつし身はかなしきものか一つ樹(き)をひたに寂しく思ひけるかも
あしびきの山こがらしの行く寒さ鴉のこゑはいよよ遠しも
この深き峡間の底にさにづらふ紅葉ちりつつ時ゆきぬらむ



読み直し近代短歌史8 非日常の美(避病院の向日葵・独特のオノマトペ)・前田夕暮

2016年05月26日 | 評論
 今回とりあげる前田夕暮は、近代短歌史上、重要な仕事をいくつもはたした歌人でしたが、大切な歌人であるわりには文学史で低く見られています。なぜなのでしょう。
 さまざまな理由が考えられますが、最大の理由は、次から次へと作風をダイナミックに展開しつづけたからだと思われます。統一したイメージが作りにくいのですね。歌人としての彼が生涯に挑戦した多様な作風は、とても一言では言いあらわせません。

 日本では「この道一筋」というような、シンプルなイメージの生き方が好まれます。ヨーロッパではちがいますね。
 有名な例は、パブロ・ピカソでしょう。彼は積極的に自分の作風を変化させてゆきました。青の時代→ばら色の時代→キュビスムの時代→新古典主義の時代→シュルレアリスムの時代→ゲルニカの時代……。
 現在の自分に満足せずに、自己否定をくり返しながら、どんどん新しい世界に挑戦しました。ヨーロッパでは、こういった生き方が尊敬されます。前田夕暮も自己否定をくり返し、挑戦を繰り返したのですが、日本では通用しません。歌人としての統一的なイメージが作れないために、なんとなくマイナーの位置に押しやられてしまったのでした。

 前田夕暮の長男・前田透さんは成蹊高校の出身、私の高校の先輩でした。成蹊高校時代は陸上競技部で活躍されたとか、そんなことから私は親しくしてもらいました。ご自宅近くの荻窪駅周辺で何度も夜遅くまで一緒に飲みました。奥様がごいっしょだったこともありました。
 その前田透さんが会社を辞め、成蹊大学に教員として就職されてから、精力的に父・夕暮の仕事を整理し、体系づけ、全体像を描き出す仕事をされました。
 『評伝前田夕暮』を刊行したのが1979年。そして『前田夕暮全集』全5冊の刊行が1972~73年。私は前田透さんに頼まれて、夕暮の大正12年、前田夕暮41歳のときの「天然更新歌稿」について、評論を書いています(『底より歌え』に収録)。「天然更新歌稿」は、この全集ではじめて読めるようになった大作です。

 ここでは、残念ながら、夕暮の作風の展開を具体的に解説する紙幅がありません。
近代短歌史に与えた影響の大きかった4点だけを取り上げておきます。

 A「自然主義の短歌」。明治30年代に隆盛した「自然主義文学」、その短歌の世界での代表的な作品を作ったのは前田夕暮でした。具体的にいえば、最初の歌集『収穫』で、都会のよどんだ空気、乱雑かつ不潔な職場ともども、東京の若いサラリーマンの貧乏生活を表現しました。たとえば、東京のスモッグを最初にうたったのは夕暮です。
 都会や職場の日々のささいな事や物をていねいに歌にしています。明治三十年終わりのことでした。これだけでも、近代短歌史上、大きな成果だったと私は思います。3首だけ引用しておきます。
 
襟垢(えりあか)のつきし袷(あはせ)と古帽子宿をいで行くさびしき男 『収穫』
垢づける布団の上におほひなる虫の如くもまろびねにけり
ほこり浮く校正室の大机ものうき顔の三つ四つならぶ

 B「口語短歌の先端的作品」 口語短歌の先端的・実験的な作を数多く作っています。有名なのは、昭和4年に立川飛行場から朝日新聞社の飛行機に乗って、富士山、丹沢方面を飛んだときの歌「空より展望する」40首(これについては後にも記します)ですが、それに先立つ大正3年刊『生くる日に』にもかなり口語の歌があり、大正12年の「天然更新歌稿」でも口語短歌をエネルギッシュに作っています。

 この面での夕暮の前衛性はまぎれもありません。Dで取り上げる「オノマトペ」をはじめ、「口語短歌の斬新な語尾」「大胆な活字記号の採用」等々、彼の挑戦はいくつもの点で指摘できます。
 活字記号について言えば、句読点、エクスクラメーション・マーク、傍点、ダッシュ、リーダー、疑問符……等々、じつに大胆かつ自在に使っています。口語の歌を少し引用しておきます。

