寿樂帝(じゅらくてい)が、承杏殿(しょうきょうでん)から戻った時には、すでに久遠院(くおんいん)は退出していた。涼しい部屋に一人、座り込み、一つため息をついた。悪い知らせと良い知らせ、先に聞いたのが悪い知らせで良かったかもしれないと思う。
久遠院は、嵐山院(らんざんいん)の様子を語っていたがその表情から声の調子から、もうどうにもならないといった諦めが見えた。父、嵐山院はすでに正気を失っているよ . . . 本文を読む
「ジジイが動き出したのなら・・・、東宮妃の懐妊というのは噂だけではない真のことであろう」
左大臣公展(きみのぶ)は、抑えた声でひとりごとのように言った。左大臣がジジイと呼ぶのは、神祇の伯(じんぎのかみ)、周羽基為(すわの もとい)である。基為(もとい)は、昨日になって、自分と自分の養子を、東三条(とうのさんじょう)邸で催す宴に呼んでほしいと、こともあろうに帝に頼みこんだと言うのだ。それで、理能 . . . 本文を読む
寿樂帝(じゅらくてい)は、奥に久遠入道(くおんにゅうどう)を待たせたまま、昼の御座にお出でになった。頭の弁・萩原理能(はぎはらの まさとう)に伝えなければならにことがあるのだ。
昨日、日暮れの頃に、神祇の伯(じんぎのかみ)周羽 基為(すわのもとい)が目通りを求めてきたので、珍しいことと思い、会うことにした。周羽とは神事のある時くらいしか会うことはないから、帝位に就いて二年目の寿樂帝にとってこれが . . . 本文を読む
「私の方こそ、千里(ちさと)クンには迷惑をかけて、申し訳ない」
「いいえ」
「今日はご自邸で稽古していたのではないんですか」
小さな窓からわずかの熱気が入ってくる書庫で、理能(まさとう)は、ゆっくりと椅子に座り、高机をさしはさんで千里に椅子をすすめた。しかし、千里は椅子には座らず、理能(まさとう)の目の前に立つと、収まりきらないものをためこんで、外に決して出すまいとしているようで、肩で息を . . . 本文を読む
理能(まさとう)がほぼ徹夜で桜子(おうし)との合奏の練習を終えた朝、いつもより遅く蔵人所(くろうどどころ)に出仕すると、紀雅道(きのまさみち)、藤原只寿(ふじわらのただいき)、桐生延安(きりおいののぶやす)はすでに、自分の文机を出していつものそれぞれの場で仕事を始めていた。理能(まさとう)の文机も整えられており、挨拶をするとすぐに理能も仕事を始められるようになっていた。
「遅くなりました。雅道 . . . 本文を読む
萩原理能(はぎはらの まさとう)はこの季節、いつも疲れてしまう。真夏の暑さが一山を越え、秋の虫の音を聴くまであとひと踏ん張りしなければというこの季節である。
この甘島(ましま)の国では、冬に生まれた者は夏を苦手とし、夏に生まれた者は冬を苦手とすると言われている。甘島古来のしきたりを守る家では、生まれた赤ん坊に、半年から一年を過ぎるまで名前をつけない。冬に生まれた赤ん坊が夏の暑さを連れてくる神に . . . 本文を読む
寿樂帝が話したかった馬弓の会の話は、どうやらできそうもない展開だ、残念なことに。しかし、理能の話を聴いているうちに、明日の久遠入道の来訪の理由がなんとなく分かってきた。
「明日、久遠入道が内裏に参られる」
寿樂帝がそう言うと、三人は今まで呼吸が止まっていてようやく息を吹き返したように身を動かした。潤連が顔を明るくして、尋ねる。
「ご用の向きは? 久遠入道御自ら、内裏に参られるとは、よほどの . . . 本文を読む
蔵人所で、不意の左大臣登場に最も驚いていたのは、洋泉だった。
「こ、これは別当殿」と言いながら、慌てて、少し後ろに下がって座りなおし、左大臣を迎え入れる。
左大臣は、頭を下げている皆の中を通って、部屋の奥の真ん中に座った。皆が顔を上げたのを見て、理能に
「仕事中に、私事の宴の話など、あまりよろしくないですね」
と静かに言った。
理能は恐縮して、深々と頭を下げるが、左大臣はすでに理能を見 . . . 本文を読む
科野(しなの)右大臣主催の馬弓会(うまゆみのえ)は、寿樂帝(じゅらくてい)も大いに楽しまれた。まことに暑い日であったが、昼過ぎから日暮れまで、多くの若者達が、弓の技術、馬の乗りこなし、太刀の力技などなどいくつもの種目で競った。
寿樂帝は幼少のころから、書物を読んだり、絵を見たり描いたりということが好きであった。東宮につかれる前は、先帝の三番目の皇子でもあり、先帝から見捨てられた時代もあったか . . . 本文を読む
「はじめてお目にかかります。本日は、ご無理を言って来ていただき、ありがとうございました」
と、理能(まさとう)は立ちあがってにこやかに挨拶をした。
霧のように部屋に入ってきた、色白の大常巡(おおつねの めぐる)は意外と小柄だ。背の高い理能を上目づかいでちらりと見ると、すばやく部屋の奥に座った。
「べつに。ここへ来る用事がたまたまあったからで、わざわざ来たわけではないですから」
そう言う巡 . . . 本文を読む