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難聴のある人生を応援します @ライカブリッジ 

難聴のあるお子さん、保護者、支援者の方々に先輩社会人のロールモデル等をご紹介します。様々な選択肢、生き方があります。

社会人難聴者に学ぶ 〜みんなのヒストリー〜

 このブログの主な内容は、難聴児療育に長年携わっていた筆者が、成長して社会で社会人として活躍している難聴者についてご紹介するものです。乳幼児期に出会ったお子さんが大人になり、社会で経験してきたことについて知ることは、筆者にとって大きな学びのあるものです。難聴のわかりにくさを改めて感じることもしばしばあります。話を聞かせていただくうち、これは是非多くの方に知っていただいて、彼らの貴重な経験を活かしたいと思うようになりました。
 そして、これから成長して、学校に通い、自分の将来を考えようとする若い難聴の方々だけでなく、すでに社会で働いている方にも読んでいただき、難聴ならではの苦労だけでなく、生き方の色んな可能性についても知っていただければうれしいです。
 できるだけたくさんの生き方、働き方、考え方をご紹介することで、同じ悩みを発見するかもしれませんし、勇気を得ることも、共感できて励みになることもあるかもしれません。
   筆者は、ライカブリッジという任意団体で活動しています。ライカブリッジは、「like a bridge」(橋のように)難聴のある方々同士又は関係者同士を橋渡ししたいという気持ちで活動する任意団体です。筆者と難聴のあるお子さんを育てる保護者有志で活動しています。
2021年春から活動を始め、これまで15人の難聴のある社会人のインタビューを行い、それを録画し、zoomで共有したり、YouTubeの期間限定の配信をしたりしました。共有や配信の対象は、難聴のある小中高大生、保護者、支援者です。宣伝ややり方のアイディア、情報保障についてはライカブリッジの仲間と力を合わせてやってきました。
 <これまでのインタビュー> 
 これまで13人の社会人を紹介してきました。筆者がが幼児期に療育施設で出会った方々です。皆さん快くインタビューに応じてくださり、忙しい中、後輩たちの力になれればと協力してくださいました。
 1  37歳 看護師(中等度難聴)
 2  28歳 作業療法士(高度難聴)
 3  30歳 ウェブ制作 フリーランス(重度難聴)
 4  31歳 ろう学校教員(重度難聴)
 5  27歳 公務員(中等度〜高度難聴)
 6  28歳 劇団員(高度難聴)
 7  29歳 鉄道会社社員(高度難聴)
 8  39歳 会社員(重度難聴)
 9  31歳 歯科技工士(高度難聴)
 10   31歳 証券会社社員(中等度難聴→高度難聴) 
 11   29歳 保育園勤務経験8年 (重度難聴)
 12   46歳 手話講座講師 (高音急墜型難聴→重度難聴)
  13  42歳 会社員 (中等度難聴→高度難聴)
14  32歳 IT企業→公務員 (重度難聴)
  15 30歳 臨床検査技師 (軽度難聴、高音急墜型難聴)

 今後もこのインタビューは続けますし、このブログにも紹介していくつもりです。社会人の紹介の他にも、たまに日々の思いなども綴りたいと思っています。
 今後、もっともっと社会に「難聴」についての理解が広がり、きこえにくさにちゃんと配慮できる仕組みが整っていくように願っています。

NO.22 わたしの難聴ヒストリー ⑬ (会社勤務21年 MISAさんの場合)

2025年02月26日 | 記事

MISAさん メガネ関係会社21年勤務 42歳  右58→85dB、左92→110dBスケールアウト 右のみ補聴器装用

  MISAさんは、何年か前に、療育施設時代のみんなで集まりましょうと声をかけてくれ、ずっとご無沙汰していた人たちとの楽しい食事の場を作ってくれた。音声を使う人と手話を使う人の間の通訳もしてくれた。自分自身もデフフットサルで仲間と交流し、いつも人の輪の中にいる印象がある。

  今回、忙しい中の合間をぬって、インタビューに応じてくれた。これまでの人生で、めまいや聴力低下の発作がありながらも、その時々で楽しみを見つけ、ポジティブに生きてきた様子がわかる。チャキチャキしていて、はっきりものを言う女性だ。その強さの秘密はなんだろう。彼女自身の言葉から読み取っていただけると嬉しい。

 

【   MISAさんのストーリー  】

 

<きこえの程度>

幼児期の聴力 右58dB 左92dB

現在の聴力  右85dB 左110dBスケールアウト

※聴力型は、高音域よりも低音域の方がよいタイプ

 

<幼児期のこと 〜なんでも楽しんでいた〜>

3歳の時、妹の1歳児健診について行った際、保健師さんに「お姉ちゃん、しゃべらないね。」と言われたのがきっかけで、難聴が判明した。補聴器装用して、療育施設に通い始めた。初め、箱型補聴器を装用して、その後耳掛け式補聴器に変わったことは、覚えているが、どう思ったかなどはよく覚えていない。特に抵抗なく補聴器を装用していた。

療育施設は、同じ年齢の友だちが女の子1人、男の子2人いて、4人で楽しく遊んだ。あと、時々個別指導の時間があったが、全体として、楽しかったという記憶しかない。幼稚園も楽しく通っていた。

 

<小学校 〜最初のめまいの発作〜>

 地元の小学校に入学し、これも楽しく通い始めたが、初めての小学校の遠足(5月頃)の当日にめまいの発作を起こし、楽しみにしていた遠足に行けなくなって、大泣きしたことを覚えている。めまいはするし、耳もきこえなくなるしで、とても遠足に行ける状態ではなかった。病院に行くと、即入院となった。入院治療で聴力は70%くらいは戻ったが、100%は戻らず、右耳しか使っていなかったので、前よりきこえなくなったことは、子ども心にショックだった。

 入院中は、担任の先生が何度かお見舞いに来てくれた。担任の先生には、色々とご心配をかけたが、「私は、大丈夫、先生は、そんなに私のためにしなくていいのになあ」などと、子どもながらに恐縮していた。その先生は、骨折した時も色々と心配してくださった。若い先生だったし、補聴器をしている児童は初めてで、一生懸命になってくださったのだと思う。