淋しさうにうしろ姿を吾にみせ壁塗をせる彼のやれシャツ 『生くる日に』
みるみる森を村落を田土(でんど)を平面に押しひろげてのぼる機体! 『水源地帯』
ざくりと裁(き)りさげた谷が見え、簡素な陸橋と発電所の屋根が光る

 C「非日常の美の発見」。夕暮は、非日常的な美を短歌に果敢に持ち込もうとしました。日常に取材して日記のような短歌を作るのではなく、日常の外側に積極的に目を向けています。『素描』というエッセイ集から、「避病院」という非日常に注目する自分を描いた一節を引用してみましょう。

 「私の家に正宗得三郎君作、30号大の「向日葵」の油絵がある。年代は1913年とあるから、大正3年の夏の製作である。これは同君がフランスへ行く前に大久保の避病院近くに棲んでゐた頃である。避病院の庭に向日葵が群がり咲いてゐたのを採ってきて写生したもので、黒い瓶にさした七八輪の向日葵が、ゴツホ的なタツチで描いてある。ーー避病院の向日葵といふのが、ゴツホのやうでよいと思つた」。

 「避病院」とは、法定伝染病患者を収容する隔離病院のことです。いわば、日常とは地続きではない場所です。こういう場所に咲いた花に惹かれるというのです。
 夕暮は、日常と地続きではない場所としての「牢獄」の歌も作っています。ついでに、青木繁の油絵「海の幸」を思わせる若い漁師の歌も引用しておきましょう。漁師も、都会人にとっての非日常の人々です。

囚人等輪をなし歩む牢獄のゴオホの絵をばおもひいでたり  『生きる日に』
腹白き巨口(きよこう)の魚を背に負ひて汐川口(しほかはぐち)をいゆくわかもの

 夕暮は明治時代末に後期印象派の絵に夢中になります。前回にとりあげた島木赤彦、さらには赤彦の仲間の斎藤茂吉も夢中になりましたが、のめり込み方は夕暮が断然一番でした。そう思います。特にゴッホとゴーギャンにつよく惹かれるのです。当時の日本の青年にとって、ゴッホの人生も絵のタッチも色彩も、非日常そのものでした。ゴーギャンの歌もありますが、ここには、ゴッホにかかわる作を引用しましょう。

空のもと樹は大揺れに揺れゐたり風さらに吹け樹ようづをまけ 『生くる日に』
向日葵(ひまはり)は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ
向日葵畠ひた啼きめぐり啼きめぐる我が白豚の尾が日に光る

 一首目、糸杉の絵がすぐに思い出されますね。もちろんゴッホの「糸杉」を念頭に作った作です。二首目は夕暮の代表作とされている有名な一首です。「金の油を身にあびて」は、日本人にとっては、まったくの非日常である南フランス・プロヴァンス地方の太陽光にかがやく向日葵の花のかがやきの表現です。美事だとおもいます。三首目は「向日葵の歌」十四首中の作で、向日葵と真っ白な豚の組み合わせが、油絵的かつ非日常的で、見どころです。

 D「冒険的オノマトペの発明と多用」。有名な作では、前にも触れた昭和4年(1929)の機上の歌があります。昭和4年11月、朝日新聞社は4人の歌人を同社が購入したばかりの取材用の飛行機・コメット102号機に乗せました。この年の8月にドイツの飛行船ツェッペリン号が来日したせいもあって、飛行ブームの折でした。はじめて飛行機に乗った4歌人は、興奮気味で多作。「四歌人空の競詠」と題して「朝日新聞」に載った作品は、大きな話題になりました。

 4人とは、前田夕暮、斎藤茂吉、土岐善麿、吉植庄亮。前田透『評伝前田夕暮』にはこうあります。「飛行機から下りたとき茂吉が、「これは短歌では間に合わない」と言ったと夕暮が語った」とあります。吉植庄亮以外の3人は口語歌を作っています。
 夕暮は、この数年前に、「天然更新歌稿」で大量の口語歌を作っていました。そんな事情もあってこのときの作は、茂吉、善麿に比べて、夕暮の作が断然、いい。

うしろにずりさがる地面の衝動から、ふわりと離陸する、午前の日の影 『水源地帯』
自然がずんずん体のなかを通過するーー山、山、山
山裏はしんしんたる大気の大渦巻、機体の揺れがはたりと止まる

