フロムYtoT 二人に残された日々

私と妻と家族の現在と過去を綴り、私の趣味にまつわる話を書き連ねたいと思っています。

義父の施設探し5

2024-02-14 23:14:58 | 日々の記憶

 一昨日、義父が代々受け継いでいる田んぼの確認と妻の実家の整理に出かけました。

 義父の実家は義父も義祖父も農家は生業にしておらず、今、残っているのは四筆一反程度の田んぼなのですが、義父も毎年固定資産税にも満たない僅かな年貢(?)を頂いているだけで、代々受け継ついだ田んぼを、あの辺としいうことしか程度しか理解していないのです。田んぼを貸したのは義父の三代前のことだというのですから、100年以上前の話です。私もtakaちゃんも、周りの方に迷惑をかけるかもしれないし、今後のことを考えると、買っていただける方がいたら無料でもお譲りしたい気持ちです。

 妻が色々と近所の方々に連絡を入れ、漸く義父の田んぼを耕していただいている農家さんに連絡が取れ、今日、日ごろのお礼を兼ね、現場確認に行ってきました。

 家の前にお父さんと娘さんが待っていただいていました。今は本人と娘さんの三人で住んでおられて、娘さん夫婦はそれぞれ仕事を持っていて、休日は父親の農作業の手伝いをしているとのことでした。

 この農家の方は他にもたくさんの田んぼを受け持っておられ、80歳を超えてこれだけの田んぼを作っておられることに、自分の現状と比較し、尊敬を感じました。

 それから私とtakaちゃんは実家に戻り、私は庭、takaちゃんは部屋の掃除や冷蔵庫の整理を行い。自宅に戻りました。

 まだまだ家の整理は終わっていません。


二人が仲睦まじくあるためには

2024-02-05 23:37:03 | 日々の記憶

 私とtakaちゃんは知り合ってから50年、結婚してから45年を経過している。そして末娘が一人暮らしを始めてから15年以上、週末や祝日に子供や孫が来ることはあっても、日常生活を2人で暮らしている。けんかをすることはあっても長引くことはない。

 私はロマンチストでセンチメンタリストで女々しい。takaちゃんはリアリストで母性本能旺盛で雄々しい。私は義父とこれからも一緒に暮らしてもよいと最初は言っていたのだが、takaちゃんの義父を大声で詰る姿に心を痛め、同居は無理だと思うようになった。

私が「ずっと胃の調子が悪くて唇と口角にできものができた」というと、

「youさん、それストレスやが。私も体調が悪い」

というのです。

 私はこれまでの人生の中でストレスフルな生活を送ってきて、ストレス耐性は人一倍強いと思っていたのですが、takaちゃんに降参です。

 

二人が仲睦まじくあるためには愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい 立派過ぎることは
長持ちしないことだと 気づいているほうがいい
完璧をめざさないほうがいい 完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい
二人のうちどちらかが ふざけているほうがいい
ずっこけているほうがいい
互いに非難することがあっても 非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは 少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと 気づいているほうがいい
立派でありたいとか 正しくありたいとかいう 無理な緊張に色目を使わず
ゆったりゆたかに 光を浴びているほうがいい 健康で風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに ふと胸が熱くなる
そんな日があってもいい そしてなぜ胸が熱くなるのか
黙っていてもふたりには わかるのであってほしいた。

完璧をめざさないほうがいい 完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい
二人のうちどちらかが ふざけているほうがいい
ずっこけているほうがいい
互いに非難することがあっても 非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは 少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと 気づいているほうがいい
立派でありたいとか 正しくありたいとかいう 無理な緊張に色目を使わず
ゆったりゆたかに 光を浴びているほうがいい 健康で風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに ふと胸が熱くなる
そんな日があってもいい そしてなぜ胸が熱くなるのか
黙っていてもふたりには わかるのであってほしい

                       出典 吉野弘 「祝婚歌


義父の施設探し4

2024-02-04 22:32:38 | 日々の記憶

 一昨日、義父を連れて妻と実家へ行ってきました。

 この日の仕事は、義父の病院とデイサービスの最後の手続きをすること、市役所へ行って住民票の転出手続きをすること、公共料金や新聞などの廃止手続きをすること、近隣の方に経緯を説明することです。妻はそれぞれに手土産を用意しています。

