壮行

2006-06-25 23:47:55 | 競馬
 雨の中でもディープインパクトは飛んだ。

 
 阪神競馬場の馬場改修工事のため今年は京都競馬場が舞台となった第47回宝塚記念。ディープが勝つのは火を見るより明らかなので、今回は東京でテレビ観戦にしようかとも思ったが、やっぱりじっとしていられなかった。そんなわけで今年3度目のディープ応援旅行が始まった。

 本当は土曜の夜に新幹線で京都入りして一泊という予定だったのだが、昨日は何だか早く横になりたい気分だったので、大阪行きの寝台急行で京都を目指すことにした。仕事場から直接東京駅に向かい、23時発の列車に乗り込んだ。けっこう疲れていたのでベッドに横になるなり意識が薄れていく。列車が動き出したのは何となく覚えているが、僕が次に目を覚ましたのは翌朝、滋賀県の大津に着いた頃だった。そして朝7時前に京都に到着。京都競馬場に着いたのはちょうど開門時刻の7時半くらいだった。

 ある程度は予想していたが、やっぱり大行列ができていた。朝から雨模様だったにも関わらず、よくもまあこんなに人が集まるものだと感心させられる。さらに場内に入るとディープの勝負服をあしらったTシャツを着た人がけっこういる。まるでW杯のサポーターのような感じだが、これもいわゆる「ディープ現象」というやつだろう。

 雨は昼を過ぎてもやむ気配はなく、むしろ強くなっていく。今回の宝塚記念でディープインパクトの最大の敵は雨だったはずである。俗に「飛ぶ」と形容されるだけあってディープの走りは他馬より歩幅が大きいのが特徴。つまりその分、馬場がぬかるむと脚を取られやすくなるということだ。そして実際、この点を死角として不安視する声はけっこうあった。

 いよいよ宝塚記念のスタート。ゲートもだいぶ上手くなってきたようで、出遅れることなくスムーズに出た。そしてディープはこれまでにないほど落ち着いて後方を追走。そして勝負所から一気に前を捕らえると、直線は突き放すだけだった。結局2着とは4馬身差。雨などまるで問題にせず、これまで以上に完勝であり圧勝だった。

 この馬がものすごい脚を使うというのは日本中が知っている。そしてディープインパクトには「英雄」「最強馬」「空飛ぶサラブレッド」といったさまざまなニックネームがつけられる。そう考えるとファンの楽しみは馬券を買うよりもその強さをどう形容するかだけにあるような気がする。そしてそれはその領域に達した馬にしか与えられない特権だろう。

 この秋、いよいよディープインパクトは世界最高峰のレースである凱旋門賞へ挑戦する。最高の馬で、最高の舞台に挑めるチャンスなどそうあるものではない。ましてや次にディープインパクトのような馬が誕生するのは何十年先になるかわからない。僕の生きているうちでは今回がもしかしたら最後のチャンスになるかもしれない。

 10月1日、フランス・パリのロンシャン競馬場。「Deep Impact」の名が世界に響き渡るその瞬間を、是非ともこの目で見届けたい。

回想

2006-06-14 23:57:30 | その他
『きょうしつ』

きょうしつは、
あそぶところじゃ、
ありません。

べんきょうをするところです。

べんきょうは、
あそびじゃ、
ありません。

べんきょうも、
しずかに、
しましょう。


 これは先日、部屋を片付けていたら出てきた、僕が小学校一年生の時に書いた詩を改訂せずにそのまま掲載したものである。皆さんはこれを読んで何を思うだろうか。
 
 最初の節が五・七・五になっているので、ひょっとすると僕は未来の俳句界を背負って立つ天才小学一年生だったのではないかと胸が高鳴ったのだが、次の節ではそのリズムは呆気なく傾き、その期待は一瞬で崩れ落ちた。

 一体これは誰に向けられたメッセージなのだろうか。これがもし他のクラスメイトに対するものなら僕はただの嫌な奴である。口うるさいおばさんと同じである。とても小学一年生のイノセントな感覚からは発想し得ない不思議なニュアンスがこの詩からは窺える。

 しかし、こんないやらしい詩を作っていながら、僕は小学一年生の時、そんなにクラスメイトから嫌われた覚えはない(気づいていなかっただけかも知れないが)。ということは、この詩は他の誰に公言するでもない、自分自身に言い聞かせるためのものだったのだろう。