 ここには「ふわり」「ずんずん」「しんしん」といったオノマトペがつかわれていますが、このほか、「ひったり」「へうへう」「ちかり」「ざくり」「ぷんぷん」「はたり」「びょうびょう」等々が出てきます。夕暮の短歌とくに口語歌には実験的なオノマトペがじつに多く、しかも自在で斬新です。
 短歌のオノマトペについては、私が『作歌の現場』(1980年に「短歌」に連載・単行本は82年刊)で一章を立てて以来、話題になることが多いのですが、近代短歌史におけるオノマトペのきちっとした研究は未だなされていません。夕暮の果たした役割は大きいはずなのですが。

 最後に私が見つけ、気に入っている例を引用しておきましょう。
 昭和初年に来日したアメリカの黒人プロボクサー・ボビイとライオン野口と呼ばれていた野口進が、日比谷公会堂で対戦したときの作です。ボクシングの歌としてもっとも早い時代の作と思われます。
 注目してほしいのは下句です。「ボビイの顔がぢぐざぐになる」。パンチを打たれて傷だらけになり、腫れてゆがんでしまった顔の表現として卓抜です。短歌史上ベスト3に入るオノマトペでしょう。

ぐいぐい迫つてすばやい短直突(シヨート)だ。ボビイの顔がぢぐざぐになる 『青樫は歌ふ』

 なお、夕暮には昭和初期のレスリングの短歌もあります。スポーツをうたった短歌史でも、夕暮は注目されていいと思われます。



読み直し近代短歌史7 人格主義と新しい風景詠(アララギと後期印象派)・島木赤彦

2016年05月13日 | 評論
 ここでは、島木赤彦について2点をとりあげたいと思います。1つは、雑誌「アララギ」を歌壇一の雑誌に育て上げたこと。2つ目は、後期印象派の影響を受けた、時間を抱き込んだ色彩表現のドラマティックな風景詠が、後の風景詠、旅行詠にあたらしい色彩表現をもたらしたことです。

 伊藤左千夫の没後、古泉千樫方、斎藤茂吉方など転々としていた「アララギ」発行所を島木赤彦方に移します。赤彦は、それまで発行がとどこおりがちだった毎月の定期発行を軌道に乗せ、会員を増やして、「アララギ」を歌壇第一の大きな雑誌に育て上げました。大正時代のことです。

 歌人としての赤彦は、作歌は「鍛錬道」であると言い、その目ざすところは「幽寂境」「寂寥相」だ、と言います。短歌は遊びではない。勉強し、研究し、きびしく追求する世界。彼がイメージした作歌は、まっ直ぐにひたすら突き進むべき「道」である。宗教的な修行を思わせる厳しいものでなのした。

 さらに、赤彦は、作歌と人生を重ね合わせる人格主義を大胆に取り入れました。「アララギ」会員だった岩波書店社長・岩波茂雄は赤彦と同郷でした。その関係もあって、和辻哲郎、安倍能成ら大正時代の思想界をリードした岩波色の濃い人たちが、しばしば「アララギ」に文章を執筆するようになります。彼らの人格主義が「アララギ」会員たちに深く浸透し、支持されてゆきます。

 「アララギ」は、正岡子規の根岸短歌会をみなもととして、「写生」と万葉集尊重を旗印にしてきました。赤彦は、そこに人生論を合体させるわけです。
 赤彦は、上京して「アララギ」編集に専念する以前はずっと、長野県各地の小学校長、諏訪郡観学などを歴任、長野の教育界で活躍した人でした。そんな関係もあって、彼が主導した人生論的な短歌観は、幅広く小中学校の教師たちの共鳴をえます。「鍛錬道」としての作歌のベースには、清く正しい生き方がなければなりません。
 小中学校の教師たちがたくさん「アララギ」に入会します。短歌を作る教員が増えます。教室でも「アララギ」の話をしたりするようになるのです。こうして島木赤彦編集のあいだに「アララギ」会員は一挙に増え、歌壇で一番と言われる雑誌になったのでした。