 まずコンビニによって昼飯を買って、病院で診察をして薬を頂いて、デイサービスにに行って預けていた荷物や薬を回収。

 義父の自宅につくと、近くに住んでいる義叔母と合流。義叔母はちらし寿司や煮物などを用意して待っていました。(当分、兄に会う機会はないかもしれない、ひょっとしたら生きているうちに合うのは最後かもしれないと思っていたのかもしれません)

 義父は4人兄弟の長男で、他は3人とも妹です。1人は数年前に亡くなっていますが、あとは義父の97歳を筆頭に3人とも健在です。とりわけ現在一人暮らで、89歳の近くにいる妹とは仲良くしています。(私の両親も90歳でなくなっていますから長寿家系のかもしれません)になりました。

 義父の住民票変更のため妻を市役所に送った後、妻の実家に戻って、初めで義父と義叔母と3人だけのシチエーションになりました。妻と義父と義叔母は顔がよく似ています。縄文人顔に近いのです(ゴメン)。そこで、

 「takaちゃんは、義父さんに似ていると思っていたけど、性格は義母さんに似ていますよね」と言うと、2人が口をそろえて、「そうよ」というのです。

 


義父の施設探し3

2024-01-27 20:48:14 | 日々の記憶

 昨日、義父を連れて車で妻と施設見学に行きました。場所は自宅から車で10分内外のところです。施設は町中の閑静な住宅街にあり、定員は30人程度のこじんまりとした3階建ての施設で、運営母体も私も知っている堅実な会社です。

 部屋は前回の訪問で目星をつけた南側3階の角部屋で、南側にベランダがあり、東側には窓があります。この施設の中では一番良い部屋とのことです。自宅からバスでも1本(15分内外)で行くことができます。

(私は、妻のためにも、義父のためにも、ここが良いのではと思っています。)

 


映画 「哀愁」

2024-01-25 01:01:20 | 映画

『映画 哀愁』との出会い

  

 出典wiki

 私と映画との出会いは高校に入学してからのことです。洋楽との出会いは中学生の頃題名は忘れましたが、テレビで放映されていたモンキーズが主演のドタバタコメディで流れるDaydream Believerなどの曲や、「シャボン玉ホリデイ」で流れる外国の曲を聴いて、はまってしまいました。その後、「ラヴ・ミー・ドゥ」などの曲でビートルズに出会い、サイモン&ガーファンクル、クイーン、ピンクフロイドなどを聞くようになりました。

  私の家は貧しかったのですが、高校生になったときに、母は、おこずかいを2,500円に上げてくれました。私は地元の三角公園の近くにある、洋画映画館の500円の学生会員に入会して、それから休みの日は月に2~3度、朝から晩まで、映画館で映画を見ていました。料金は学生会員料金で250円だったと思います。    

 その当時の映画館は一回入ったら出るまで同じ料金で、基本的に2作から3作の上映していました。たぶん高校時代の3年間で毎年 70作程度の映画を見ました。

 その後大学に進み、社会人になって、回数は減りましたが,良いと思う映画があれば時には妻と一緒に、時には一人で観にいっています。

 たぶん高校時代に観た映画で私が忘れられない映画の一つがこの映画です。

 この映画の主題歌は「蛍の光」で、私たちが幼いころ別れの詩として記憶しているものです。実はこの曲は「オールド・ラング・サイン」とうスコットランド民謡なんですね。

 日本の「蛍の光」の歌詞はスコットランド民謡の歌詞とは違いますが、私たちの年代の日本人には心に響く歌詞ですね。

この映画は1940の作品ですから、私が生まれる13年前の作品です。

 私がこの映画を見たのは、たぶん高校生の頃です。私は、まだ子供で、家族以外の人間を愛することも、家族以外の人間から愛されることも知らない年齢でしたが、何故かこの映画を見て涙腺が爆発しました。

 それから50年余りの間に何度かこの映画を見ましたが、この作品はいつも私の涙腺を刺激してくれます。

『哀愁』ストーリー

 第二次世界大戦が勃発し、イギリスが参戦した1940年燈火等制下のロンドン。ロイ・クローニン大佐(俳優ロバート・テイラー)はフランスへ赴任するためウォータルー駅へと車を向かわせている。