 小学校は、学年が変わって、クラス替えする度に、自分は耳が悪いので、大きめの声で、はっきり喋ってくださいなどと、お願いした。自然と、はっきり話してくれる友だちと付き合うようになった。声の小さい子とは、あまり付き合わなかった。話していることがわかりにくかったからかもしれない。特にいじめられた経験もないし、勉強も困ったことはなかった。成績は悪い方ではなかった。

 校内放送は、きこえていなかったかもしれないが、不便は感じていなかった。とにかく困ることはなかったと思う。

 一度だけ、4年生か5年生くらいの時に、仲良しの二人の友だちに、話があると連れていかれ、そこで、「どうして耳が悪いのに、ろう学校に行かないの?」ときかれたことがあった。どうしていきなりそんなことをきかれるのかいぶかしく思ったし、びっくりしたが、「耳もきこえるし、お話もできるからだよ」と答えた。そのことを妙に覚えているのは、なんか嫌な気がしたからだろうと思う。

 ことばの教室は、他校のことばの教室に通った。給食を食べてから、母に連れられて行ったと思う。ほとんど個別指導で、たまにイベントの時などに友だちに会った。普段の学校生活とは、別空間という感じで、仕方なく通っていた感じだった。

 

<中学校 〜青春の濃い楽しい3年間〜>

 中学校3年間は、濃い3年間だった。部活は剣道部に入った。面をかぶる時、補聴器が面とぶつかるので外したほうがよかったのだろうが、やはりきこえる方を選んで、なんとか外さずに面をかぶった。

 いじめられることもなかった。クラスが変わるごとに、自分のきこえについては、自分で説明した。はじめが肝心だと思う。声の小さい子の話は、わからないので、言わなきゃダメだと思っていた。自分から言わなきゃどうにもならないと思う。

 学力に差がでてくる時期だったが、自分は学習面も特に問題はなく、ちょっとがんばれば、よい成績が取れた。むしろ友だちに「わからないから教えて」と頼まれることが多く、どちらかというと教えてあげる方だった。

 ただ、ALTの英語の先生の授業は、全員立たされて、先生の英語の問いに答えられた人から順番に座るというやり方で、英語がききとれなくて緊張した。いつも最後の方になったが、なんとかがんばった。そのような方式の授業でなければ、あまり困ることはなかった。

 

<高校時代 〜またしても聴力低下、初めてろうの世界と出会う〜>

 北辰のテストで第一希望の高校がB判定だったので、一つ落とした高校を受験し受かった。入った高校は、普通科の他に、美術科とか書道科とか音楽科など色々な科があるユニークな高校だったが、その普通科に入った。女子が多く、共学なのに、1年と2年は女子クラスだった。全体に学力のレベルが高かった。1年生の初めての中間テストは、クラスで下から3番目だったので、これはまずいなと思った。しかし、赤点を取ったことはなかった。視力も落ちてきたのもあり、前の方の席にしてもらった。

 部活は、友だちと一緒にソフトテニス部に入ったが、それほど楽しくなくて、1年生の夏休み前に辞めた。

 そして、1年生の時のクリスマス前、やはりめまいに襲われ、聴力低下を起こした。ストレス、寝不足からきたかなと思った。特に寝不足は自分でもよくないと思っている。12月に入院し、翌年2月上旬に退院した。入院中は、補聴器もはずしていて、コップが落ちる音もきこえず、筆談でコミュニケーションを取っていた。やっとできた高校の友だちも長期の入院で、少し離れてしまった。

 高校2年生となり、クラスも変わり、きこえも悪くなり、すごく仲のいい友だちはできず浅い付き合いの友だちしかいなかった。勉強面もきこえる子たちとの差が出てきたのを感じた。高2からコンビニのバイトを始めたが、コンビニでの接客は楽しかった。

 高2の夏休みに関コン(関東ろう学生懇談会:全日本ろう学生懇談会の関東支部)から郵便が来た。夏休みに都内のオリンピックセンターで宿泊で「高校生教養講座」を開催するのでご参加くださいというものだった。本当は東京の高校生対象だったようだが、参加者が足りず、埼玉の難聴児を持つ親の会に声がかかり、親の会から紹介されたようだった。面白そうだと思って、親にお願いして、参加することになった。自分で電話で申し込んだが、後できくところによると、FAXじゃなくて電話で申し込んだのは、私一人だったようだ。

 「高校生教養講座」に参加して、初めて手話に出会った。すごく楽しくて新鮮だった。こんなに色んな人がいるんだと思った。たくさん知り合いができた。健聴育ちだったのでろうの世界に初めて触れたことになる。高校よりこっちの方が楽しいと思った。知り合った友だちとFAXや手紙で連絡し合うようになった。今でも連絡しあっている友だちがいる。

 高3で人文コースの文系の4大の受験コースのクラスになった。クラスに男子が10人いて、新鮮だった。女子クラスの時よりもちょっと男の子を意識する学校生活になった。でも、補聴器を隠すことは、一度もなかった。隠すなんて絶対だめだと思っている。ただでさえ、きこえにくいことは、見ただけではわかりにくいのだから、説明が必要だし、説明できないんだったら、きちんと補聴器を見せることが大事だと思うし、その姿勢は一度もブレたことはない。

 さて、高3で、進学先を考えなくてはならなかったが、行きたい大学には行けそうになかった。看護師になりたいと思って、先生に伝えると、相当努力しないと無理だと言われた。例えば、生物のテストでがんばって60点取った時も、自分ではよくがんばったつもりだったのに、先生には「もっとがんばらないと・・」と言われた。それで、こんなにがんばってもダメなんだと、なんか力が抜けてしまった。意欲が減退した。

 英語のリスニングテストは、みんなと同じ部屋の一番後ろで、カセットデッキを机の上に置き、CDの音をききなさいと言われた。しかし、きき取れず、勘でやった。大学受験では、リスニングは別室受験だったので、それなりに配慮があったが、細かいことはよく覚えていない。