 なぜ、このことが近代短歌史と関係があるのでしょうか。近代短歌史はいわば短歌結社雑誌の歴史でもあったからです。
 近代短歌は、活字文化がその表通りでした。具体的にいえば雑誌ですね。落合直文の「あさ香社」は雑誌を持ちませんでした。だから影響力が少なかった。正岡子規の「根岸短歌会」も雑誌を出していません。子規や伊藤左千夫は、雑誌がないので、明治三十年代はじめは短歌や評論を「心の花」などに発表しています。

 明治三十年代、四十年代に、新しい短歌結社雑誌が次々に創刊されます。「心の花」、「明星」、「アララギ」、「創作」、「詩歌」……等々が創刊されています。毎月の雑誌発行を中心にした活動のなかで、実作・理論両面ともども切磋琢磨し、若く新しい歌人がそこから育つようになりました。
 そうしたなかで、最初に社会的広がりをもったのは「明星」でした。与謝野晶子人気が起点になって、一種の社会的なブームにさえなりました。多大の発行部数をほこり、第1回に記したように、落合直文の「歌壇の構造改革」の成果で、若者たちが「明星」にたくさん集まります。まだ十代の少年だった福岡の北原隆吉(白秋)、岩手の石川一(啄木)らも含めて、多くの少年少女が「明星」会員となりました。

 こうした近代短歌史と結社雑誌との密接な関係から見るとき、赤彦の力で「アララギ」が大きくなったことは、近代短歌史上の大きな出来事だったのです。雑誌が大きくなるとともに、赤彦はもとより、長塚節、斎藤茂吉、中村憲吉、土屋文明ら「アララギ」の主要歌人たちが歌壇でも主要な位置を占めるようになってゆきます。

 ちょっと横道にそれますが、近代俳句史にも触れておきましょう。歌壇で一番とはどいうことなのか、俳壇と比べてみるとよく分かります。
 俳壇では、高浜虚子が主宰した「ホトトギス」が、一時期、俳壇を完全に制覇しました。たくさんある俳句結社のほとんどすべてが「ホトトギス」を淵源としています。そのことが顕著に分かるのは、「句会」ですね。「句会」の進め方が、基本的にどの結社も同じなのです。みな、「ホトトギス」の「句会」を踏襲しているからです。
 一方、歌壇は、私はそれほど多くの歌会を知りませんが、それぞれの結社でずいぶん違います。それぞれが工夫して、独自の「歌会」の進め方をしています。
 つまり、「アララギ」が歌壇一番の結社になったといっても、俳壇とは事情がちょっとちがうあます。
 
 話題が変えましょう。赤彦の初期の作品に、私の大好きな一連があります。諏訪湖の歌です。ドラマチックに変化する自然の風景を、後期印象派的な大胆な色彩によってとらえています。時間によって変化してゆく一瞬一瞬の動きを色彩によってとらえた異色作です。有名な大正2年作「諏訪湖」7首です。

夕焼空焦げきはまれる下にして氷らんとする湖(うみ)の静けさ 『切火』
冬空の天(あめ)の夕焼にひたりたる褐色(かつしよく)の湖は動かざりけり
たかだかと繭(まゆ)の荷車を押す人の足の光も氷らむとする
押して行く繭の荷車は山の湖(うみ)の夕照(ゆふでり)さむく片明かりせり
かわきたる草枯いろの山あひに湖は氷りて固まりにたり
この夕氷のいろに滲(にじ)みたる空気あかりのいちぢろく見ゆ
おぼろおぼろ湖にくろめる山のいろも崩れんとする夜の寒さはや
 
 赤彦30代終わりの作です。彼は長野県諏訪郡上諏訪村(現・諏訪市元町)の生まれですから、諏訪湖は赤彦が子供時代からよく知っていた故郷の湖です。現在、諏訪湖のほとりに赤彦記念館があります。
 この「諏訪湖」一連七首は、いよいよ結氷しようとする諏訪湖の、夕方から夜までを順を追ってうたっています。
 冬の諏訪湖は、氷に穴を掘ってのワカサギ釣りや、大音響とともに湖面上に氷の亀裂が走ってせりあがる御神渡りで有名です。暖冬がつづく近年とはちがって、この作品がつくられた大正初年ごろは、厳しい寒さで湖の全面結氷が毎年見られたのだと思います。

