goo blog サービス終了のお知らせ 

ほろ酔い日記

 佐佐木幸綱のブログです

戦国武将の歌10 徳川家康 1543年(天文11)~1616年(元和2)74歳

2017年03月06日 | エッセイ
徳川家康に関しては、鉄砲の名手だったとか、剣術が強かったとか、さまざなエピソードが伝えられていますが、和歌についてのエピソードはあまり聞きません。なるほど得意ではなかったようですが、それでも一応、人並みに作歌をたしなんではいたようです。十数首の歌が伝えられています。

 天正十六年(一五八八)四月、豊臣秀吉が絶頂期を迎えようとする時代のこと、聚楽第に後陽成天皇の行幸がありました。
 この行幸は五日間にわたり、四月十六日には約七十人が参加する大がかりな歌会がひらかれています。
 歌会にはもちろん多くの公卿が参加しましたし、武士たちも参加しています。豊臣秀吉は当然のこと、豊臣家ゆかりの人々、そして徳川家康をはじめとするそうそうたる武将たちが歌を出しています。織田信雄、宇喜多秀家、前田利家、堀秀政、細川忠興、井伊直政、京極高次、長宗我部元親……。
 その日、出された歌題は「松に寄せて祝いを詠う」。家康は次の作を出しています。

緑立つ松の葉ごとにこの君のちとせの数を契りてぞみる 徳川家康
 (緑が美しい無数の松の葉一本ずつに、天皇のお命が千年にも及ぶように、そのご繁栄を契るのです)

 「松」はもともとめでたい木であり、しかも祝いの心をうたえ、というのですから、どうしても型どおりになってしまいます。家康の歌も型どおりで、とても秀歌とはいえませんが、公的な場で通用するレベルは十分クリアしていると見ていいでしょう。

 家康が天下を取る前は、秀吉の周辺にいて、付き合いの歌会をこなさなければならない場も多かったにちがいありません。前回、書いたような事情で、秀吉主催の歌会を欠席するわけにはゆかず、出席する場合でもおざなりな歌、あまりに下手な歌を出すわけにはゆきませんでした。

 文禄三年(一五九四)二月の秀吉主催の有名な吉野での花見歌会での歌が記録されています。この歌会の時の家康・秀吉の歌をならべて引用しておきましょう。

咲く花をちらさじと思ふみ吉野は心あるべき春の山風  徳川家康
 (咲いている花を散らすまいと思う思いやりの心があってほしい、吉野の山の山風よ)
年月を心にかけし吉野山花のさかりを今日みつるかな 豊臣秀吉
 (長い年月ずっと期待してきた吉野山の満開の桜、その桜を今日ついに見たのである)

 あえて優劣をつけるとすれば、やはり秀吉の歌の方が上でしょう。今日その日の気分の高まりに焦点を合わせている分だけ、歌の輪郭が明快です。

 こんな歌とエピソードがあります。川田順『戦国時代和歌集』が引用する近藤重蔵『冨士之煙』に出てくるものです。慶長五年(一六〇〇)九月十五日、関ヶ原の戦陣において、高野聖(こうやひじり)の総代・高野山常光院の僧へ家康が与えた歌だというのです。本当でしょうか。日付を見てください。関ヶ原の戦いのその日のことです。陣中見舞いの品を持ってきた高野聖に、家康が書き与えたというのです。
 関ヶ原の戦いは、九月十五日午前八時ごろ本格的な戦闘がはじまり午後四時ごろには終結したとされています。その夜、書き与えたのでしょうか。

旅なれば雲の上なる山こえて袖の下にぞ月をやどせる  徳川家康
(軍旅であるから、雲の上にそびえる山をも越えてきて、今宵は、わが鎧の袖の下に月下の夜景をながめたことである)

 『冨士之煙』の著者・近藤重蔵は、信頼していい人物と思われます。クナシリ・エトロフの探険で知られる幕末の探検家で、著書も多くあります。彼によれば、「大権現様(徳川家康)御真筆の御色紙」が、当時は高野山常光院に現存していて、彼自身がそれを写した、とあります。


▼「心の花」の梅原ひろみさんから「ナンバー10の徳川家康」が落ちている、というご指摘をいただきました。遅くなりましたが「戦国武将歌10・徳川家康」をアップしました。