 

<  高校卒業後 〜結婚、出産というスピーディーな展開〜  >

 高校卒業となった。短大が一つ決まっていたが、高校時代に知り合った人と結婚、出産というスピーディな展開となり、短大は、入学式に行っただけとなった。

 しばらく子育てしながら、子どもを夫に預けられる土日だけコンビニのアルバイトをしていたが、20歳で夫とは別居そして離婚となり、子どもと一緒に実家で世話になることとなった。そこで、経済的に自立するために、ハローワークで障害枠で仕事を探した。

 

<そして就職>

 ハローワークで、東京で障害者のための合同面接会があるから行ったらどうかと言われて、そこに出かけた。この合同面接会がタイミングよく開催されていたことは、本当によかった。合同面接会での面接では、次のように伝えた。「接客は、コンビニならできるが、できればデスクワークを希望する。仕事上の電話はできない。日常でも1回ではきき取れないことがある。大きめの声でゆっくり話してほしい。難しい内容の伝達は、文面で行なってほしい。」

 このような内容のことを伝えて、結局、その面接会で3社受けて、2社から採用の返事をもらった。そのうちの一つの会社に今でも勤めている。もう20年以上勤めていることになる。

 

<会社での仕事>

 就職したばかりのころは、最初の上司がパソコンのシステムに詳しく、それをしっかり教えてくれて、とても助かった。私自身、白紙状態だったのが良かったのかもしれない。段々と仕事を覚えていった。上司は、話はききとりにくかったが、教えてくれたことは、仕事上とても役に立っている。

 会社はメガネ関係の会社で、私の仕事に関しては、個人的な作業なので、会議やミーティングがほぼなく、それは楽だった。例えば店舗から注文があるとその商品の値札を発行した

り、新しいメガネが出たら、会社のシステムにそれの商品登録をしたりという仕事などがある。

 初めのうちは、店舗からの依頼は、電話やファックスが多かったが、段々とメールになっていって、メールだと効率もよく、間違いもなく、やりやすく、助かった。

 会社の同僚とは、初めは、後ろから話しかける人もいたが、段々とわかってくれたと思う。なんとかやりとりできているが、やはり、リアルタイムですべて話をききとるのは難しい。まわりの人に100%理解してもらうのは、無理だと思っている。80%くらいわかってもらえば、あとは自分の努力でなんとかする感じだ。コロナ下では、皆マスクなので、何を言っているのか全くわからず、自分はしゃべるけど、相手には、時間はかかるが、書いてもらっていた。

基本職場での付き合いは、仕事上の付き合いと割り切っている。

 

<3回目のめまいの発作>

 23歳の時、11月だったが、休日出勤もあり、忙しかったためか、まためまいを起こし、1ヶ月半の入院、3、4ヶ月の病休となった。やはりストレスと寝不足がよくないなと思った。聴力も少し低下した。しかし、今度は、息子がまだ4歳だったので、一刻も早く退院したかった。母が毎日埼玉から都内の大学病院まで息子を連れてきてくれた。母は、仕事を午後休んできてくれていて、とてもありがたかった。母には本当に感謝している。

 

<オフを楽しむ現在>

 今は息子も20歳も越え、大人になり、専門学校も卒業したので、親としての責任は果たしたかなと思う。今後は自分の生活を楽しもうと思っている。オフは、推し活やデフフットサルを楽しんでいる。推し活は、コロナの時期をきっかけに始めた。ちょうどその頃、補聴器を新しくして、よくきこえに合わせて調整してもらい、音楽がよく楽しめるようになったこともある。テレビから流れる人の声も色々な声があることがわかるようになって、楽しめることが増えた。昔からジャニーズが好きだったが、本格的に推し活するようになった。

 また、デフフットサルも同じ療育施設出身の友人に勧められて始めたら、楽しくてはまってしまった。チームにも入って、試合もしている。仲間とのコミュニケーションも楽しい。同じきこえにくい仲間として大切な仲間だ。

 

<息子のこと>

 息子は、私のきこえにくさについて一番理解してくれている。手話はできないが、指文字は教えた。以前、授業参観の時、ねむそうにしていたので、指文字で「ねるな」と伝えたら、指文字で「ねむい」と返ってきた。できるじゃんと思ってうれしかった。声がなくても家族で通じ合える方法があることは、とてもうれしい。二人で旅行した時は、母親の私がホテルの人の話を聞き返していると、代わりにさっと応答してくれたりする。いつもは、あまりやらないが、いざとなると助けてくれる。

 また、息子は、専門学校の卒業制作では、指文字や手話のことについて動画を作っていた。全く知らなかったので、それを見た時は、感動して泣いてしまった。彼は、今就活中だが、彼のやりたいようにまかせている。お互いに自立した人間として、よい関係が築けていると思う。

 

<あとがき>

 MISAさんは、インタビューが終わった後も、推しのライブがあるからと、嬉しそうに帰って行った。

 先日は、青梅マラソンにも参加、完走したそうだ。迷う前に申し込むのだそうだ。エネルギッシュだ。スポーツも楽しみ、ライブも楽しみ、息子さんとの旅行も楽しむ。活き活きして活動的だ。

 インタビューして、彼女がめまいや聴力低下の発作に3度も襲われ、その度に長期入院をしてきたことを知り、改めてつくづく大変だっただろうなと思った。めまいが続けば、日常生活には大きな支障が出る。聴力の低下への不安も少なくなかっただろう。

 幼児期は、比較的補聴効果も良好で、言葉の発達もスムーズだったので、私たち支援者もどちらかと言うと、楽観的に捉えていて、彼女が何度もこのようなめまいと聴力低下に悩まされることになるとは予測していなかった。

 現在では、難聴の原因や種類がかなり解明されてきているので、めまい、聴力低下の可能性が予見できることが多くなった。それでも個人差もあり、正確な予見は簡単ではないのだろうと思う。長期的に安定して頼れる耳鼻科の主治医がいることは、大切なことだと改めて思う。

