洋泉(ようぜい)の話しを聞き終え、しばし夏虫の声だけがシリシリと染み渡る薄暗い書庫である。理能(まさとう)は自分の杯に酒を注ぎ、二人の杯も見た。
「私はもういいよ」と、洋泉(ようぜい)が言うので、潤連(みつら)の杯のみ満たす。
「ところで理能(まさとう)殿」
潤連は杯を持ったがそう言い、そのまま口をつけずに高机に置いた。
「理能殿、よくあの陶星(とうせい)のしっぽをつかんだね。居場所、ど . . . 本文を読む
斎宮(いつきのみや)の余命は短い。それを斎宮自身も悟っておられる。潤連(みつら)は、猪背(いせ)から帰った翌日そのことを寿樂(じゅらく)帝に報告した。斎宮の最後の言葉を伝えると、寿樂帝はうんうんと頷き潤連の肩をぽんぽんと叩いた。潤連への労いなのだろう。そして「もう一度、この内裏にお迎えしたかった」と独り言をもらされた。
「それで、帝は次の斎宮のことは何かおっしゃったのか?」
高机の上に置 . . . 本文を読む
夕立ちの後、残りの陽に照らされた蔵人所の前には、湿った地面からゆらゆらと熱せられた蒸気があがっているようである。千里(ちさと)と潤連(みつら)が並んで座っているのを、部屋の奥から理能(まさとう)が何気なく眺めていると、廂の左の方から足音が聞こえてきた。
「珍しいねぇ~。キラキラとヒラヒラじゃないか」
夕日を浴びた黒い影となって廂に立っているのは、間違いなく洋泉(ようぜい)。
「洋泉殿、待っ . . . 本文を読む
蔵人所の裏庭は土が硬く踏み固められているだけだ。強い雨がその堅い土に降り跳ね返っている。最近は仕事もそう多くないので、蔵人所の面々は日暮れにはまだずいぶんあるこの時間でも帰ることができる。そういう日がここ数日続いている。早い時間に帰宅すると、例えば紀雅道(きの まさみち)であれば、自邸にある書庫でおもいつくまま個人が綴った日記の類を出してきて読み、妻と酒を酌み交わすだろう。そして藤原只寿(ふじわ . . . 本文を読む
一日のこと細かく書き連ねれば、理能(まさとう)のような蔵人所に詰めていて仕事ばかりの真面目官人でも、物語のような長い日記が書けるだろう。だがしかし、今日は日中いつものように仕事をしたという記述だけで十分である。
ただし、これは面白い日記が書けると内心喜んでいた者もいる。朝の千里(ちさと)の一件にかかわった紀雅道(きの まさみち)である。雅道自身はそれほど効果的だとも思わず言った、比較的厳し目 . . . 本文を読む
「おはようございます、頭の弁(とうのべん)殿」
校書殿の奥の一角にある蔵人所にくると、千里(ちさと)が待ち構えていたように立っており、珍しく緊張した面持ちで理能に頭を下げた。「おはよう」とだけ返事をすると、理能(まさとう)は自分の文机を運び、いつもの四人が見えるところに置いて座った。延安(のぶやす)もすでに自分の文机の前に座って「頭の弁殿、おはようございます」と言う。
立ったままの千里は一呼 . . . 本文を読む
理能(まさとう)と兄の能才(よしかど)は、能才の牛車の中で向かい合っている。いつも東三条で用意してくれている理能(まさとう)の牛車にくらべれば狭くて古いのだが、能才に言わせると、翅がついておりどんな悪路でも乗り心地が良いのだそうだ。能才と理能の兄、天白家の長男、望才(もちかど)が改良した自慢の古牛車。
「理能、おまえ、今日はなんだかいつもと違うな。疲れているというか、妙に元気がいいというか…」 . . . 本文を読む
朝霞の中、平杏の都の西の六条。この辺りは、東の二条や三条の豪邸と比べるもなく、小ぢんまりとした邸が並ぶいわば住宅街。同じ六条でも東であればまだいくらか立派な名のある人物の邸もあることはあるのだが、西の、五、六、七ともなると、例えば地方官吏の頭である札司(さつし)が地方で貯めた大金で手に入れた邸や、代々の土地や邸を受け継いでいる下級の貴族の古い住まいが多いのだ。中央の広い大路に面して市のある八条、 . . . 本文を読む
月の裏宮(りきゅう)の廂に、陶星(とうせい)と理能(まさとう)が座っている。目の前は高い生垣に囲まれた狭い庭で、ここが広寒宮のあの広大な敷地の中にあるとは思えない静謐な趣である。
理能は、ゆらゆらと炎をあげる篝火に照らされた陶星の横顔を見た。歩いてくる道すがらにいろいろと一人語りしていたのに、ここに座ってしばらく、陶星は何も話さず、ただ前の庭に目をやっている。理能に見せている横顔をよくみると、 . . . 本文を読む
理能(まさとう)がこの広寒宮(こうかんきゅう)で目覚めた時に側にいた女、甘い薫りを焚きしめた香葉(かよう)が戻ってきた。それも、内裏の女官長のような風格があり白髪交じりの髪は重たくしっかりと足元まで木の幹のように垂らしている女人を連れて。白髪交じりではあるが、年寄りじみたところがなく艶やかで、ふくよか過ぎる顔は、若かりし日にはさぞ美人であったろうと思う。薄い藤色の光沢のある小袖を着ている。理能の . . . 本文を読む