斎藤史・前登志夫さんへの追悼文

2017年02月10日 | エッセイ
 三省堂から昨年4月『追悼文大全』という大部な本が刊行されました。
共同通信から配信され、各地の新聞に載った27年間分(1989年~2015年)の追悼文を1冊にまとめたものだそうです。
広告文によれば770編、筆者460名にのぼる、とあります。

 小生の書いたものでは、斎藤史さん(2002年没)、前登志夫さん(2008年没)への追悼文があって、そのページの抜き刷りが送られてきました。
送られてきたのは去年か一昨年だったですが、机を整理していたところ、たまたま出てきたので、また、小生の単行本には未収録ですので、スキャンしたものをここに載せさせてもらいます。

 斎藤史さんの葬儀には、長野まで出かけてゆき、弔辞を読ませてもらったのを思い出します。
祭壇に赤や黄色のカラフルな花々がいっぱい飾られていて、驚いた記憶があります。ご本人のご希望だったとか。斎藤史さんらしい、華やかな、明るい空気の斎場でした。

 前登志夫さんは、若いころ詩人として仕事をしておられ、第一歌集『子午線の繭』を1964年に出版。歌人として活動されるようになったのが遅かったせいで、年齢的には大先輩でありながら、歌壇的には同輩のようなつきあいをさせていただきました。具体的に言えば、まあ、二人で肩を組んでよく飲み歩いたのでした。
 前さんの飲み方はすさまじく、もう滅茶苦茶でした。
世間的な配慮等はまったく視野の外。誰がいようと、そこがどこだろうと、まったくお構いなし。ここに書けないようなことも色々ありました。言ってみれば、まあ、古代人のような純粋さを生きた男だった、ということにしておきましょう。





戦国武将の歌12 伊達政宗 1567年(永禄10)~1636(寛永13

2016年12月26日 | エッセイ
最終回は伊達政宗です。
仙台の青葉城公園の大きな騎馬像でおなじみでしよう。巨大な三日月の前立(兜の飾り)は、一度見たら忘れられない。「伊達者」という言葉があります。派手好きな人物だったようです。

 勇猛な武将として有名な人物ですが、数年前に『武将歌人・伊達政宗』(伊達宗弘著)という本が刊行されています。「武将歌人」とタイトルにあるように、短歌をよくした人物でした。
 歌人として有名な木下長嘯子(ちようしようし)と深い交流がありました。長嘯子は秀吉の北の政所ねねの甥に当たり、武将としては失脚するのですが、歌人としては細川幽斎とともに、桃山時代・江戸時代和歌史で重要な位置を占める人物でした。その木下長嘯子と歌人同士としてつきあっていたぐらいでした。

 文禄二年(一五九三)七月、いわゆる「文禄の役」で、朝鮮出兵中に伊達政宗の部下の一人が病没します。政宗はその死を悼んで「なむあみだぶ」の六文字をそれぞれ冒頭に据えて、六首の挽歌を作っています。

なつ衣きつつなれにし身なれども別るる秋の程ぞものうき
 (これまでもつらい経験をしてきた自分だが、この秋に部下と別れるのはことさらにつらい)

むしの音(ね)は涙もよほす夕まぐれさびしき床の起伏(おきふし)もうし
 (虫の音が涙をさそう秋の夕暮れ。部下なき後の日々はつらいものだ)

あはれげに思ふにつれぬ世のならひ別れし友の別れもぞする
 (ああ、まこと思うようにはならぬ世の中であることよ。一旦別れた友と、さらに永久の別れをしようとは)

みるからになほ哀れそふ筆の跡けふより後の形見ならまし
(見るにつけていっそう哀れをさそう筆跡よ。今日からは故人の形見となるだ)

たれとても終(つひ)には行かむ道なれど先立つ人の身ぞあはれなる
 (人間は誰でもかならず行く死への旅路ではあるけれど、それでもやはり、先に行く人の運命はあわれに思われる

ふきはらふ嵐にもろき萩の花誰しも今や惜しまざらめや  
(強風にもろくも散らされる萩の花のように、はかなく散った命よ。だれが惜しまないでいられようか)

 部下の名は、原田左馬介宗時。朝鮮出兵中に発病し、帰国を命じられたが、途中、対馬で病没します。享年二十九。
 掲出歌の「別れし友の別れもぞする」は分かりにくいが、生きて別れた友と再び別れるの意。戦地で別れ(宗時は先に帰還した)、のちに訃報を聞いて二度目の別れをした、というのです。