 MISAさんの「補聴器は隠しちゃダメ!」、「初めが肝心」、「してほしいことは言わないとダメ」などということばは、わかっちゃいるけど・・ねえ、というのが、多くの人の感じるところではないだろうか。その潔さは、どこからくるか・・・?彼女の話をきいていると、自分に対する自信のようなものが確固としてあるんじゃないかという気がした。

 確かにきこえにくいけど、それ以外のコミュニケーションの力や状況理解の力をフルに活用する。周りの人たちの気持ちも汲み取り、自分のこともわかってもらうように働きかけられる。それが彼女の自信の裏付けになっているのではないか。

 もう一つは、相手に求めすぎないバランス感覚もある。完全に理解されるのは、無理。80%理解されればいい。理解を求めて努力はするが、あとは自分が努力する。という自助努力の精神も持っている。

 バランス感覚と言えば、高校の時、頑張って生物のテストで60点取った。でも、先生がもっと頑張れと言った。そこで彼女は、それ以上頑張ることはやめた。それもバランス感覚だと言ってもいい。先生のいうことをきいて、もっとがんばって、自分を潰すようなことはしないのだ。実は、支援者としては、ここはちょっと複雑だ。高校時代、もっと教員の方々に、きこえのことを理解してほしかったなとは思う。今より合理的配慮は乏しかったのは、やはり残念に思う。

  それから、高校時代に、聴力低下を起こし、浅い付き合いの友達しかできなかった時、手話でのやりとりをする付き合いの方が楽しいと思った、というのもバランス感覚だと思う。きこえる人に張り合うとか、同じことをするというこだわりはない。また、彼女のセンサーには、成績で褒められるよりも、自分が楽しいことを発見する感知力があり、それを素直に選択できる力があるといえるのではないだろうか。それからご家庭も彼女の選択に強引に介入することはなく、彼女の選択を尊重したのだろうと推測する。

 息子さんを、女手一つで大人になるまでちゃんと育てあげた責任感も強いし、息子さんを大人として尊重し、就職活動への口出しもしないという姿勢も、あっぱれと思う。もちろん背後にご実家の支えがあったと思うが、彼女の姿勢には、我々が学ぶものがたくさんあるような気がする。

 若くして子育てを終えたわけなので、これからは、彼女が自分のために思い切り楽しみを見つけ、もっともっと楽しい人生を送るのを応援していきたい。

 

 動画を視聴した方々にお寄せいただいた感想は、次の回にアップします。

 

 

 

 

 


NO.21 僕ってこんな感じです 〜わたしのきこえを説明すること〜

2025年02月11日 | 記事

「わたしのきこえリーフレット」のすすめ

 

「きこえにくさ」は、単純に「きこえない」ことではないので、「耳がきこえにくいです」だけでは、周りに理解されにくい。特にしゃべっている人は、通常はきこえるように見える。

ということで、

どのくらいきこえて、どのくらいきこえないか

特にきこえにくい場合はどんな時か

比較的ききやすい場合はどんな時か

補聴器や人工内耳の性能や限界

どんな風に配慮してほしいか

などなど

特にきこえる子どもたちの集団にいる時に、まわりにご理解いただく方法をずっと考えてきた。

 難聴のおこさんが小さいうちは、保護者や療育者の役割だが、段々と成長するにつれ、本人がどうまわりにアピールするかを考えなくてはいけない。本人が説明を嫌がる、面倒くさがる、恥ずかしがることも少なくない。本人の性格もあるが、人と違うことを恥ずかしく思う日本の文化が土台にあるのも感ずる。

 

また、一人一人年齢も、性格も、きこえ方も異なるので、オールマイティな説明書はない。で、どうするか。

これに対して、私は、「わたしのきこえリーフレット」を個々人にカスタマイズして作成することを勧めていきたいと考えている。

 

 ということで、昨年S市のことばの教室の研修会で6年生のSさんの指導のあり方が検討された際、6年生最後の取り組みとして、きこえリーフレットの作成をご提案した。

 先日それが出来上がったとのことで、ことばの教室の担当先生方がそのPDFを送ってくださった。とてもよくできているので、是非ご紹介したい。

 Sさんは、真っ黒に日焼けしたサッカー少年で、片耳に人工内耳、もう一方に補聴器を装用している。今の所、日常の学校生活で特に困っていることはないとのことだが、まだ年齢的にもその困り感を自覚していない可能性もあるし、また友人の前で、特にきこえについて話題にすることを好まない傾向もあるだろう。

 しかし、次年度からは、中学生だ。さらに集団の中で目立つことを嫌がるようになる可能性もあるだろう。学習内容も難しくなる。特に英語の授業などは、難聴のある生徒は、苦労することが多い。小学校よりもきこえに関する悩みが出てくる可能性はある。ということで、中学校1年生の初めに、きちんと自己開示する手はいかがかなどと思っている。最初に山を越えてしまえば、後が楽になるかもしれない。何事も始めが肝心だ。

 いや、私が先走ってはいけない。まだ作成しただけで、ことばの教室の中で、友人同士が紹介し合うという計画があるという段階だ。現時点では、これを活用してくれるといいなと願っている段階である。

 さて、送っていただいたSさんのきこえリーフレットは、Sさんと担当先生が、Sさんがどのように周りの友だちに自分について説明するかをじっくりと話し合いながら、作成した様子が目に浮かぶ出来栄えだった。タイトルも本人の意向に沿って、決めたのだろう、見出しにある「僕ってこんな感じです」だ。難聴だけが彼のアイデンティティではないので、「自分」のことをわかってねという気持ちが伝わる。いいと思う。

 内容も、特にきこえのことだけに限らず、まずは、Sさんの性格や好きなもの、嫌いなものを紹介している。

 

 

 その並びに、補聴器のこと、人工内耳のことも紹介している。サッカーの時に、補聴器や人工内耳を外している時は、「ジェスチャーで教えてくれるとわかりやすいにゃ」とお願いメッセージもある。サッカー攻略法のところに、さりげなく「ヘッディングができないので・・」とか「試合中はきこえにくい」などが書かれている。そして、「だいたい聞こえてるとは思うけど・・・」「聞こえなかったことを質問した時は教えてほしいにゃ」「はっきり話してほしいにゃ」「一人ずつ話してほしいにゃ」とある。

 お願いメッセージは、自分で描いたキャラクターに言わせているところが、憎い工夫だ。やはり、まわりにお願いすることって、Sさんにとっては、ちょっとためらわれることなんだろう。そういう彼のやさしい性格も伝わってくる。

 

 元々、ややシャイで、男の子的な口数が少なめなタイプで、年齢的にも難しい年頃に入りかけているSさんの意向に寄り添い、ここまで作成した担当先生に拍手を送りたい。それから、ここが肝心だが、是非、中学校で活用してほしい。

 印刷して友だちに配る?親しい友だちに?サッカーの仲間に?私としては、全校生徒に配りたい気分だが、そこは、親御さん、本人、言葉の教室の先生、担任の先生などとの相談になるかー? 