 一首目はとくに有名な作で、赤彦の代表作ともされています。上田三四二『島木赤彦』が「二句のつよい主観句によって強烈な色彩と息づまるような静寂感が出ている」と言っているとおり、強烈な色彩と深い静寂とが絶妙な交響をおりなしています。ドラマチックに変化する色彩と大きな静寂のなかで進行する湖面結氷という大自然のドラマ。
 私が特に注目するのは、1首目や最後の作の、時間によって動く風景を色彩で表現している点です。こういう試みはまったく新しかったと思います。

 明治末から大正はじめにかけて、白樺派の人たちによって後期印象派の絵画が日本に紹介されました。当時の文学青年たちはこれに夢中になります。短歌を作る青年たちも例外ではなく、前田夕暮、斎藤茂吉、北原白秋らが、強い影響をうけています。

 赤彦は、大正2(1913)年の春に「白樺」が主催した美術展覧会を見に、わざわざ諏訪から上京しています。
 赤彦の西欧絵画への熱中ぶりをしのばさせるエピソードとして、北住敏夫「島木赤彦」(日本歌人講座7『近代の歌人Ⅱ』)は、赤彦というペンネームはゴーギャンのタヒチ島の絵によるものだったという「アララギ」会員の文章を紹介しています。「諏訪湖」7首はこうした時期の収穫だったのです。

 しかし、「写生」を旗印とした「アララギ」の人たちはこの諏訪湖をうたった一連を認めませんでした。赤彦自身もこのままでは認めたくなかったようです。大正14年に刊行した自選歌集『十年』では、 初2句「夕焼空焦げきはまれる下にして……」を「まかがやく夕焼空の下にして……」と改変するのです。「焦げきはまれる」という時間的な表現、動きを抱き込んだ表現を消して、今を写生したかたちの「まかがやく夕焼空」と変えたのです。

 アララギ系歌人研究を専門とした本林勝夫氏はこう書いています。この時期「赤彦の作風は著しい模索と変貌を続けた。特に、茂吉あたりの刺激から後期印象派の作風にしたしみ、影響をうけるところも少なくなかった」と見て、「諏訪湖」をふくむこの時期の赤彦の作品を「乱調期の作」としています(『現代短歌評釈』)。若書きの作と見るわけですね。
 この時期の赤彦の歌を「乱調期の作」と見る見方は、「写生」を軸に赤彦を見る見方からすれば、その通りなのでしょう。

 しかし、赤彦のこうした全く新しい風景詠が、近代短歌の旅行詠や風景詠に大きな影響を与えた、という見方は可能だろう、と私は思います。
 珍しい例をあげておきましょう。最初、赤彦の弟子でしたが、赤彦の死後「アララギ」をやめてしまい、後に一流の歌人になった人がいます。坪野哲久です。坪野哲久の作にこの時期の赤彦の作の影響を見ることが可能です。

 私は坪野さんが好きで、世田谷区経堂にあったお宅に何度もおじゃまして、一緒に酒を飲みました。奥様の山田あきさんが、いろいろ酒のつまみを作って下さいました。坪野さんは、陶芸家の濱田庄司と親しくしておられたとか、ぐい飲みも皿も灰皿も、みな濱田庄司の作なので最初はびっくりしました。
 坪野さんは、そんな折には懐かしそうに、短歌を作りはじめたころ、「アララギ」の添削日に、対面で赤彦に添削をしてもらった話をしておられました。

 坪野さんは赤彦が大好きだったらしい。その頃の坪野哲久さんのお宅での会話を引用しながら、私は坪野哲久論「無頼と一徹」を私は書いています(初出「心の花」昭44・2・『極北の声』所収)。赤彦に会ったころの話を引用してみましょう。
 「島木赤彦の最初の印象はいかがでしたか?」
 「市ヶ谷駅の裏手のところ、たしか佐々木って家だったと思いますが、そこの二階がアララギの編集所でそこで会いました。本当の晩年です。私が19歳のときでした。当時の赤彦は今のわたしよりも若いわけですが、ずいぶんおじいさんで恐く見えましたな。ちょうどこちらは感じやすい年ごろだったし、懇切丁寧に批評してくれたので、私にとっての影響は大きいと思いますよ。系譜なんてどうだっていいけれども、しいてたどれば、わたしの歌は赤彦につながるんでしょうな」
 「そのころの歌はまとめてはおられないわけですね。『九月一日』の前の作品は」
 「そう、みんな散逸しちゃいましたね。熱心に歌を作っていた時期ですから、作品数は相当あったはずですがね。警察にもっていかれちゃったりして」

