三十路中盤備忘録

とりとめの無い事をタダ書き連ねていきます。

懲りずにまたブログを書き出した三十路中級者。

2021-01-05 10:00:00 | 日記
私はブログというものを始めては、自然消滅させるという事を何度も繰り返してきました。

①私は何故blogを自然消滅させてしまうのか
②私はこれまで何故blogを執筆していたのか

この2点をきちんと分析して改善しない事にはまたブログ始めました詐欺を繰り返す事になると考え、まずは上記二点をきちんと自己覚知する事から三十路備忘録は始めたいと思う。

そして①②を念頭に置き

③何故私はまたblogを性懲りも無く執筆し始めたのか?という「目的」。これを他ならぬ自分が理解した上でこの先も執筆を続けるか否かも含め検討していきたいと思う。

①私は何故blogを自然消滅させてしまうのか

これを考えた時、私のblogにはひとつの癖みたいなものが浮かび上がってくる。

「酒」「ダイエット」「経営論」

こんな感じでその日その時に強い関心を持っているテーマを据え、それに則ったタイトルと自己紹介文をその溢れんばかりの情熱のまま書き連ねるというスタイルのblogのスタートである。

しかしながら私は飽きっぽい性格である。

関心を完全に失う訳ではないが、2ヶ月も経てば違うものに興味が移行する。

その時にはむしろ違う事を書きたいのだ。
迸る情熱を注ぎ込み、ねりに練った「タイトル」そして「自己紹介文」が鎮座したブログ設定は興味が薄れた私には足枷でしかない。

しかしながらここで私の面倒臭い質がさらにブログを自然消滅に追いやる。

秘技「誰得潔癖」だ。

誰得潔癖とは、普段比較的ガサツでだらしの無い私がなんの前触れもなく起こす癇癪の様な「潔癖症」の事である。

日本酒をテーマにしたブログを開設したとしよう。最初は情熱を持ってブログを執筆する。しかしながら案の定興味関心が薄れてくる。今一番関心が高い分野についてなら書けるが、それ以外は筆が進まない。

そこで臨機応変にブログタイトルや紹介文を変更し書きたい事を書けば良いのだが、どうしても気持ち悪いのだ。誰得潔癖の発動だ。日本酒をテーマに始めたのだから日本酒以外の事がblog一覧に並ぶ事がどうしても許せないし、途中でタイトルや紹介文が変わる事も許せない。
まさに発動したところで誰も得をしない「潔癖症」といういらん質。

そこからは自然消滅街道まっしぐら、もはやその存在すら忘れ去ってしまう。

しかも、新たに興味関心が生じたテーマで違うblogを開設する始末。そしてそのblogも上記の理由で自然消滅していくのだ。まさに負の連鎖。blogと言う名の産物を生み出しては消滅させるの 「ビッグダディ現象」を繰り返してきたのだ。

つまり

①私は何故blogを自然消滅させてしまうのかというクエスチョンに対してのアンサーは、

間口の狭いblogの初期設定とその変更を許せない「誰得潔癖」の発動が、「ビッグダディ現象」として繰り返されるから!

という事になる。

では続いての検証項目に移行したいと思う。

②私はこれまで何故blogを執筆していたのか?
という点だ。

これに関しては趣味嗜好仕事に向けられるやり場の無い強い思いの吐口だった様に思う。

興味関心が強い時のスキル知識双方を会得するスピードは自分でも驚く程である。文字通り寝る間を惜しんでしまうのだ。

当然その爆発的瞬発力を支えているのは並々ならぬ情熱な訳だが、それを共有できる相手は中々いない。

妻に日本酒のうんちくを説いた所で、妻からすれば迷惑極まりない。

商談中のほろ酔い中年男に興味のない分野をそこそこな熱量で長尺語られる辛さは私も経験済み。

あの心が無になっていく感覚との葛藤。相槌に不備は無いだろうかという時折設ける自己点検タイム。まさに自己犠牲が為せる技。

自分がやられて嫌なことは人にやってはいけません。ですからそれを生身の人間に向けて語る事はしない。

blogにぶつけるのです!