 これからも、子どもたちが自分のことをきちんと説明していく手段として、このリーフレットを広げていければいいなと思う。色々な個性あふれるものができるとよいなと思う。難しい思春期でも、抵抗なく自己開示できるきっかけになるといい。そしてこういうことが、セルフアドボカシー(自分に必要な支援を伝えることができること)を育てることにつながることを願う。

 


NO.20 Tさん、NHKハートネットTVに出演!!

2025年02月11日 | 記事

Tさん NHKハートネットTVに出演!!

 

 これまでに、かつて療育施設を卒園した子どもたちが、大人になり、その活躍をテレビ取材され、テレビに出演した人たちは、結構いる。特にNHKのハートネットTVで取り上げられることが多かった。このブログで書かせていただいたNO.10の劇団員ひでさんも、以前、劇団での活躍が紹介されたことがあった。

最近では、デフリンピックを目指して陸上をがんばっているMさんがNHKの「おはよう日本」に登場している。Mさんがデフアスリートとして会社でもがんばっている様子を見ることができて、うれしかった。Mさんには、また今年のデフリンピックが無事終了してから、ゆっくり社会人インタビューしたいなと思っている。

 そして、つい最近、今大学2年生のTさんがやはりハートネットTVに出演するという情報があり、楽しみに見た。お母さんの話では、Tさんは緊張しているだろうから見る方もドキドキするということだったが、実際には、落ち着いて堂々としていて、発言も自分なりに考えられていて、とてもよかった。やさしくてシャイで繊細なTさんが、テレビを通して、堂々と話をしているのを見て、これまでのお母さんの努力とか、学校での先生方のご指導の数々を思い、感無量だった。

 Tさんは、高度難聴で補聴器を両耳に装用している。私たちの療育施設では、小さい頃のTさんは、友だちと楽しそうに遊ぶ子だったが、とても恥ずかしがり屋で、繊細で、自信がなく、常にお母さんにくっついているというような男の子だった。

 特に記憶に残っているのは、給食の時間だ。2、3歳児は、保護者さんが傍に付き添い、食べ終わると、遊び始め、その後保護者さんがお昼ご飯を食べることになっていた。4、5歳になると、大抵は、段々保護者さんと別れて友だちやスタッフと給食を食べることができるようになり、保護者さんたちも別室で会話しながらお弁当を食べられるようになる。子どもにとっても、友だち同士で同じものを楽しく食べるという、療育の中でもよい時間であった。

 しかし、Tさんは、5歳になっても、6歳になってもガンとして、給食時間にお母さんと別れることを拒んだ。ずっと食べ終わるまでお母さんにいてもらい、食べ終わるとやっとお母さんを解放してくれた。お母さんだって、早く子どもから解放され、お母さん同士の楽しいお昼の会話の時間が持ちたかったに違いない。誰だっておなかがすく時間だ。

 通常ならば、「ねえ、お母さん行ってもいい?一人で食べてよ。◯くんも◯くんもみんな一人で食べてるでしょ。」とちょっとイライラしながら言うところを、Tくんのお母さんは、そのイライラを見せず、やさしい眼差しでTくんを見守っていた。その頃のスタッフはみなそういうお母さんの姿をよく覚えているはずだ。みんなそんなお母さんの姿を見て、「すごいなあ、えらいなあ」と思っていた。

 ある時、Tさんが給食の味噌汁だったか、おかずだったかを間違ってひっくり返して、こぼしてしまった。一瞬ワッとまわりのみんなが反応すると、Tくんは、お母さんの膝に顔を埋めて、そのまま、ずっと顔を上げようとしなかった。記憶では、その後、給食を食べることなく、終わったような気がする。ちょっと失敗しちゃったこと、みんなが注目すること、Tさんは、そういうことになかなか耐えられないシャイで繊細なところがあった。療育場面の随所で、そのような自信のないことなどへの消極的な態度が見られた。

 いよいよ就学を迎えた時、就学先を地域の小学校にするか、聴覚の特別支援学校(以下ろう学校)にするか、Tさんのお母さんと担当スタッフは、何度も話し合いを重ねた。ことばの力だけを見れば、地元の小学校でもやっていけるまで成長していたが、大きな集団の中では、自分を発揮することが少し難しいだろうと思われた。

 散々迷った挙句、ご家族でも話し合い、結局ろう学校に入学することにしたのだった。学校に入学してからも、「いまだに、この選択でよかったかどうか、揺らぐ時があります」とお母さんがおっしゃっていたのを覚えている。

 しかし、Tさんは、ろう学校で手話を覚え、友だちと楽しく会話し、のびのびと学校生活を送ったようだ。その後Tさんは、生徒会長になったり、部活の陸上でも部長として活躍したりして、後輩たちの憧れの的だという話をきいたりした。彼にとっては、彼のペースで楽しくコミュニケーションを積み重ね、陸上競技で活躍することでも、大いに自信をつけたのだと思う。

 優しく、リーダシップもあり、スポーツもうまいということで、さぞ学校でモテモテだったろうなと想像する。Tさんは、高校から筑波大附属の聴覚特別支援高校に入り、大学は、一般の大学に入って、今は大学で、スポーツ学や体育学を学んでいるようだ。デフ陸上競技もがんばっている。

