昨日から熱を計っている
平熱なので、接種を決めた。
今年は早い流行らしい。インフルエンザの恐さを知ってからは
少々お金がかかっても、代えられないと思う。
久しぶりに図書館で「俳句研究」の雑誌を借りてきた。
たくさんの結社があり、たくさんの俳人が居て、皆俳句を真剣に
唸って居られる。表紙に「昨日の我からの脱出」という見だしに
興味がそそられたからだったが。
私も一時は有名どころの俳句は勉強したが、句集は厭きていまい
論評もどこか作者へのへつらいを感じ、あまり長続きしなかった。
しかし句会では、俳句の話から外れ、たくさんの不知のことや物を
知り、各人の言葉の捉え方の相違もおもしろく、句会が無かったら
自身のためにだけ俳句を作るかしら?と自問する。
また、無理に脱出しなくても自然にまかせていれば、常に昨日より
今日へと変化しているのが人間だ。
以前と違って感動の温度が低くなっている。と言うより
むやみな観念には拒否反応が沸き上がる。
先日の句会で、そんな話しをしたら兎の女さんが
「エネルギーではないか」と言われた。
流れている血液も低温になり、静かな川の流れの優しさの中に
安住したくなっているのかなー。
攻めのエネルギーは体力も消耗する。
受容のエネルギーは心地よい(若い頃にはあまり無かったと思う)
「攻め」は若い人にまかせて
「受容」と「平凡」の中の詩を創って行けたら。と望んでいるのだが。
これが案外と難しい。
日常を単に1句にしても何の感動も生まれない。そこには「詩」がなくては
こころにしみ入らない。読者と作者が共鳴しなくては感動が無い。
第一、自分のこころに響かないと1句が生まれないのだから困ったものだ。
平熱なので、接種を決めた。
今年は早い流行らしい。インフルエンザの恐さを知ってからは
少々お金がかかっても、代えられないと思う。
久しぶりに図書館で「俳句研究」の雑誌を借りてきた。
たくさんの結社があり、たくさんの俳人が居て、皆俳句を真剣に
唸って居られる。表紙に「昨日の我からの脱出」という見だしに
興味がそそられたからだったが。
私も一時は有名どころの俳句は勉強したが、句集は厭きていまい
論評もどこか作者へのへつらいを感じ、あまり長続きしなかった。
しかし句会では、俳句の話から外れ、たくさんの不知のことや物を
知り、各人の言葉の捉え方の相違もおもしろく、句会が無かったら
自身のためにだけ俳句を作るかしら?と自問する。
また、無理に脱出しなくても自然にまかせていれば、常に昨日より
今日へと変化しているのが人間だ。
以前と違って感動の温度が低くなっている。と言うより
むやみな観念には拒否反応が沸き上がる。
先日の句会で、そんな話しをしたら兎の女さんが
「エネルギーではないか」と言われた。
流れている血液も低温になり、静かな川の流れの優しさの中に
安住したくなっているのかなー。
攻めのエネルギーは体力も消耗する。
受容のエネルギーは心地よい(若い頃にはあまり無かったと思う)
「攻め」は若い人にまかせて
「受容」と「平凡」の中の詩を創って行けたら。と望んでいるのだが。
これが案外と難しい。
日常を単に1句にしても何の感動も生まれない。そこには「詩」がなくては
こころにしみ入らない。読者と作者が共鳴しなくては感動が無い。
第一、自分のこころに響かないと1句が生まれないのだから困ったものだ。