 「教室で遊んでないで勉強をしよう。でも勉強も静かにしなければならないんだ。」

 まさに教師陣の理想をまとめ上げたような優等生思考である。つまり先生がどういう詩を作ったら喜ぶのか分かっていたのだ。なんと計算高い、嫌な小学生だったことか。

 そういえば、こんなエピソードがある。

 ある算数のテストでの事。僕の隣の席には明らかに僕より勉強のできない男子生徒が座っていた。そこでテスト中、僕はさりげなく彼に回答用紙を見せてやったのだ。しかし僕は自分の答案用紙にあえてウソの回答を書き込み、それを写させるだけ写させてやり、テスト終了直前になって正答を自分の答案用紙に猛スピードで書き替えるという卑劣な工作をしたことがある。それが何年生の時の事かは定かではないが、数日後、彼が成績不振のために職員室に呼ばれたのははっきり覚えている。

 何をどうすれば誰がどうなるのか。そしてその結果、誰がどんな目に遭うのか。そういった一切の手順を小学生である僕は理解していたのだ。そう考えるとやはり僕は打算的な嫌な奴だったのかもしれない。

 しかし当時の事を振り返ってみたところで、僕は教室で遊びに関心を持たず、黙々と勉学に勤しんでいたのかと聞かれれば、そんな覚えは微塵もない。要は言う事だけは立派で、あとは他の生徒達と変わりなく、いや、他の生徒以上に教室でぎゃあぎゃあ遊んでいたということだ。 

 高らかに宣言した理想に対して、肝心の自分自身は何一つとして実現に向けた取り組みをしていない。このあたりは16年の時を経ても一向に変わっていない。

 この詩を作ったのは紛れも無く僕自身なのだが、この詩が何をテーマに、どんな状況下で、何の意図を持って作られたのかはどんなに記憶を遡っても思い出すことができない。そして詩を作った本人が思い出せないのだから、この詩に込められた意味というのは永遠に闇の中である。

欠陥

2006-06-11 22:35:16 | その他
他の人にあって僕にないもの。

列挙していったらそれこそ無尽蔵に出てこようが、自覚している限りでのもっとも重大なそれは絵心である。

おそらくそれは神様のちょっとしたミスによるもので、僕という人間を作る際、どこかの過程で絵を描く才能を与え忘れてしまったに違いない。

その手違いのせいで、中学生の時は必死に描いた自画像を美術の先生に見せた結果、「ふざけてないでちゃんと描きなさい」と冷たく言い放たれ、つい最近の話だと僕に道を尋ねてきた見ず知らずの外国人を激怒させてしまったり(「対応」の項参照)するのである。

こんな僕だが、実を言うと小学生の時、選挙ポスターを描いて、区の選挙管理委員長賞というものを受賞したことがある。本当である。これは僕の数少ない受賞歴を鮮やかに彩る貴重な勲章の一つなのである。

しかし残念ながらこれもその半分以上は美大卒の母に手伝ってもらったものだ。今から思えば情けない話だが、そのせいで受賞してからしばらくは、その事実がどこかの筋から区側に伝わって、賞を剥奪されるのではないかとビクビクしながら毎日を送っていたのを覚えている。


さて、僕は果たして何故これほどにまで絵が描けないのだろうか。

かつては上手かったのに今は描けなくなってしまったというのなら救いようもありそうなものだが、先天的に絵の才能がないとなるともはや手のつけようがない。

それでもやはりどうしても絵を描かなければならない時というのは訪れる。そんな時は無い才能をフル作動してそれに取り掛からねばならない。

僕が絵を描く際に留意している点は二つある。

一つは人物や物体の特徴を最大限に強調すること。自分に絵の才能がないのは当事者である僕自身が一番理解しているつもりだ。しかしどれほど絵が下手でも特徴さえ捉えられていれば相手に伝わるのではないかと考えたのである。

しかし実際はそんなに甘くない。要は特徴を相手に伝えることしか考えていないので、その結果、鼻の長さが体の数倍はあろうかという不気味なゾウになってしまったり、首が異常に長く、立っているだけで骨折しそうなキリンになってしまったりするのである。ここが僕のダメなところだ。

そして二つ目は絵を描いている最中は、絶対に無口にならないこと。

というのも、前述のようなゾウやキリンの絵を描くと、その絵を見せられた人は僕のことを、何か幼少期に心に大きな傷を負った人間だと思うに違いない。しかもそれが一心不乱に黙々と絵を描いていたら尚更である。もしこれで赤い空や、黒い太陽の絵を描いたりしたら、そのうちカウンセラーを紹介されたり、そういった専門医を勧められたりするかもしれない。そんなわけで僕は絵を描く際は、常に自分が正常な人間であることを示し続けなければならないのだ。


字の下手な人は読みづらいだけで一応は相手にメッセージが伝わるが、絵が下手な人は、それが何かすらも分からないまま人間性まで疑われるので気をつけなければならない。