 ハートネットTVは、「就職活動応援企画」というものだった。Tさんともう一人大学3年生の女性、二つの企業から就職担当者がそれぞれ1人ずつ、障害学生と企業の橋渡しをしてきたという大学教授そして司会者というメンバーで番組が構成されていた。

 就活で、①自分の障害をどう伝えるか、②自己PRをどうするか、③面接での情報保障をどうするか、などについて話し合われた。②の自己PRのところでは、企業側から、弱みも強みに変換して考えることができるとアドバイスされていた。例えば、Tさんの「自分の意見を強く主張できない」という弱みは、人の意見を尊重できるという強みに読み替えることができると。Tさんも、なるほどーと納得している様子だった。

 「内定をもらう」ということがゴールなのではなく、その先、実際に仕事を続けてゆく上では、会社側に自分のことをよく知ってもらうことが大切であるし、そのためには、まず自分が自分をよく理解していることが大切だという内容は、深く頷ける内容だった。

 Tさんは、将来は、スポーツや体育に関する仕事に就きたいそうだ。目的を持って、学生生活を送っている様子が伝わってきた。

 翻って考えるに、Tさんの場合は、ろう学校での、手話環境や少人数教育を選択したのは、本当に適切な選択だったのだと思う。聴力上のことだけでなく、彼の性格を考慮した賢明な選択だった。あの小さなTさんが、こんな風にテレビ出演し、ちゃんと自分の意見や考えを述べる姿に成長したのは、小さな自信がしっかりと積み重なり、弱みを強みに変え、しっかりと地面を踏みしめて自分の足で歩めるようになるまで、見守ったご家族の力、ろう学校の先生方のご指導の賜物と思う。世の中の趨勢よりもむしろお子さんの個性をしっかり見つめ、それに合った選択をすることが大切なのだなと改めて思う。

 Tさんが自分を理解し、自分をしっかりアピールし、居心地のよい仕事環境で社会人として活躍する日を心待ちにしている。Tさんの社会人経験についてインタビューさせてもらう日が楽しみだ。

 

 

 


NO.19 Kouさんの大学生活から

2024年12月08日 | 記事

 先々日、大学生のKouさんからラインをもらった。彼とは、幼児期の出会いだが、今も時々、zoomを使って構音などの相談にのったりしている。高度難聴と視覚障害の二重障がいがあり、補聴器と人工内耳を装用している。

 ラインには、彼が通う大学のWeb上の大学新聞の「障がい学生支援センター 誰もが学びやすいキャンパスを目指して」というタイトルの記事のURLが送られてきていた。記事を見ると、ドーンと写真が載っていて、なんと彼は写真のど真ん中で、サポーターの女子学生に挟まれて、ややはにかんで微笑んでいる。後ろにいるのは、大学教授や支援コーディネーターの先生だ。記事は、大学の障がい学生支援センターの紹介と障がいのある学生とサポートする学生のクロストークの紹介だった。

 クロストークで、Kouさんが障がい学生の代表として、サポーターの学生とやりとりする姿は、支援される側とする側が、にこやかに、かつ対等な感じで話していて、いい雰囲気が伝わってきた。

 もちろん大学側の宣伝的な役割も大きいのだろうが、Kouさんが、ポジティブな姿勢で支援を受け、意欲的にキャンパスライフを送っている様子が垣間見えて、うれしくなった。

 

 Kouさんは、難聴に加えて、年齢が上がるにつれ、徐々に視覚障害を併発している。最初にそれをきいた時は、ドキっとしたが、実際に大学生になった彼と話してみると、案外ケロッとしており、むしろこれからの大学でのゼミでの学びが楽しみで、興味津々といった感じで、その前向きな姿勢に感動さえした。

 大学の見学者に大学を案内するというボランティアも進んでおこなっていたし、大学学園祭では、学科の出し物の実行委員長も引き受けた。バイトもマックでがんばっている。どれも難聴があるだけで、尻込みしがちな活動だ。

 それでもやはり、見えにくいことは、あまり友達に言えなかった時期もあったそうだ。幼児期に一緒に療育施設に通った友達は、みな難聴単独だったこともあるだろう。彼が中学生の時、野球をしていて、ちょうど彼が守備していたところに、フライが飛んできたことがあった。しかし、彼の視野には、ボールが目に入らず、そのボールを受けることができなかったそうだ。ボールがきているのに、ただ突っ立っていた彼は、周りの友達にめちゃくちゃブーイングされたという。その時、やはりきこえにくさばかりでなく、見えにくさについても、ちゃんと周りにわかってもらわないとダメだなと思ったということだ。

 そういう出来事からちゃんと学ぶことを学び、よりよい方向に自己修正できるのが、Kouさんのすごいところだなと思う。今後は、大学のゼミで障がい者をサポートするテクノロジーの研究について学ぶことも楽しみにしているそうだ。私までワクワクする。

 

 きこえについても、全くきこえないわけではないがきこえないことも少なくない。視覚についても全く見えないわけでもないけど見える範囲が狭いという、なかなか説明が難しい状態でも、何かあるたびに大学支援センターと相談できるシステムは、非常に心強いことだろう。

 今の時代でも、支援が行き届かない大学もあるという。また、むしろ中学高校での障がいのある生徒への支援も未整備なところが少なくない。また、大学を出た後の社会での理解やサポートは、まだまだ十分とは言えないが、大学での経験が、サポートの必要性を訴えてゆく力になるといいなと思う。

 彼の活躍をずっと応援したい。

 

 興味のある方は、彼の記事ものぞいてみてください。

 

「AGU NEWS 特集  障がい学生支援センター

   誰もが学びやすいキャンパスを目指して」

https://agu-news.a01.aoyama.ac.jp/feature/302?utm_source=haihaimail&utm_medium=email&utm_content=mailid-419&hm_ct=0066de6af7b4ef70424c062001773290&hm_cv=e6d3f82a5918174e476263ade47cc07d&hm_cs=183053239764e45e8f0c29f5.45308491&hm_mid=m77j2&hm_id=m77j2&hm_h=a16.hm-f.jp


