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羊の気ままな日記

食事中心に

朝日新聞・俳句時評 五島高資

2009年01月27日 | Weblog


「抽象」から「造形」へ

第四回正岡子規国際俳句賞を金子兜太が受賞。
 ・・・・略・・・・・
 蕉風における主客一如から高浜虚子による花鳥諷詠に至るまで、その詩的昇華は、いずれにしても「物の微」に即しながら「情の誠」へ向かう俳諧的写実によって詩的真実性が明らかにされる「抽象」という詩的構造の上に成立している。
  人体冷えて東北白い花盛り  兜太
 人間であることをいったん保留された「私」は、「人体」として外界の景物と同列に置かれることによ
って、初めて「冷える」という言葉の根源に遡る体験的共有感覚において東北の風土と深く共鳴する。その天人合一の刹那に見えたる光こそまさにかけがえのない命の儚さに咲く花の白さに他ならない。そしてここにおいて「私」は個別的あるいは問主体的自我から超越論的自我となって真の「私」が立ち現れるのである。こうした「創る自分」という高次の主体作用による詩的創造が兜太による「造形」という詩法なのである。
月並み調や俳句の国際化はもとより真の伝統的俳諧精神とも相いれない季題趣味などの形式あるいは観念主義の蔓延へと道をそれてしまった「抽象」を見直すためにも、まさに「造形」の詩法が現代俳句において果たすべき今日的意義は実に大きいと言わざるを得ない。

          久しぶりに興味深い時評だった。


橋本夢道の句集 54年ぶりに復刊  ・・・の記事

 自由律俳人(1903~74)
『無禮なる妻』未来社。序文は師の萩原井泉水、作家 野間宏、「俳句弾圧事件」でともに獄中にあった秋元不死男、句友栗原農夫(たみお)。夢道俳句を知るには意味深い文章だ。
 《 「あさり、しじみョォ」貧乏路地を起こしにくる 》
 《 「きんかくしを洗いましょう」ユーモレスクにうら悲し 》
 《 無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ 》

*******

 先日の句会で、風樹さんが
「もっと感覚で感受しようよ」と提言した。
そう、意味とか理論とか理屈とか情とか、その他諸々あるが・・・
《 歩道橋のペットボトルや手榴弾 》
の1句について、彼は、こういう飛躍がおもしろいのだ。と

私も彼の言っていることは理解するが、感覚的に「手榴弾」という「もの」が受け入れられない。見たことがないというのが一番の問題なのだろうけれど。たしかになんらかの不安感というか恐怖感は漂っている1句であることは確かだ。意味的に感受すれば、すごい1句なのだろうが、風樹さんの言う感覚的というのには遠い。

もう少し時間をかけて考えたい。

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コメント
スズキ与太郎(s-taka)
2009年01月26日 22:36
《 ウィンカーの時限爆弾ぬるい雨 》

この句はどう思いますか?

僕は、今回の句評はまだいただいていませんが、久しぶりに肩の力を抜いて“飛ぶ”ことができたと思っています。若干自己模倣の感は否めませんが、自分らしさを素直に出そうという感じで句ができて、それを風樹さんが評価してくれたことはとても嬉しいと思っています。

また、評が届いたら、自分の日記に書いてみます。
とりいそぎ。


この1句の時限爆弾はぬるい雨によって爆発することはない。
または、温い雨に濡れたために導火しない。
「ウィンカー」と「時限爆弾」の「刻」を対比したところは感覚。
そして、この感覚を、人に引き寄せたのが「温い雨」。
現状を良きとは思わないで居る作者、しかし、この温い雨に濡れるしかない日常のやりきれなさの発露。