文章に乗せて熱い思いを書き連ね、上がりすぎたテンションを適度な緊張感に整える必要がある。

何故ならば人間には感情があり、寝る、起きる、食べる、活動する、仕事する、様々な側面を多面体の如く繋ぎ合わせ、それぞれに合った心のテンションへ微調整しながら毎日を過ごしている。その調整ツールとしてブログを活用していたのだ。

当然それに対しての興味関心が薄れれば、心のテンションを調整する必要は無くなり自然とブログはお役御免となって行くのだ。

ではブログに吐き出すだけ吐き出して公開しなくても良いのでは?とお思いの方もいるだろう。公開さえしなければ、ブログの開設、自然消滅その双方を認知しているのは私だけであるからして、永遠にそのループを繰り返せばそれで済む話ではある。

何故この様に「私にとってのブログとは?過去の自然消滅から学びその教訓を活かすには?」みたいな文章を書いているのかを考えたら、ブログを公開しFacebookやインスタグラムを通じある一定の方々に読んでコメントを頂くなどして頂いているにも関わらず自然消滅ループという背景があるから、その方々に向けて新たなブログ開設の言い訳をしているに過ぎない。

自分の趣味嗜好へ偏った心のテンション調整に他人を巻き込んでしまっただけではなく、存在意義を無くした瞬間に自然消滅するという自分勝手を繰り返してすみません!という懺悔の気持ちからくる言い訳だ。

そう全てはブログを公開するという選択を過去に繰り返した代償と言ってもいい。

じゃあ公開しなきゃ良い。
先も述べた様に未公開で書きたいだけ書き永遠と開設、消滅を繰り返せば良いではないか。

しかしながらそうは問屋が下さない。

人間には生まれつき5つの欲求発動スイッチが備わっており、常にどれかのスイッチがONに入る様に設計されている。






上記が備え付け欲求スイッチのラインナップだ。生理的欲求が満たされると安全の欲求スイッチがONに入ると言う様に矢印の方向へ欲求は推移して行くのだ。


興味がある方はアブラハムマズローと検索して頂きGoogle先生にご教授頂く事をお勧めする。

日本社会において、生理的欲求と安全の欲求については満たされている方が多いと言われている。(本当か?)まぁそういう事にして話を進める。しかし社会的欲求と承認欲求が満たされない人々で溢れかえっている様だ。

確かに社会に居場所を見出せない人が増え、引きこもりや孤独死などのニュースは社会問題としてよく取り上げられているし、誰かに認められている感覚を欲しSNSで「いいね」や「ハート」をもらう為に何時間も掛けてパンケーキ屋に並ぶという狂気の沙汰としか思えない行動をとる人間を随所で目にする。

パンケーキを食べる事も、行列に並ぶ事も否定するつもりは一切ない。私も大好きなラーメンや日本酒の為ならばたとえ火の中水の中である。しかし目的そのものがブレてくるとこれは問題である。

本来行列に並ぶ目的は美味しいパンケーキやラーメンや日本酒を楽しむ事にある。
しかしながら承認欲求を拗らせると行列の先にあるラーメンやパンケーキや日本酒よりも、それをSNSにアップして「いいね」をもらう事が目的になってしまう。

これが何故問題かと言うと、知らぬ間に「いいね」と言う自分では無い誰かの評価を基準に行動が支配されてしまうからだ。

ざっくり言えば、承認欲求に支配された人は、取り組んでいる事柄の良し悪しでは無く、他者から褒められるか否かが行動の目的になってしまう。

ひとつの例を挙げてみよう。
妻が管理職に就いて間もなかった頃、膨大な仕事量に追われ疲弊しきっていた。旅行中や休暇中でも関係なく掛かってくる仕事先からの電話をとる姿を見て、心身共に壊れてしまわないかとても心配した。

比較的、時間の自由が効く私は本当に善意から家事を率先して手伝う様になった。夕食の準備をしたり食器洗いをしたりするだけで妻はとても喜んでくれた。

しかし2.3ヶ月過ぎると、私が家事をする事にあまり謝意を示されなくなった。なにか悶々とした気持ちが蓄積していく最中に見てしまったのだ、私が洗った食器を洗い直す妻の姿を。