NO.18 あつさんの記事への感想をいただきました。

2024年11月09日 | 記事

 あつさんの記事は、あつさんが子育て談義の会でたくさんの難聴児保護者と交流があったこともあり、大勢の人が読んでくださり、また感想を寄せてくれた方々も長文で送ってくれたりした。

 中には、なぜあつさんが補聴器の装用を中止したのか、なぜあつさんが声を出さなくなったのかについて、そうだったんだ〜となぞが解けたような心持ちになった方もいたし、その生きる姿勢を選択した経緯に感動もしたという人も少なくなかった。

 保護者と当事者の感想の一部をぜひご紹介したいと思う。

 

[あつさんと子育て談義の会で交流した保護者(難聴社会人の母)より]

 

 こんばんは。

 ブログ、何度も読みました。なんだか胸がいっぱいになってしまって・・・。

 初めて療育施設であつさんに会った時のことを思い出しました。

 これから(難聴の息子を)どうやって育てていけばいいのかすごく不安な中で、たくさん質問してしまって、それでも嫌な顔をせずに丁寧に答えてくれたことを覚えています。家がすごく近いことを知り、お互いの家を行き来したり、個人的な話もたくさんして、私にとっては心の支えになっていました。

 難聴を正しく理解し、この子にあったやり方を工夫していけばなんとか育てられるかも、と前向きになれたのは、あつさんとの出会いがあったからだと思っています。

 子どもが大きくなり、会う機会も段々少なくなって、たまに会ってもなんか思うところがあるのかなと感じてはいましたが、完全に声を出さない生活になっていたとは知らなかったので、正直驚きました。

 私もあつさんに負担をかけてしまっていた一人かもと思うと、申し訳ない思いです。

 そして難聴というのは、本当に理解してもらうのが難しいのだと改めて思いました。頑張って努力して上手く振る舞えば振る舞うほど、相手には大丈夫と思われて配慮がなくなってしまう。せっかく流暢に話せるのに、そのせいで自分が苦しくなってしまうなんて、どうすればいいの?と思ってしまいます。

 そんな中で、声を封印して手話の世界で生きると決めたことを、すごいな、かっこいいなと思いました。

 我が息子も話せてしまうことで聞こえていると誤解されて、会社の中で辛い思いをすることもあるようです。それでも自分は話せてよかったと今は言っています。

 これから更にいろいろな経験をして、自分の聴こえとどう向き合っていくのか、どんな選択をしても応援していきたいと思いました。

 貴重なお話をありがとうございました。

 

[高度難聴大学生の母より]

 

 今回の難聴ヒストリー、拝見させていただきました。

 あつさんがとても大変な思いをしてきて、その中で様々な選択をして今に至るという過程、様子がよく分かりました。

 締めくくりにもありましたが、インタビューをお母様が読んでくださったらどんなに良かったでしょう。でもきっと天国からあつさんの様子を微笑んで見ていらっしゃると思います。

 難聴児教育については素人で何も意見できませんが、何を選択してどう教育するかで生き方まで変わってしまうということ、親と子の考えが変わってきた場合にどういう選択をするべきなのかを改めて考えさせられました。

 大学生にもなると親の出番?も少なくなりますが、しばらくは子供の様子をしっかり見ながらいつでも相談に乗れる存在でありたいと思います。そしてどんな選択をしてもいつでもそれを応援していける存在でいたいと思っています。

 今回も貴重なお話しをありがとうございました。

            

[年長難聴児の母より]

 

  あつさんのインタビュー記事を拝読しました。ありがとうございました。

 わが子も100dB近い聴力の高度難聴で、人工内耳適応のギリギリのところ・・。今はほぼ音声での生活を送っています。母としては、お友達の話が分かるように、みんなに自分の話を分かってもらえるように、つい発音をきびしめにチェックしてしまいます。しかし母といえど、子どもの聞こえ方や集音の苦労を実感として分かってあげられるわけではないので、いつも正しい、適切な育て方は何なんだろうと考えてしまいます。答えはひとつではないですが、あつさんの体験談のように、こんな風に感じていたというお話しを伺えることはとても参考になり、本当にありがたいです。

 わたしは今、家庭内では音声と手話の両方を使うよう心がけてはいますが、がんばれば聞こえる・しゃべれるので、発音の矯正等にうるさくなりすぎかもしれません。

 今回は、本当に大切なことは何か考えるとても良い機会になりました。いつか本人があつさんのように、自分で心地よい環境を選べるよう、サポートできたらいいなと思います。音声の世界も手話の世界も身近に感じられるよう育て、どちらをどのように選んでもいいのだと思ってもらえたらいいなと思いました。

 

[難聴中学生の母より(デフバスケットであつさんに世話になった中学生の母)]

 

 何度も読ませて頂きました。

 先日、優しくて面白い素敵な方と(デフバスケットで)出逢えたと家族みんなで喜んでいたのですが、辛い過去を乗り越えた今があるのだと改めて気付いて、胸が痛くなりました。だからこそ、強くて格好いい人なんだと家族で言い合いました。

 ペンドレット症候群と言う言葉も初めて聞いたので、参考になります。我が子も、めまいがあるので情報としても有難いです。

 20代半ばから補聴器装用中止。30代半ばからは声も中止。この決断をした背景は想像も出来ません。

 親として、我が子がこの決断をしたらと思うと又、胸が痛くなります。必死に関わって来た今までを否定された気になるかもしれません。

 それでも、自分の生き方は自分で決めるべきだと言う部分では共感しますし、素の自分で居られる世界が発見できて良かったです。

 我が子にも、認められている自分・存在意義を感じられる場所が見つかればいいなぁ。

 これから、高校・社会人と進んで行く我が子。周りの配慮が無く、コミュニケーションがとれずにやるべき事がわからずに苦労する場面が出てくるのは目に見えて居るので、そこにどう対処して行くのか、今後の知識や経験から、学んでいって欲しいと思います。

