「抽象」から「造形」へ
第四回正岡子規国際俳句賞を金子兜太が受賞。
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蕉風における主客一如から高浜虚子による花鳥諷詠に至るまで、その詩的昇華は、いずれにしても「物の微」に即しながら「情の誠」へ向かう俳諧的写実によって詩的真実性が明らかにされる「抽象」という詩的構造の上に成立している。
人体冷えて東北白い花盛り 兜太
人間であることをいったん保留された「私」は、「人体」として外界の景物と同列に置かれることによ
って、初めて「冷える」という言葉の根源に遡る体験的共有感覚において東北の風土と深く共鳴する。その天人合一の刹那に見えたる光こそまさにかけがえのない命の儚さに咲く花の白さに他ならない。そしてここにおいて「私」は個別的あるいは問主体的自我から超越論的自我となって真の「私」が立ち現れるのである。こうした「創る自分」という高次の主体作用による詩的創造が兜太による「造形」という詩法なのである。
月並み調や俳句の国際化はもとより真の伝統的俳諧精神とも相いれない季題趣味などの形式あるいは観念主義の蔓延へと道をそれてしまった「抽象」を見直すためにも、まさに「造形」の詩法が現代俳句において果たすべき今日的意義は実に大きいと言わざるを得ない。
久しぶりに興味深い時評だった。
橋本夢道の句集 54年ぶりに復刊 ・・・の記事
自由律俳人(1903~74)
『無禮なる妻』未来社。序文は師の萩原井泉水、作家 野間宏、「俳句弾圧事件」でともに獄中にあった秋元不死男、句友栗原農夫(たみお)。夢道俳句を知るには意味深い文章だ。
《 「あさり、しじみョォ」貧乏路地を起こしにくる 》
《 「きんかくしを洗いましょう」ユーモレスクにうら悲し 》
《 無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ 》
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先日の句会で、風樹さんが
「もっと感覚で感受しようよ」と提言した。
そう、意味とか理論とか理屈とか情とか、その他諸々あるが・・・
《 歩道橋のペットボトルや手榴弾 》
の1句について、彼は、こういう飛躍がおもしろいのだ。と
私も彼の言っていることは理解するが、感覚的に「手榴弾」という「もの」が受け入れられない。見たことがないというのが一番の問題なのだろうけれど。たしかになんらかの不安感というか恐怖感は漂っている1句であることは確かだ。意味的に感受すれば、すごい1句なのだろうが、風樹さんの言う感覚的というのには遠い。
もう少し時間をかけて考えたい。
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コメント
スズキ与太郎(s-taka)
2009年01月26日 22:36
《 ウィンカーの時限爆弾ぬるい雨 》
この句はどう思いますか?
僕は、今回の句評はまだいただいていませんが、久しぶりに肩の力を抜いて“飛ぶ”ことができたと思っています。若干自己模倣の感は否めませんが、自分らしさを素直に出そうという感じで句ができて、それを風樹さんが評価してくれたことはとても嬉しいと思っています。
また、評が届いたら、自分の日記に書いてみます。
とりいそぎ。
羊
この1句の時限爆弾はぬるい雨によって爆発することはない。
または、温い雨に濡れたために導火しない。
「ウィンカー」と「時限爆弾」の「刻」を対比したところは感覚。
そして、この感覚を、人に引き寄せたのが「温い雨」。
現状を良きとは思わないで居る作者、しかし、この温い雨に濡れるしかない日常のやりきれなさの発露。
と、まあ、こんな解読になるのが今の私流です。
ウィンカーの時限爆弾天高し
と、下5によっては、もっと普遍性を獲得できると思います。
追伸
羊
先日読んだ保坂氏コンバセイション・ピースに
「具体的であることは同時に抽象的だということでもあって、具体的というのはただの物理的な次元では収まりきらないこととして、抽象的であることと同じ次元での観点の違いに過ぎないのではないか。というか、だから抽象はつねにいつも確個として人の頭の中にあるのではなくて、具体的なものがなければ抽象もなく、具体的なものが具体的なものとして物理的な次元をこえて人の気持ちをとらえることができるのは抽象が立ち上がってい・・・」
この事なんですよね、非常にややこしいので具体を物語らないとならなかった保坂氏の筆は、だから時に読むのが面倒になりましたが・・・。