 最初の短歌の先生だっただけではなく、坪野さんは赤彦のことが好きだったらしい。そう私は思います。信州諏訪出身の赤彦、能登半島の羽咋の北の志賀町(現)出身の坪野哲久。ともに厳しい寒さの風土で生まれ育った者同士です。表現、季節、題材等々、短歌でも厳しさを求めた二人。二人は厳しさ好き同士だったのだ。私が見るところ、厳しさ好きという点で、二人は肌が合ったらしいのです。

 話が長くなりました。その坪野さんの初期の歌を引用しておきましょう。冬の日本海の夕日です。厳しい寒さの中の落日が、日本海の波を炎のように真っ赤に染め上げます。

母のくににかへり来しかなや炎々と冬濤圧(お)して太陽没(しづ)む  坪野哲久『百花』

 先ほど引用した上田三四二の「夕焼空焦げきはまれる……」の評言の一節「強烈な色彩と息づまるような静寂感」が、この一首にもぴたりとあてはまります。

 さて、島木赤彦自身はどうだったのでしょう。「強烈な色彩と息づまるような静寂感」を感じさせる歌が、その後の赤彦短歌に見られるのでしょうか。
 大正12年(1923)10月に、赤彦は満鉄に招かれて満州旅行をします。数え年48歳。死の3年前です。

年月はとどまることなしこの山の岩に沁み入る夕日の光 『太虗集』
東(ひむがし)の月かも早き枯原のはたての雲は夕焼けにつつ
草枯れの国のはたての空低し褪(あ)せつつのこる夕焼の雲

 檀一雄の「夕日と拳銃」ではありませんが、満州の夕日の歌を選んでみました。「強烈な色彩と息づまるような静寂感」ではなく、「枯原ににじむ夕日のしみじみとした寂寥感」ですね。
 諏訪湖の歌はやはり乱調期の作だったとすべきなのでしょうか。



読み直し近代短歌史6 身体語彙の新しさ(乳房・肌・唇) 与謝野晶子

2016年05月01日 | 評論
 万葉集から江戸時代までの和歌、つまり古典和歌では、現代短歌では当たり前のことが当たり前でなかった。今から見ると考えられないような不思議がいくつもあります。その不思議を一つずつ乗り越えることで、短歌の近代化はなしとげられていったわけですね。
 私がとくに不思議に思うことは二つ。古典和歌には食べる歌・食物の歌がないこと。そして人間の身体の部分の名前(身体語彙)がほとんど出てこないこと。この二つです。

 たとえば、万葉集には鵜飼いの歌や若菜摘みの歌はありますが、鮎や若菜を食べている歌はありません。酒を例外として、飲食をうたうのは避けられていたようです。幕末になってようやく食べる歌がでてきますが、それまでは皆無に近い。
 食うことは個人的なことですし、人前で言葉にすべきことではないとされたのでしょう。料理もほとんどうたわれませんでした。

 身体語彙も、ほとんど出てきません。例外は女性の髪ぐらいでしょうか。たとえば、性的場面をもうたっていることで知られる『万葉集』の「東歌」にも、露骨な表現はありますが、身体語彙は出てきません。
 二つばかり例をあげておきましょう。「……入りなましもの妹(いも)が小床(をどこ)に」(彼女のベッドにもぐりこむことができたらいいのになあ)、「……子ろ吾(あれ)紐解く」(あの子と俺はお互いの服の紐をほどき合う)。
 このように具体的にセックス場面を表現しながら、顔、首、胸、足、唇、鼻など、身体語彙は出てこないのです。なんとも不思議ですね。
 近代短歌は、これを解禁します。先頭に立って解禁へ向けての役割を果たしたのが、与謝野晶子の第一歌集『みだれ髪』でした。

 『みだれ髪』は、晶子まだ24歳のときに出版した歌集です。歌集刊行年齢として圧倒的に若い。
 若さにまかせた大胆で型破りな表現、文法的にまちがった表現も『みだれ髪』には少なくありません。まだ歌作の素人だったんですね。未熟だったんです。晶子は後年の改訂版で、『みだれ髪』掲載作品の何首かを削除したり、文法的な誤りをただしたり、表現をおだやかなかたちに推敲したりもしています。
 しかし、まあ、若かったからこそ大胆になれる。古典和歌ではタブーだった身体語彙を積極的に採用したこともその一つでした。これが近代短歌史の新しい1ページを開くことになります。