 と、まあ、こんな解読になるのが今の私流です。
   ウィンカーの時限爆弾天高し
と、下5によっては、もっと普遍性を獲得できると思います。

追伸 
    羊
先日読んだ保坂氏コンバセイション・ピースに

「具体的であることは同時に抽象的だということでもあって、具体的というのはただの物理的な次元では収まりきらないこととして、抽象的であることと同じ次元での観点の違いに過ぎないのではないか。というか、だから抽象はつねにいつも確個として人の頭の中にあるのではなくて、具体的なものがなければ抽象もなく、具体的なものが具体的なものとして物理的な次元をこえて人の気持ちをとらえることができるのは抽象が立ち上がってい・・・」

この事なんですよね、非常にややこしいので具体を物語らないとならなかった保坂氏の筆は、だから時に読むのが面倒になりましたが・・・。

第176回定例句会

2009年01月25日 | Weblog


 集合11時 散会16時30分
天気予報では晴れの筈だったが、出かける時には厚い雲がかかり
寒々とした冬空。区内でも中野の方では雪が降っているとか。
埼玉でも雪、鹿沼はかなり降っているようだ。
 自転車で行くのを一瞬ためらったが、えいっ、降ったら降ったで
それも一興と。コートの下には厚いベストを着て、マフラーを首にぐるぐる巻き
にして、スラックスの下には????をはいて、
体重は軽量なのだけどすごい厚着なので、ペダルをこぐのが重い。

 午前中というのに、アサヒビールの近くはけっこう人混みがあり
賑わっていた。川のテラスでは吹奏楽部らしい中学生が練習している。
日中とは言え、曇り空の下の川風は冷たい。

 隅田公園はホームレスの男の人がぽちぽち居るが、散歩の人は
居ない。
 梅園に入り自転車を下りて今年梅を眺める。マスクをしていたので
はずして、花の近くに寄るが、あまり香りがしない。昨年は梅園に入った途端に
良い香りに包まれたのを思い出す。鼻がつまっているのかなーと思い
鼻をかんでも・・・。
     しばらく、花の下で3句うなる。
梅の木の下にあつらえてある薄緑の草々(名前は知らない)が彼方此方で動く!
何だ?と目を凝らすと雀らが出入りしている。草の陰に隠れては出て、出ては隠れ
ときをり、梅の枝に止まって、花を散らす。
見ていて飽きなかったが、時間が遅れてしまっては申し訳ないので其処を後に
真っ直ぐ席亭家へ。

 新年といってもちょっと遅いので、軽い挨拶で、いつもと同じペースで
句会は始まった。与太さんが欠席。

私の自由句
 消しゴムの落ちて弾んで初隠れ
私の兼題句(みぞれ)
 一叢の竹林動く太霙
   (みぞれ雪)の方がよかったのかなー?

戴いた自由句
 はじまりはついと落ちゆく寒椿
 人日やこころの奥の異和祝ぎて
 「3・6のカブだぜ神様」年男  (さぶろくのカブだぜかみさまとしおとこ)

戴いた兼題句
 貧乏がそこまで来ているみぞれかな
 霙るるや消えては大川盛りあがり
 花びらはあたたかきかなみぞれ溶く
 霙るるや出前そば屋のひと言で
 霙るるや通帳見つめる派遣の寮

さて恒例の年間優秀賞の発表

 最優秀賞1句
     降る雪や金魚の気泡(あわ)の割れる音  すみれ

戴いた賞
 地の句 3位・ 人の句 3位・ 無点句賞
今年も無点句賞を頂いた。今度暇をみて無点句を集めてみようかな。
 来年の無点句賞をいただけたら3連覇?
*******
今日始めて席亭が1月7日生まれと知った。
ぎんなんを上手に焼く方法
  10粒くらいを茶封筒2重にして電子レンジで30秒弱
    