 『家族で、ママだけが分からないと言う状況が無い様に手話の配慮』という部分を読んで、最近我が子に対しての配慮に欠けて居たなぁと気づきました。雑談の様な会話の時は我が子は会話に入れずにシーンとしていたなぁと。それが家族の中で当たり前の光景になっていました。反省です。

 先日のデフバスケでは、初めての場所で緊張していた我が子にたくさん声をかけてくださり、優しくて面白いお姉さんのイメージでしたが、沢山のことを乗り越えた今なんだなぁと、益々、大好きになりました。

 デフバスケも又参加させて頂きたいです。

 ありがとうございました。

 

[子育て中難聴当事者(お子さんを療育施設に通わせている難聴当事者)]

 

 あつさんの内容を読みとても私にとっても感慨深い内容となりました。

 確かに音声で楽な部分や聞こえる相手には話すには音声で合わせやすいといった所はあります。けど、それに慣れちゃうと、相手もそれに慣れてしまってずっとそのままになってしまい、その先もずっと疲れるのは自分です。

 ろう者と出会うと自然と声出さなくて手話だけになる自分もやはりどこかにいます。それは安心と楽しさも心のどこかに感じているなと薄々思っていました。

 このあつさんのブログを読んでやっぱり私もそうなんだと気付かされました。子の通う幼稚園でも、療育園でも、聞こえる親が中心は当たり前です。そのコミュニケーションの輪にスムーズに入れるかといったらそうでもなく、気を遣いながら自然と気を合う人見つけては話しやすい聞きやすい人と一緒にいたりします。なので、ろう学校の乳幼児相談へ行くと自然と話せて変な気を遣わない自分もいて、聞こえない人同士で話すとすごく気が楽な場所となり、やはり大人になった今もそのような場所やコミュニティーは必要だなと思います。そのような居場所をやはり子供のうちから作ってあげて知っていくことでいろんな道も開かれ、手段も増え、アイディンティが様々につくられていくことの大事さを身にしみています。

 

 今回のあつさんのヒストリー内容も面白かったです。家族たちがとてもあったかいなあと。私たちも同じ聴覚障害を持ったファミリーだけど聞こえ方もコミュニケーション方法もバラバラ。けどやっぱり共通できるものは手話✨また次回も楽しみにしています。

 

[あつさんと仲の良い友達の当事者(デフアスリート)]

 

 インタビュー記事読ませてもらいましたよ!

 もう・・・

 途中まで私の生き方を見てるんじゃないかってくらいに、自分の事のように読んでいました。

 

 K先生が、子どもたちが上手に話せるようになるのにやりがいを感じていたけど、子どもたちが聞こえにくさに困る場面への想像力が足りなかったと反省したように、私の母も育て方について悩んだこともあっただろうなぁと読みながら自分の過去の出来事を回顧していました。

 私はやはり完璧に発音ができるわけでもなければ、手話も完璧にできるわけじゃなくて。口話ができればすごい!と褒められて結局は配慮方法を間違われることも度々あって、一時期なんでこんな中途半端な子に育てたの?って母に対して思ったこともありましたし、母にぶつけたこともありました。しかし、成長するにつれて色んな事情を理解するようになってからは口には出せないと、自分の中で消化しようとする場面が増えてすごい苦しんだことを特に思い出していました。

 口話も結局は、誤解されるから初めから口話だけでなく手話を併用してきこえないアピールを分かりやすくしようとしますが、そのような事を日々色々と考えるのも疲れるよなぁと。

 けれども、これまでの自分の生き方を後悔したこともないし、口話ができることで、きこえる人に歩み寄りやすいので、良かったと思います。母は私のしたい事や選択を尊重してくれましたし、今では一番の良き理解者です。私の障がいを理解して仲良くしてくれる友達も近くにいたので、私は恵まれていたのだとも思います。

 

 手話もできる限り使うようにしたいと思い、聾者が出ている動画を見たり、テレビを見たり、デフコミニュティに積極的に入ったりなど自分なりに表現力を磨く努力をするようになりました。これも、20歳の時にデフリンピックの日本代表に選出されたのがキッカケです。以前は手話をすると、これまで聴こえる人に負けないように育てられ、努力してきた自分を否定することになると思っていましたので、手話は自分に必要のないものと思っていた当時に比べたら、断然肯定的に捉えられるようになってきています。

 

 今の時代は幸いにも、難聴者に対する理解も進んできて何も言わなくても、分かってくれる場面が少しずつではあるけれど、私の中では昔に比べたら増えてきたなぁと思っています。

 

 これも、自分だけの努力ではなくて、あつさんのようなお姉さんたちが苦しんだ分の、恩恵を受けていると思います。

 私も後輩たちが少しでも生きやすいように、これからも何故?と疑問に思ったことは放置せず口に出していきたいですし、デフアスリートとして活動している今、社会に向けて聴覚障がいへの理解が進むように、私の障がいに対する向き合い方等を発信し続けていきたいとも思っています。

 

 また、デフに関する様々なアイデンティティが混在するデフスポーツの世界では尚更、全てのデフアスリートや関係者にとって、デフスポーツコミュニティが拠り所でいられるようにしておきたいなとも思います。 

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 他にも支援者の方々からの感想もいただいたが、今回は、保護者さんと当事者さんのをご紹介した。感想は、みなあつさんにも読んでもらった。彼女は、感想を読んで、インタビューを受けて本当によかったと思ったと連絡をくれた。彼女にとってもこのような形で半生を振り返ることができてよかったとのことだ。

 しばらく連絡がとだえていた人も彼女と連絡が再開したりして、当事者同士、子育ての仲間同士、色んな方々の橋渡しができて、私自身とても嬉しい気持ちになった。

  聴者、難聴者、ろう者の3種類の生き方があるのではなく、それぞれに様々な生き方がある。そして、それぞれの生き方に到達したそれぞれの歴史がある。お互いにお互いの歴史や違いを理解するのは、容易ではない。でもこれからも、一人一人の生き方を尊重し、それぞれがお互いの生き方を尊重できるような姿勢を持ち続けたいし、そういうことができるきっかけを提供できたらいいなと思う。