乳ぶさおさへ神秘のとばりそとけりぬここなる花の紅(くれなゐ)ぞ濃き 『みだれ髪』
細きわがうなじにあまる御手のべてささへたまへな帰る夜の神  
くれなゐの薔薇のかさねの唇に霊の香のなき歌のせますな
春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳を手にさぐらせぬ
罪おほき男こらせと肌きよく黒髪ながくつくられし我れ 
 
 「乳ふさ」「うなじ」「唇」「乳」「手」「肌」「髪」が出てきます。これらは恋愛の歌ですが、そうでない歌にもむろん出てきます。1首だけ引用しましょう。

母なるが枕経(まくらきやう)よむかたはらのちひさき足をうつくしと見き

 この歌には「足」が出てきますね。この他、「額(ぬか)」「肩」「爪先」「頬」「眉」「指」「歯」「胸」「口」等が出てくる歌があります。
 中には比喩表現として出る身体語彙もありますが、とにかく古典和歌とはちがう新しいボキャブラリーがじゃんじゃん登場するのです。

 なぜ、与謝野晶子は身体語彙を短歌のなかに入れることができたのでしょか。当然、何らかの影響下にあったはずです。若かった晶子が偶然に思いついたわけではまったくありません。
 ここでは詳しく触れる紙幅がありませんが、薄田泣菫、蒲原有明ら同時代の詩人たちの詩に出てくるボキャブラリーの影響が早くから指摘されています。
 
ついでに言えば、『みだれ髪』には他にも顕著な特徴があります。色彩語、数詞、地名がきわめて多く出てきます。それぞれについての研究がすでにいくつも出ています。
 中で、私がとくに注目するのは数詞です。『みだれ髪』は当時の10代、20代の短歌愛好者に圧倒的な影響力をもちますが、とくに数詞の多さはインパクトがあったらしい。
 たとえば、萩原朔太郎の歌集『ソライロノハナ』を見るとそのことがよく分かります。若かった朔太郎が、『みだれ髪』のどこに魅惑されたのか。どこに詩的刺激をを受けて作歌意欲をかきたてられたのか。そのあたりがよく分かります。それについては、私が書いたことがあります。

髪五尺ときなば水にやはらかき少女ごころは秘めて放たじ
その子二十(はたち)櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな

 2首とも有名な歌です。数詞が短歌に派手な感じを付与している点に注目してください。「髪五尺」「その子二十(はたち)」という初句のインパクトが人々の人気を集めるポイントだったと思われます。

 数詞というと、具体的、現実的な数値をそのまま表現するように思いますが、短歌作品の中ではじつはそうではなく、現実や実際を、抽象化、象徴化、朧化、雰囲気化していることに気づきます。
 2首の主人公は作者・晶子と重なり合うように作られていますが、現実の晶子が20歳だったわけではなく、晶子の髪の長さが5尺あったわけではありません。

 もう一例、数詞の歌を引用しておきましょう。

狂ひの子われに焔(ほのほ)の翅(はね)かろき百三十里あわただしの旅
しら壁へ歌ひとつ染めむねがひにて笠はあらざりき二百里の旅
さびしさに百二十里をそぞろ来ぬと云ふ人あらばあらば如何ならむ

 「百三十里」「二百里」「百二十里」、この三つの数詞は、三つとも東京・大阪間の距離をあらわしています。一首目は、晶子が大阪堺の家を出て東京の鉄幹のもとへ来たという現実を踏まえての作。二首目、三首目は、まだ堺の家を出る前の歌で、二首目は空想の旅、三首目は東京から鉄幹が来てくれたらいいなあ、との願望・幻想をうたっています。

 李白の詩の「白髪三千里丈」と同じです。現実をなぞったのではない数詞。言葉自体のインパクト、言葉のリアリティで勝負しているのです。そのあたりの数詞の魔力、魅力に、晶子はいちはやく気づいたのです。

 考えてみると、この、短歌表現における数詞のインパクトの強さは、短歌表現における身体語彙のインパクトの強さに通じ合うことがわかります。
 身体語彙、数詞、これらを思い切って多用した与謝野晶子の歌の言葉の派手さが、当時の中学生たちを魅惑した大きなポイントだった。そして、彼らの支持が、近代短歌史の新たな1ページを開く原動力になったのです。私はそう理解しています。