噂というのは、当人が思った以上に速足だ。朝一番に桜子(おうし)の妹、桃子(とうし)が、まぁ、どちらかと言えば理能(まさとう)のことよりも陶星(とうせい)のことが聞きたくてやってきた。
それからまだ数時間しか経っていない、昼時。小い姫達をかまいながら、あちこちから届いた文をのんびりと読んで過ごしている理能の所に、この広大な邸の西の町の女房、すなわち左大臣公展(きみのぶ)付きの女房が先触れに来た。 . . . 本文を読む
「今日はお休みした方がいいんじゃない?」
桜子(おうし)は、筒の中を覗く猫のような格好で、膝と肘を付いて外から御帳台に肩まで入れ、まだ褥でうたうたしている理能(まさとう)の顔を覗き込んでそう言った。
「そんなにひどいかい?」
「ひどいというほどでも…。でも、見るからに痛々しい」
理能は、いつもより重い身を起こして、頬をさすった。痛みはさほどない。桜子が御帳台に入って、いっそう理能の顔を心配 . . . 本文を読む
理能(まさとう)たちは人の波に押され、少しずつ上の後ろのほうへ戻されていく。深谷(ふかや)は声も出ずに理能の袖にしがみついていた。山吹(やまぶき)は立ちすくんで動けない。洋泉(ようぜい)が肩を寄せて後ろへ連れていこうとしている。
すると、藤重(ふじしげ)とその部下たちが外側から舞台のほうへ走ってくるのが見えた。舞台に向かって、また矢が飛んでくる。どれも空に向けて射られ、勢いを失い、陶星(とうせ . . . 本文を読む
「判官殿、御苦労ですね、喧嘩の仲裁までされるとは」
戻ってきた藤重(ふじしげ)に、理能(まさとう)がそう言うと、藤重は、たいしたことではないといった風情で、軽くうなずいた。
「中将の君・・・」
山吹(やまぶき)が小さな声で洋泉(ようぜい)の袖を引っ張り洋泉になにやら耳打ちしている。
「ん? あ、この人? 検非違使の桐生藤重(きりおいの ふじしげ)殿だよ。なかなかの男ぶりだろ」
と、皆に . . . 本文を読む
――果たして、本当に陶星(とうせい)が出るのだろうか。
理能(まさとう)がそう思ったところに、洋泉(ようぜい)が「陶星は、本当に出るのか? 藤重(ふじしげ)」と聞く。
「ここにいる見物人は陶星が出るものと思って集まってきているんだから、出なきゃ暴動がおこるかもしれん。まさか素人演芸大会だけで、こんな都の外の荒れた寺にこれだけの見物人が集まるものか。いや、集まるのかも・・・、俺、自信なくなって . . . 本文を読む
月の明かりでぼんやりと浮かび上がる小山の杜の周辺には牛車とそれを引く牛と、何をするでもなく道端に腰かけたり、行ったり来たりしている伴人がいた。牛車の数は暗がりで見えるだけでもざっと十台はある。
理能(まさとう)の馬は、洋泉(ようぜい)の伴人がみている。
門をくぐって長い石の階を理能(まさとう)が先を行き、後から洋泉(ようぜい)が昇って行く。置いて行かれるのではと思うほど理能の足は早く洋泉はから . . . 本文を読む
長雨の季節が終わって、月の夜になる。そうすれば萩原陶星(はぎはらの とうせい)が星歌会をどこかで突然やるかもしれない。都の警備をする京職と検非違使を兼ねている桐生藤重(きりおいの ふじしげ)判官が星歌会の現場を見つけたら洋泉と理能に知らせてくれるというのである。
「だから、今夜から月の明るい時は急に呼び出されるかもしれないよ」と、理能は三つ子の姫の一人を膝に置いて、桜子に話しかけていた。
父 . . . 本文を読む
日暮れ前。
理能は、皆が帰った蔵人所から最後に退出するところだった。
――そうだ、洋泉殿のところに顔を出した方がいいな。
校書殿をぐるりと半周すると、洋泉が詰めている右近衛の陣座がある。陣座といっても蔵人所変わらぬ造りの部屋だ。
「お、これは頭の弁、久しぶり」と部屋から出てきたのは、右近衛の中将、橘利夫(たちばなの としお)だった。大学寮では理能の先輩にあたり学生(がくしょう)の頃から馴 . . . 本文を読む
長雨は夕べで終わったとでもいうように、早い朝の日差しが部屋の奥まで差し込んでいる蔵人所に、まだ理能(まさとう)の姿はない。清冷殿(せいれいでん)に続く廂の向こうに、少し歩いては立ち止まったり背伸びして蔵人所の様子を伺うような動きをしている東三条(とうのさんじょう)左大臣の姿があった。紀 雅道(きのまさみち)が気づいて頭を下げたので、東三条左大臣は仕方なく、いつものように少し早足ながら笏を片手に持 . . . 本文を読む
東三条(とうのさんじょう)邸は、洋泉(ようぜい)と潤連(みつら)、左右の若き中将を迎えるというので、雨遣らい(あめやらい)の宴の支度に大忙しとなった。しかも、公展(きみのぶ)が住まう西の町ではなく、東の町の暁の対(あかつきのたい)で、というのはなかなかないことだ。理能(まさとう)からの文を受けた桜子(おうし)は、深谷(ふかや)に準備を急がせていた。先ほどから雨が上がり蒸してきたので几帳なども夏 . . . 本文を読む