こんなのできた!

単調な生活に新発見を!  
日々の小さな出来事の写真日記

2009/02/09 漱石の一番悲しい出来事

2009-02-09 20:18:15 | Weblog

日課・・・  ラジオ体操。
朝食は


焼きたてパンならぬ焼きたて餅。こんがり焼けてて食べるとパリパリして、
いくらでも食べる
。切り餅4個がくっついてこんな形になった。


晴れの朝。

ラジオ・テレビ・ネットのニュースは
機械受注(12月)
    -1.7%  前回 -16.2%   (前月比)
  -26.8%  前回 -27.7%   (前年比)
・国際収支-経常収支(12月)
  1254億円  前回 5812億円
  4985億円  前回 6541億円 (季調済)
経済指標悪化の中、首相は8日の講演で日本の経済は「傷は浅い」「大変
じゃない」の楽観論。
本当にそう思っているのか?


JAへ。自治会役員親睦会の買物があり、預金の引き出しをする。小額で
気が引ける。


昼間は晴れてたが
夕刻散歩の時は曇ってた。


ガソリン・灯油価格は変化なし。


Nさん・Fさん・Xさんに挨拶。いつも二人なのに、きょうは初めて出会う「Xさ
ん」と三人組で歩いておられた。

早く目覚めた時に布団の中で読んでいた『日記 及 断片 下』の明治44
年の所を読み終える。

■ 漱石年譜






■ 漱石 『日記 及 断片 下』 
明治44年(1911年、漱石44歳)は漱石にとって最も多時な年だった。
・文部省からの学位授与を辞退
・家のお手伝いさんの嫁入り支度、媒酌人
・大阪での講演後吐血し、大阪・湯川病院に入院
・帰京後、痔の手術を受ける。その後も通院。
・朝日新聞社幹部のごたごたで責任をとり辞表提出
・そして、漱石の一生において一番の悲しい出来事は、最も愛していた
 五女雛子の急死

明治44年の日記には、
12月3日[日]
  (座敷にあった、ひな子の生まれる5~6年に買った炭取を見て) 
  ・・・其炭取はまだど
こも何ともなく存在してゐるのに、いくらでも代りのあ
  る炭取は依然としてあるのに、破壊しても
すぐ償ふ事の出来る炭取は
  かうしてあるのに、かけ代のないひな子は死んで仕舞つた。どうして此

  炭取と代る事が出来なかつたのだらう。 
  ○昨日は葬式今日は骨上げ、明後日は納骨明日はもしするとすれば
  待夜である。多忙である。
然し凡ての努力をした後で考へると凡ての努
  力が無益の努力である。死を生に変化させる努力でな
ければ凡てが無
  益である。こんな遺恨な事はない。
  ○自分の胃にはひびが入つた。自分の精神にもひびが入つた様な気
  がする。如何となれば回復
しがたき哀愁が思ひ出す度に起るからである。
          漱石全集 第二十六巻 『日記 及 断片 下』 p.80 岩波書店
と書いている。

■ きょうのタマちゃん



   のち