「もういいよ!そんなんなら自分で最初からやれば良いじゃないか!!!」と私は怒ってしまった。

冷静に考えるとら、私が上手に出来なかったことのフォローしてくれている事に怒りを覚えるのは明らかに筋違いである。むしろ感謝するのが妥当だ。
私は完全に承認欲求を拗らせていた。
いつの間にか

「妻の助けになりたいから皿洗いをしよう」

から

「妻に良い旦那と思われたい、感謝してもらえるから皿洗いをしよう」

へ完全に目的がスライドしてしまった。
そうすると、本来なら「ありがとう」と言うべきところを真逆な言葉で相手に伝えてしまうという残念な現象が起きてしまうのだ。

この様に書くと、まるで承認欲求は悪いものと捉えらかねないのだが、それ自体は人間だれしも持っているものだし欲して当然なものだ。

承認されずに育った子供は人間不信な大人へ成長しやすくなるとも言われている。

大事なのは承認欲求に支配されない事であり、とろうとする行動の目的は何か点検する意識は持ちたいものである。もし行動の目的が承認欲求の充足に強く傾いてきたら調整する。

他者では無く自分の人生を自分軸で生きて行く為には必要な事だろう。

少し脱線したが、
②私はこれまで何故blogを執筆していたのか?
というクエスチョンに対するアンサーは

日常的生活を送るのが困難になる程の情熱を文章表現によりクールダウンさせ、同時に他者からの「いいね」をもらう事で他者承認欲求を満たす為(健全な範囲で)ブログを執筆していたという事になる。

①②を踏まえ
③何故私はまたblogを性懲りも無く執筆し始めたのか?という目的を明確にしたいと思う。

一つ目
自分の内なる部分を表現したいから。
二つ目
今の自分の考えている事は、今の自分にしか表現出来ないから。

真剣に自問自答した結果、この2つがブログ開設の理由として浮かび上がってきた。

私は本を読む事が大好きだ。

月に8冊位は読む。
歴史書からエッセイ、自己啓発系から宗教、哲学書と特にジャンルを絞らず読みたいものを手当たり次第に読む。

Kindleを読み上げ設定にしオーディオブック化する事で移動時間を有効活用する事も出来る。

そうすると多岐にわたる知識が、自分の内側に蓄積していく。実生活での体験と知識が繋がり「知恵」と言う恩恵を受ける頻度が増えてくる。そんなハッピーな経験を私だけの中に留めておくなんて勿体ない。一日は24時間と有限で、家族、友達、仕事関係と様々な場面場面で表出する人間性はある種無意識に役割を演じていると言う側面を持つ。

折角知り合う事が出来て、ある意味この時代を一緒に生きる同級生である皆さんにもっと色々な私を知って欲しいからだ。

だから内なる自分をこのブログというツールを用いて表現するのが一つ目の目的となる。

私は音楽が大好きだ。
自分でピアノやギターを演奏して時々良いフレーズが浮かぶと楽器で演奏して作曲の真似事などをしたりする。ただ残念ながら中三の頃に作った大作も、高校の文化祭で歌おうとした恥ずかし過ぎるラブソングも全く覚えていない。

きっとどれもこれも今聞いたら名作であるに違いない。その日その時、15歳の僕にしか書けないものがある。

(尾崎よりアンジェラ的なヤツだ)

本当に後悔している。
テープやビデオテープに残しておきたかった。
それを聴きながら飲む酒は旨かろう。
特に自分以外のその場を共にする人間には最高の肴だ。

少し遅い気もするが34歳!
三十路中級者の私にしか書けない何かがあるのではないかと思う。物凄いスピードで変化する時代とよく表現される社会を

「そんなに早いか?」

と挑戦的に受け止められる生意気さ。
平行してある程度ボリュームが増してきた人生アルバムを振り返るノスタルジックな一面も持ち合わせはじめている現在の感覚を、思考を、文章で書き留めておきたいのだ。これが二つ目の理由だ。

64歳になった時、良い肴になるだろう。
特に自分では無いその場を共有する人間には。

①②③という自己分析からの自己認識を前提に、ブログを継続させ目的を達成する為に、
 テーマは設けず、間口は広く
 文章表現は硬くてもフランクでもその日の気分で素直に表現する。

この二点を念頭に置いて、備忘録を残していきたい。

長々とここまで読んでくださりありがとうございます。2021年、今度こそ続けてみせるぞ!!

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