保坂和志「カンバセィション・ピース」新潮社

2009年01月20日 | Weblog

 語り手は小説家である私、場面は築五十年の家、ときをり横浜球場。

 家の持っている歴史。といっても、ここに住んだ伯父や伯母、兄姉妹、猫を登場させ、
今と過去を繋げて『気配』を語り、物理的現象があるという『確信』。
 例えば、人は知らないことを少しでも減らそうと注意深く生きているわけではなく、普段は知っていることを基盤にして、まるですべてを知っているようなつもりで生きている。ハイデガーはシェリングの哲学を存在についての哲学と言い、神とは存在の擬人化のことであり、擬人化とは幼稚な思考法などではなく、人間存在それ自体の広がりや奥行きによるもので、私たちはまだ人間自身の可能性を知り尽くしているわけではないというようなことを言っているのだけど、人間の思考というのは言われてみれば確かに物事を人間から完全に切り離して、最初から最後まで人間と別物として考えることはできなくて、どこかで人間に似せてしまったり、人間に対して使うのと同じ言葉を使ってしまったりする。という「私」の思考を現実の生活に照らしてゆく。

 また、具体的であることは同時に抽象的だということでもあって、具体的というのはただの物理的な次元では収まりきらないこととして、抽象的であることと同じ次元での観点の違いに過ぎないのではないか。というか、だから抽象はつねにいつも確個として人の頭の中にあるのではなくて、具体的なものがなければ抽象もなく、具体的なものが具体的なものとして物理的な次元をこえて人の気持ちをとらえることができるのは抽象が立ち上がっているからで・・・・。

   読み終わって、作者が書きたかったことを、小説に表現した作業には頭が下がった。読んでいる途中で、あまりのつまらない場面場面にうんざりしたり、かと思うと
クスクス声をたてて笑ってしまったり。と、あまりのくだらなさ?と言ったらいいのかしら。私たちが日常の中で話していることって、この小説の一場面と同じだなと納得させられる。そこが可笑しいのかな?

 以前、心理学者が他の自然科学と違うことは対象にしている物が、重さ、大きさ、形を持たないという点で ・・・・「どんな風に感じているか」なんて、ほんとうは「語りえぬ」ものではないか。いや語ることはできる。そのひとつの証拠が『錯視図形(ミュラーの錯視図形)』と呼ばれるものだ。
Aの方が長く見える Bの方は短い という感覚の行方はいったいどこにあるのか、それはちょっとした発想の逆転として、どんな定規を使ってもはかれなかった長さを、とりあえず存在するものとしてしまう。・・・・  
 
 そう、この存在するものとしてしまった文が、保坂氏が書いた「カンバセィション・ピース 」だと思う。
一人禅問答のような、とりとめもない迷い道に連れて行かれたりもするが、それも一興であった。
カンバセィション・ピース=散文?

トーベ・ヤンソン「人形の家」筑摩書房

2009年01月14日 | Weblog

  訳 富原真弓


( 12編からなる短編集 )

 どの物語の主人公も、自分の周りに半透明の膜をかぶせて、
読者である私を 物語の場所へは連れ出してくれない。
かと言って途中でページを閉じてしまったら
その場所に戻れない気分になる。
私には理解不能な行動をとる物語の主人公たちは
常識から眺めれば明らかに狂人であり、偏執狂である。
が、その純粋性を眺めると、なんと自分に誠実なんだろう。
「機関車」「人形の家」の主人公たちに、それは顕著だ。
破滅へと繋がる危機感は殺人をも罪悪と捉えないのではないかとさえ感じた。
それは、成熟していない大人(社会性とか協調性とか)という範疇ではなく、
夢を追い続け、実現させるのに必要な「誠実」なのだろう。


 読み終わって、これらの短編が、
あの「ムーミン」の作者だと信じられなかったが、
待てよ、ムーミンには我が道をゆく「ミー」とか
哲学者風の「 スナフキン」とか、
他に個性の強い脇のキャラクターたちがたくさん居た。
彼等こそ、作者ヤンソンが描きたかった人格だったのでは・・・。


今年の初読書1冊目は、1週間もかけて読んだ。
自分の中へ採り入れるのには時間が必要な1冊でした。