その邸は、左大臣の東三条(とうのさんじょう)邸よりも少し下った六条あたりにある。どの邸も高い築地の壁にぐるりと囲まれているから中の様子など路を往くだけでは分からない。六年ほど前、この邸の主となったのは陽 潤連(あきらの みつら)であるが、まだ十代半ばの潤連が主となったところで、前栽や広い庭を丹精するなどということに興味も薄く放っておいた。潤連の前の主は、始終住まいするわけではなく、時に物忌みの日 . . . 本文を読む
朝、いつものように理能は蔵人所で、五位蔵人の皆と今日の予定などを話した。それぞれが仕事にとりかかろうとしているところに、奥の廂をいつもより早足で左大臣がやってきた。
蔵人所に入ってくるなり左大臣は、理能の横に座って檜扇をパッと開くと理能に耳打ちする。
「そなたに頼みがある」
皆に挨拶もなく、「そなたに…」などと耳うちするということは、間違いなく個人的な用向きである。であれば当然、家族のことだ . . . 本文を読む
千里(ちさと)がむっすりとした顔で蔵人所(くろうどどころ)に戻ってきた。洋泉(ようぜい)の顔を見るなり、小さく舌打ちしたのを、洋泉も只寿(ただいき)も延安(のぶやす)も見逃さなかった。洋泉は、ニコッと笑って「私を探しに行ってたんだって?」と言った。
「はい」と小声で千里は答えて、自分の文机に行こうとしたが立ち止まって振り返り、大きな声で洋泉に向かって「頭の中将殿、頭の弁殿が出仕されました。そのこ . . . 本文を読む
理能(まさとう)と洋泉(ようぜい)が帝のおられる清冷殿(れいせいでん)から蔵人所(くろうどどころ)に戻って半時ほど経っているが、千里(ちさと)は未だ、「洋泉に、理能が出勤したと伝えに行く」という任務を果たせずにいるらしい。それに、誰も千里のことを話題にしていない。
蔵人所の年長二人は千里のことなど忘れているかのようだ。只寿(ただいき)は書き物をしていたし、雅道は書庫にいた。
紀 雅道(きのまさ . . . 本文を読む
寿樂帝(じゅらくてい)が二人を呼んだのは、もちろん例の一件についての進展を聞きたいからだが、それ以上に気になることがあった。潤連のことだ。潤連は臣下ではあるが寿樂帝の異母弟。潤連が「潤(じゅん)」と呼ばれていた幼い頃から、側に呼んで共に時間を過ごすことが多かった。寿樂帝には兄が二人、姉が二人いた。誰もが長兄の淳篤(じゅんとく)親王が父帝の跡を継ぐと思っていたし、淳篤(じゅんとく)親王が東宮であら . . . 本文を読む
校書殿の裏庭から小さな階を登り孫廂を行くと、角に蔵人所(くろうどどころ)がある。蔵人達は出勤時にこの小さな階からは上がってこない。校書殿正面の大きな階から上がってくるのだが、この雨の季節だけは、近道をして裏の門から内裏に入り、裏庭を横切って蔵人所に来る。蔵人所で裏庭の方を向いて文机を並べていると、裏庭を横切ってくる人物は丸見えだ。見ようと思わずとも、視界に入る。
朝、出勤してきた理能(まさとう . . . 本文を読む
物忌みの日で、家から出られない理能(まさとう)だったが、外出しないというだけで忙しさはいつもと変わらない。昼までは、妻の桜子(おうし)の文を待ち気もそぞろだった。文が届いたところでようやくのんびりできるかと思いきや、末妹の恩子(めぐむこ)がやってきて、桜子(おうし)の妹、桃子(とうし)のことで苦情を言う。それをたしなめていたところに、これまた妹の理子が先日の騒動を改めて謝りたいと殊勝なことを言い . . . 本文を読む
恩子(めぐむこ)の洞察力、勘、そういうものに少々驚き、理能(まさとう)が返事に窮しているところ、おおざっぱな衣摺れの音が聞こえてきた。爽やかな緑色の中に白や桜色を重ねてた菖蒲の襲目(かさねめ)の袿を着た理子(おさむこ)が部屋の前の廂まできた。こうして女人の衣装を身につければ、なんとも瑞々しい姫君である。
「マサ兄様、恩(めぐ)、お邪魔してもいい?」
「これはこれは、理子(おさむこ)。さぁ、入って . . . 本文を読む
理能(まさとう)が二晩続けて自邸に戻ったのは、この一年の間なかったことだった。一昨日の朝、理才(まさかど)と理子(おさむこ)の一件を目の当たりにして、少し自分の家のことも気にかけなくてはと思ったのだった。昨日の朝、理才(まさかど)と理子(おさむこ)の一件を書いて桜子(おうし)に文を出したのだが、珍しいことに、返事がこなかった。
――きっと、怒ってるんだろうな。昨晩で五日もあちらに行ってないんだ . . . 本文を読む
このようにむしむしとした雨の日が続くと、三つ子の姫達は機嫌が悪くて、桜子(おうし)も困る。加えて、ここ四日、理能が帰ってこないのだからどうしても、気持ちも塞ぎがちだ。
理能(まさとう)が忙しいのはよく分かるし、他の女のところへ行くようなことは到底考えられないのだが。毎日、多い日には日に二回も理能に文を書く。理能(まさとう)も筆まめだから、その都度、短くても必ず返事をくれる。短い内容で、質のあま . . . 本文を読む