 「なむあみだぶ」の六字を冒頭において六首を並べるような、こういう手法は平安朝時代から行われていて、特に珍しいものではありません。しかし、じっさいに作るとなるとそれなりに作歌に親しんでいないと、すぐには作れません。追悼の思いの深さと、政宗が作歌に熟達してことを思わせる例と見ていいでしょう。

 関ヶ原の戦いの時、伊達政宗は上杉景勝を牽制するためという理由で、直接に参戦することはありませんでした。戦力に自信をもつ武将としては忸怩たる思いがあったようです。こんな歌を残しています。

皆人はかへる浪なる名取川(なとりがは)われは残りて瀬々の埋木(うもれぎ)
 (他の武将たちはみな名をあげ、大幅の加増を得て領国に帰って行ったが、われ一人は何の戦功もなく、埋もれ木のように残されている)

 こういう愚痴のような歌を残した武将はほかにはいません。たとえ愚痴のようなかたちであったとしても、自身の本音を短歌のかたちで歴史に残しているのは、さすがという気がします。


戦国武将の歌11 蒲生氏郷 1556年(弘治2)~1595年(文禄4)

2016年12月24日 | エッセイ
 戦国武将中屈指の才能と実力を持ちつつ、四十歳の若さで不本意なうちに他界した蒲生氏郷。氏郷の辞世の歌をまず引用しましょう。 どうしようもない口惜しさのにじむ歌です。大きな志を持つ人物だったからこそ、なおさらにあわれを感じさせます。

かぎりあれば吹かねど花は散るものを心みじかき春の山かぜ 蒲生氏郷
 (命には限りがあるのだから、風が吹かなくても間もなくしぜんに花は散るのに、運命の神は短気で、まだ春の山に風を吹かせ、花を散らせる。まだ四十歳の人間の命を奪う)

 主家・六角氏が滅ぼされたために織田信長に降った父・賢秀の人質として、岐阜の信長のもとに送られたのが、氏郷十三歳の年でした。
 人質ながら、信長は彼の才能を深く愛して娘の冬姫を妻として与えます。氏郷はその期待に応え、姉川の戦い、朝倉攻め、長篠の戦い等々、信長の天下統一のために大いに活躍しました。本能寺の変の時には信長の妻子を引き取って、自身の立場を明確にします。

 氏郷は、立場を明確にしては危険と分かっていてもやるべき時はやる、そういう人物だったらしい。
 千利休が罪せられて自刃した後、その遺児をしばらく預かって恩にむくいています。たくさんいた利休門下の大名たちはみな、秀吉をはばかって遺児を引き取る者はだれもいなかった。氏郷は敢然として火中の栗を拾ったのです。

 信長の死後、氏郷は豊臣秀吉に仕え、小牧・長久手の戦い、九州征伐等に参戦、松坂城を築きます。さらに小田原征伐等に参戦、秀吉の東北経営の布石として会津黒川(氏郷が会津若松と改称します)に移封され、黒川城を居城としました。四十二万石(後に九十二万石)の大身です。

 小田原征伐後、秀吉から「会津に行け」と命じられた時のエピソードがあります。
 氏郷が陣屋に帰り涙ぐんでいたので、家臣が、「大国の領主になられて、なぜ悲しんでおられるのですか?」と問うたところ、「小身でも都近くにいれば天下に望みがある。いかに大身でも遠国では望みはかなうまい」と嘆いたというのです。氏郷の夢と野心の大きさを語るエピソードです。

 氏郷の会津転封は、伊達政宗を牽制する意味と、秀吉が氏郷を都から遠ざけようとしたためだと思われます。氏郷の夢と激しい野心は、秀吉の側から見れば、ひどく危険だったのです。
 会津黒川城を居城としてからわずか五年後、氏郷は京都にて病死します。

 文禄の役の時、氏郷も兵を率いて、会津を出発、京都を経て、秀吉が朝鮮出兵の本営を置いた肥前名護屋(佐賀県鎮西町)に参じました。その道中の歌があります。

世の中にわれは何をか那須の原なすわざもなく年やへぬべき
 (我は何をなすためにこの世に生まれたのか。那須を通過しつつふと思われる。不本意なままに時間だけが過ぎて行っていいものか)