 物語の主軸は第一次世界大戦での物語であるが、時を経て、第二次世界大戦が勃発した後のウォータールー橋に佇むロイ・クローニン大佐の場面から始まる。駅に近くのウォータールー橋にさしかかると大佐は車を止めるよう指示し、車を降りる。霧に霞む欄干に佇み、出会いから20年以上がたち、初老の紳士となったロイが、ポケットから小さなお守りを取り出し、それを見つめながら過去へと思いを馳せる。

 1917年、彼は当時25歳の陸軍大尉であった。スコットランドの名家クローニン家に生まれ、軍人として第一次世界大戦勃発のためフランスへの出征の途上であった。

空襲のサイレンが鳴り人々はウォータルー駅の避難所へ駆け出す。途中、近くにいた女性が何か落とし、ロイはそれを拾って彼女を追いかけ、共に避難する。

 そこでお守りの持ち主であるマイラ(俳優ビビアン・リー)はロイの幸運を願ってお守りをロイに託す。まだ女学生のような彼女はマイラと名乗った。オルガ・キローワ・バレー団のダンサーなのだ。ロイは彼女の舞台を見物すると、夜食に誘ったのであるが、厳格なキローワ女史はマイラに外出することを禁じた。 

 しかし彼女は親友のキティの助けでぬけ出してロイと会った。翌日、ロイはマイラを訪ねて結婚を申込み、その次の日、式を挙げる約束が出来た。ところがその晩,彼女は速達便を受取った。出発命令が下ったから直ぐ立つ、会いたい、というのである。マイラは飛出して駅へかけつけたが走り行く車上に立つロイの姿を見ただけであった。劇場に急いでもどると、舞台に穴をあけたというのでキローワ女史はクビを申し渡し、マイラの弁護をしたキティも諸共クビになった。

 貯蓄の全部をはたいて結婚衣装を買ったマイラは、ロイからの手紙で、ロイの母に会いに行った。その約束のカフェでロイの殉死の報を新聞で見て卒倒した。それから2ヵ月間マイラは病床にふした。

 マイラは、キティが二人の生活費を稼ぐため、夜の女(娼婦)となっていることを、全快して初めて知って、その友情に泣かされた。そして今やロイ亡きあと何の生がいもなくなったマイラは、自らもキティと同じ道に身を落とした。それから1年、ウォータルー駅でマイラは凱旋して帰ったロイと偶然会った。彼女が待っていてくれたと思って喜んだ彼は、彼女の身の上の変化に気がつかず、彼女をスコットランドの家へ伴った。

 マイラはロイへの愛がすべてである。その他のあらゆる事は関係ないと、自分自身に言い聞かせたが、もしも彼女の1年間の行状が知れれば、ロイの破滅となるに違いないと思い直して、ロンドンへひとり帰ってしまった。ロイはマイラのあとを追ったがマイラは身を隠した。マイラは思い出のウォータルー橋の上に、いつか来てしまっていた。何度考えても彼女は愛するロイに幸福を与えることは出来ないとしか思えない。思いつめたマイラは突進して来る軍用トラックの前に身を投げた。

<映画com引用>

 ビビアン・リーは「風と共に去りぬ」「欲望という名の電車」でアカデミー賞を受賞するなど、数多くの映画や舞台で活躍した女優ですが、やっぱり、この映画が一番心に刺さります。そして大好きな女優の一人として、心に刻みました。

 この映画はアマゾンプライム等で観ることもできますし、ネットでDVDを見つけることもできます。興味がある方は観てください、もちろん白黒映画です。

『ビビアン・リー略歴』

『風と共に去りぬ』(1939)より

本名       Vivian Mary Hartley

生年月日              1913年11月5日

没年月日              1967年7月8日(53歳没)

出生地   イギリス領インド帝国 イギリス領インド帝国・西ベンガル州ダージリン

死没地   イングランドの旗 イングランド・ロンドン・ベルグレイヴィア

国籍       イギリス

身長       161 cm[1]

職業       女優

ジャンル              舞台、映画

活動期間              1933年 - 1967年

配偶者   ハーバート・リー・ホルマン(1932年 - 1940年)

ローレンス・オリヴィエ (1940年 - 1960年)

著名な家族          スーザン・ファーリントン(娘)

出典Wikipedia