ネットを通じてニュースを見ていたら、小泉首相の「靖国参拝」を巡るふたつの記事が眼にとまった。
《以下引用》
「小泉純一郎首相は25日午前、参院本会議の代表質問に対する答弁で、自らの靖国神社参拝問題について「アジア諸国で中国、韓国以外に靖国参拝を批判する国はない」との認識を示し、靖国参拝が対アジア外交の障害になるとの指摘に反論した。同時に、東アジア共同体の形成に向けて積極的に貢献していく姿勢を強調、「日米関係が緊密であることはアジア外交を戦略的に進める上でも極めて重要だ」との見解を重ねて示した。(1月25日『共同通信』)《引用ここまで》
相変わらずの小泉「理屈」だが、靖国参拝を批判している国は中国、韓国だけではない。台湾もシンガポールも批判している。そこは正確にしておいた方がいい。
小泉「理屈」に対して、韓国の盧武鉉大統領が反発した。
《以下引用》
「韓国の盧武鉉(ノムヒョン)大統領は25日、青瓦台(大統領官邸)で年頭記者会見を行い、小泉純一郎首相の靖国神社参拝について「韓国民が受ける気持ちを考慮しなければならない」と批判、「われわれの正当な要求が受け入れられるよう努力する。放棄はしない」と強調した。韓国政府として首相の参拝中止をあくまで要求し、歴史問題で妥協しない姿勢をあらためて示したといえる」(1月25日『共同通信』)《引用ここまで》
今年9月の自民党総裁選まで尾を引きそうな「靖国参拝」問題。実はわれわれ自身がどう思うか、の問題でもある。とは言いながらも、灯台もと暗し、ではないが、他人がどう見ているのか、聞く耳を持つことも大事ではないか。
韓国では「親日派」として、身の狭い暮らしをして来ざるを得なかった人々、その彼らが、なぜ小泉首相の靖国参拝に異議を唱えようとしているのか、その心情に迫ります。
題して「再考・靖国参拝」 『汚名』の第七回。
ソウル市街を緩やかに見下ろす場所に韓国の国立墓地はある。
およそ140万平方メートルの敷地のなかに16万余の墓標が立っている。朝鮮戦争での死者14万人。ヴェトナム戦争での死者およそ5千人。それに加えて日本の植民地時代に戦ったという〈抗日愛国志士〉354人も眠っている。
『日帝(注⑫)の保護政策を賛美することは、すなわち2千万同胞を毒殺することにつながる。この〈賊〉を殺さなければ、わが2千万同胞が滅亡に至るため、私は殺したのだ』
〈賊〉というのは朝鮮支配の牙城だった朝鮮総督府に勤務する日本人の役人を指しているのだろう。これは愛国志士、蔡某と書かれた墓石の裏側に記されていた文字だ。
このように日本の支配に抗して戦った人たちは墓石にも記された。その一方で、日本の戦争に駆り出されて戦い死んだ人たちは、墓石すらここには残されていない。そして同じ36年間をどう生きたかが解放後の人生をふたつに分けた。等しく植民地支配の犠牲者でありながら、徴兵・徴用された人たちには〈親日派〉の貼り紙が張られ、支配そのものに刃を向けた人たちには〈抗日愛国志士〉の称号が与えられた。
歴史のアイロニーというしかない。
忠清南道天安市のはずれに望郷の丘、と名付けられた墓地がある。
『ここは祖国の地、夢にも憧れた祖国の地、君たちよ還り来たれよ、望郷の丘・・・・』
慰霊塔に刻まれたこの詩が墓地の意味を表している。外国で死亡した韓国人で、祖国の地に眠りたいという望郷の思いを叶えさせようと、1976年8月15日に国が開設した。
サハリン上空でソ連の戦闘機に撃墜され死亡した大韓航空機の乗員・乗客269人の冥福を祈念する塔もあるが、多くは募集や官斡旋、あるいは徴兵、徴用で連行され、そして死亡した人々が眠る墓だ。言葉を変えれば〈親日派〉とされる人々の墓である。
彼らはようやく安住の地を得たのだ、と望郷の丘に立った私はあらためて思った。だがそう思う一方で墓石の少なさに、韓国ではまだまだ〈親日派〉は肩身の狭い思いをしている、と思わざるを得ない。
東京・九段にある靖国神社前で出会ってから半月が経っていた。
「これが父のお墓です」
李熙子さんが望郷の丘の一角に建つひとつの墓石を指さした。
墓石はのっぺらぼうとしたままで、なんの文字も刻まれていなかった。
日本のように分骨とか位牌分けといった考え方や、神となった以上、降ろしたり抹消したりといった考え方のない韓国では、魂は常にひとつだとされる。儒教がそう教えているのである。
「だからこそ、靖国神社に父の魂を祀っておくわけにはいかなかったんです」
父祖の地に父の魂を眠らせたい、という子供の気持ちはどの民族でも同じであろう。だが、靖国神社はそんなところには頓着しない。ひとりの死者の魂を巡って儒教と神道が、その大義を前にしのぎを削っている、と私は思った。
望郷の丘は死者を祀る場ではあるが、ひとりひとりの死者でさえ、自由に祀られない現実がそこにはあった。
墓石の前に佇みながら李熙子さんは、文字を刻まなかったもうひとつの理由に触れた。
「解放から50年経った1995年という節目の年には、日本による謝罪と戦後補償が終わるかと、そう思って前の年の六月にこの墓を建てたんです。そうなれば父の名前と安らかにお眠り下さい、という文字が刻めるかと思ったんです。でも50年どころか、21世紀となったいまでさえ戦後補償には進展がないのに、なんで碑文が刻めるんですか?」
あの時代に何人の朝鮮人が日本に渡ったのか、その正確な数字はない。徴兵、徴用といった強制連行だけでも100万人ぐらいか、と大雑把にいわれているだけである。そして何人の朝鮮人が死亡したのか、これにも正確な数字はない。
ただひとつだけわかっている数字がある。2万1千人余。これは皮肉にも靖国神社に合祀されていたために判明したのである。これ以外の人たちについては生死どころか、たとえ死亡しても死亡通知さえなされなかった。
李熙子さんの説明によると、この望郷の丘にはすでに9千柱分の墓があり、そのうちの7千余が日本の植民地時代に死亡した人たちで、その多くは民間の篤志家たちの好意によって遺骨などが返還されたのだ、という。
いうまでもないことだが、この数字のなかには、靖国神社に祀られている人たちは含まれていない。(最終回に続く)
(注⑫)日帝・・・36年間の日本の植民地支配時代を、韓国ではいまも「日帝=日本帝国主義時代」と呼んでいる。
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