『日本書紀』景行天皇 9
十二月、到於熊襲國。因以、伺其消息及地形之嶮易。時、熊襲有魁帥者、名取石鹿文、亦曰川上梟帥、悉集親族而欲宴。於是日本武尊、解髮作童女姿、以密伺川上梟帥之宴時、仍佩劒裀裏、入於川上梟帥之宴室、居女人之中。川上梟帥、感其童女之容姿、則携手同席、舉坏令飲而戲弄。于時也更深、人闌、川上梟帥且被酒。於是日本武尊、抽裀中之劒、刺川上梟帥之胸。
未及之死、川上梟帥叩頭曰「且待之、吾有所言。」時日本武尊、留劒待之、川上梟帥啓之曰「汝尊誰人也。」對曰「吾是大足彥天皇之子也、名曰本童男也。」川上梟帥亦啓之曰「吾是國中之强力者也、是以、當時諸人、不勝我之威力而無不從者。吾、多遇武力矣、未有若皇子者。是以、賤賊陋口以奉尊號、若聽乎。」曰「聽之。」卽啓曰「自今以後、號皇子應稱日本武皇子。」言訖乃通胸而殺之。故至于今、稱曰日本武尊、是其緣也。然後、遣弟彥等、悉斬其黨類、無餘噍。
≪英訳≫
In December, Yamato Takeru arrived in the land of the Kumaso to observe the local customs and the challenging terrain. At that time, a leader Takeru among the Kumaso named Toroshikaya, also known as Kawakami no Takeru, planned to gather all his relatives for a feast.
Yamato Takeru disguised himself as a young maiden, hiding a sword beneath his clothing, and secretly attended Kawakami no Takeru’s feast. He blended in among the women in the banquet room. Impressed by the disguised maiden’s appearance, Kawakami no Takeru invited him to sit together, offering drinks and engaging in playful antics. As the night deepened and the banquet attendees dwindled, with Kawakami no Takeru becoming intoxicated, Yamato Takeru drew his hidden sword and stabbed Kawakami no Takeru in the chest.
Before dying, Kawakami no Takeru requested a moment to speak. Yamato Takeru paused and listened. Kawakami no Takeru inquired about his identity, to which Yamato Takeru revealed he was the son of Emperor Keiko, known as Yamato no Oguna. Kawakami no Takeru admitted he was the strongest in the land, feared and followed by all. He had never met a warrior like Yamato Takeru and offered him a noble title, despite his humble origins. Upon Yamato Takeru’s agreement, Kawakami no Takeru proposed that he be called Yamato Takeru no Mikoto from then on. After speaking, Yamato Takeru fatally pierced him through the chest. This event led to Yamato Takeru being celebrated as such, and he later ordered his brother Otohiko to execute all of Kawakami no Takerus associates, leaving none behind.
≪この英文の和訳≫
十二月、大和武尊(やまとたけるのみこと)は熊襲(くまそ)国に到着しました。この機会に、地元の情報や地形の険しさを観察しました。
そのとき、熊襲(くまそ)に魁帥(たける)という者がいて、名は取石鹿文(とろしかや)、または川上臬帥(かわかみのたける)といった。
一族を残らず集めて、祝宴をしようとしていた。
大和武尊は、童女(少女)の姿に変装し、剣を衣服の中に隠して、密かに川上梟帥(かわかみのたける)の宴に加わりました。宴会の部屋で女たちの中に混りました。川上梟帥は、変装した童女の姿に感動し、彼女の手をとって隣に座らせ、飲み物を与えて戯れました。夜が更けて宴会の参加者が少なくなり、川上梟帥も酔いが深まった時、大和武尊は衣服の中から剣を取り出し、川上梟帥の胸を刺しました。
死にゆく前、川上梟帥は「少し待ってください。言いたいことがあります」と頭を下げました。大和武尊は剣を止めて待ちました。川上梟帥は「あなたはどなたですか?」と尋ねました。大和武尊は「私は景行天皇(けいこうてんのう)の息子だ。名前は日本童男(やまとのおぐな)だ」と答えました。川上梟帥(かわかみのたける)は「私はこの国で最も強い者です。だから、人々は私の力を恐れ、誰もが従います。しかし、あなたのような勇者には出会ったことがありません。私は卑しい者ですが、卑しい口からあなたに尊号を贈りたいと思います。よろしいですか?」と言いました。大和武尊は「許す」と答えました。そこで川上梟帥(かわかみのたける)は「これからは、あなたを日本武尊(やまとたけるのみこと)と呼びたい」と言いました。言葉を終えると、大和武尊は彼の胸を刺して殺しました。これが、大和武尊(やまとたけるのみこと)として讃えられる由来となりました。その後、彼は弟彥(おとひこ)らを遣わし、川上梟帥(かわかみのたける)の仲間たちを全て斬らせた。残る者はいませんでした。
令和6年2月16日(金) 2024