思ひきや人のゆくへぞ定めなき我がふるさとをよそに見むとは
(思いもよらなかった。人間の運命は不可解なものだ。生まれ故郷を旅しながら、無縁な場所のようにただ通り過ぎてゆくだけとは)

 滋賀県を通過するときの感慨です。生まれ育った蒲生の地。信長に仕えた岐阜。思い出深い故郷を、急ぎ通過してゆく感慨です。
 これまで見てきた武将たちの歌とは一味も二味もちがうことに気づかれると思います。ただある今、此処をうたうのではない。激烈な速さで動きゆく時間の流れの中の、今そして此処をうたっています。
 あともう三年もない命を抱く作者の歌と思って読むと、なんとも切ない二首ではあります。

戦国武将の歌9 豊臣秀吉 1537年(天文6)~1598年(慶長3)

2016年12月06日 | エッセイ
 豊臣秀吉の辞世の歌として、古くから有名な歌があります。なかなかの作です。恬淡とした感触がいい。軽々とした言葉のつづきが快く、愛誦性があります。

露と落ち露と消えにしわが身かななにはの事も夢のまた夢       豊臣秀吉
(露のようにこの世に生まれ落ち、露のように消えてしまうわが身よ。何事も、難波(大阪)のことでさえも、すべて夢の中の夢であったよ)

 「なにはの事」とは、井上宗雄『和歌の解釈と鑑賞事典』が言うように、「難波の事」と「さまざまの事」が掛けられていると見ていいでしょう。未練たらしいところがまったくない歌で、さらっとした味わいがなんともいえず、いい。

 秀吉は、天下を取ってから、聚楽第に公家や武将をあつめて、じつに大がかりな歌会を何回も開催しています。この歌会はうっかり休めない大変な歌会でした。きちっと出席することが秀吉への忠誠のあかしだったわけですから、万一欠席したりすれば、不忠とみなされます。すでに紹介した川田順『戦国時代和歌集』等でその記録をみることができます。休めない歌会で、相当無理をしながらも多くの公家や武将たちが参席していた実態が分かります。

 秀吉としては、成り上がり者というレッテルを払拭し、公家と対等につきあってゆくイメージ作りとして、伝統的文化としての和歌をたしなんだとされていますが、まだ羽柴姓を名乗っていた若いころから、狂歌のような歌をかなりの数、作っています。私が見るところ、もともと言葉が好きな人物だったと見るのがよさそうです。

 有名な備中高松城の水攻めの時、次の歌を作り軍勢の意気を高めたという話があります。

両川(りようせん)の一つに成つて落ちぬれば毛利(もり)高松も藻屑にぞなる
(二つの川が一緒の落ちれば、森や大きな松が水没するように、毛利軍も高松城も藻屑となりはてるだろう)

 「両川」は、秀吉の敵側についた吉川元春・小早川隆景の二人を意味しています。「毛利高松」は「毛利軍・高松城」と、「森・高い松」が掛けられています。じっさいに秀吉がこの歌の作者だったかどうかは疑問のあるところですが、『陰徳太平記』は「吉川元春、小早川隆景、高松応援として出馬せし時、秀吉、右の狂歌めきたるものを作り、諸陣にふれしめ、軍気を励ましたり」としていて、秀吉作と信じられていただろうことを想像させます。とすれば、やはり、若い時代から言葉が好きな人物だったと見てよさそうです。

 さて、天正十四年春、秀吉は参内したあと、宮中の桜を、桜の木の下に立ってしばらく花を眺めてから帰館しました。それを知った正親町天皇が、桜の枝に御製をつけて秀吉のもとに贈られました。秀吉は勅使を待たせて、その場で返歌を作って渡したといいます。こういう歌です。即吟としてはなかなかの出来です。

忍びつつ霞と共にながめしもあらはれにけり花の木のもと
(春霞に隠れるように、ひそかに宮中の桜をながめておりましたのに、お気づきでしたのですね。花の木のもとにおりました私に)

 富士山の歌もあります。小田原征伐のために関東に来た折りに、じっさいに富士山を見ての作です。これも簡潔でなかなか、いい。

都にて聞きしはことの数ならで雲ゐに高き不二の根の雪
(都で聞いていた比ではなく、遙かな高さの雪の富士の嶺よ)

 こういう歌を見ると、秀吉の歌は単なる社交の具だけではなかったように思えます。言葉好きな男の楽しみ、そういう一面もあったと思うのですが、いかが。