お能を観に行きました。
本当に久しぶりです。
念願の「阿漕」でした。
でも、あれほどに念願だったのに、途中少々睡魔に襲われました。
敗因はふたつ。
その一・
開場は一時間前で、開場時間よりやや早めに着いたのですが、気がつけば腹ぺこ。
会場内に設置されている食堂でいきなり松花堂弁当を食ってしまいました。
だってさー、カレーとかはちょっと・・・。
これからお能(しかも「阿漕」よ)観ようって時にカレーはちょっと・・・。
おそばとかも・・・。基本それほどお蕎麦に萌えないし。
サンドイッチ・・・。う~~ん、もうちょっと水分欲しい感じ。云々。
などと考えていたらお弁当になってしまった。
お腹をふくらませると危険ですよね。ああいうのって。
ソレはわかっていたんですが、一時間もあるから大丈夫かな、そもそも狂言の方が先にやるだろうし、と思って。
その二・
私の席は上手寄りだったんですが、ちょうど演者が正面に来てしゃがんだりしてとどまる部分が斜め前のおにいさんというかおじさんというか(多分年齢的にはおじさんであろうけどおそらくアタシよりは年下)のデカアタマがかぶっていて全く見えなくなってしまって居たこと。
ただでさえ動かないのがお能。
「まだ動かない、まだ動かない」とジリジリしていると気配もなくいつの間にか立っていたり向きが変わっていたりするのがお能。
その緊張感が全く味わえなくなってしまうとこうも集中できなくなるモノかと思ったダスよ。
まあ、そんなわけで。
でも、本当はそれだけではなく。
私は観能は好きだけど、所詮素人で演者の力とかは全くわからないけど。
だから単に好みの問題に過ぎないのですが。
そういう意味で、私にとって今日の阿漕はちょっと淡泊だったナー。
私の期待していた、観たかった阿漕はもっと重暗くて苦悩して居る感じ、業に苦しむ人間の悲しい浅ましさが迫ってくる感じを受け取りたかったんですよ。
そういう感じではなかった。
すごい淡泊だったわー。
勿論、同じ曲でも演者によって色合いとか景色とかの表現テーマが全然違うので、今日のは多分私の求めていたモノとは違う表現だったというだけなのでしょうけども。
そもそも何故に私がこれほど「阿漕」を観たがっているかというと、それはずいぶん前に、まだそんなに沢山能自体を観た事がなかった頃、番組中盤の仕舞で観たの。
そのときの仕舞にガツンとやられたのね。
仕舞は面も装束も着けずただの紋付き袴で扇のみ、しかも囃子もないのに。スゴイ説得力だった。
そのときの演者がすごかったのか、真っ暗な夜の海の水底で揺れる亡者の魂魄やら、重い水底のうねりみたいなモノが伝わってきたような気がして、そのときにいつかこの曲を全部観たい!と思ったのよね。
最初にその仕舞で観たときにはどういうお話かもよく知らなかったんだけど、後で調べてみたら「阿漕」は実にテーマ自体も好きだった。
「コレは悪である、イケナイ想いなのだ」とわかっていても、その衝動や情念が起こる事を自分自身の力では止められない・・・止められない自分を責めるけれど、どうしてもわき上がるモノ・・・そういう「業」を人間は持っていて、それに苦しむものなんだと、そういう原罪観のあるお話で。
で、「阿漕」をフルコーラス観るのはコレで二度目。
以前に観たのは喜多流だったんだけど、どうもそのときも私の理想とは違っていて。
一番最初に観ちゃった仕舞が与えてくれた衝撃と同等のモノを求めてしまうからなんだと思うけど。
でも、これからも機会があったら理想の「阿漕」を求めて足を運んでみようと思いました。
久しぶりにお能観たら、ブリが付いてもっと観たくなっちゃった。
また少し余裕と機会が出来たら行くようにしたいな~と思います。
私の中の究極のお能は「弱法師」なんで、「弱法師」はもう何度も観ているのですが、演者が違うと本当に見える景色が違うの。
一番最初に観たときには本当に満開の梅が、匂い立つあたり一面の花曇りの夜陰と、舞い散る花びらが見えたような感じで、梅の匂いさえもしているような気がして「うわぁーーー」と思ったのよね。
別の人のを観たときには花よりも月光が印象的でしたなー。
シンとした厳しい静けさの中の動きも音も無い張り詰めた景色の中で我が身の哀しさにうちふるえてもの狂う儚げな俊徳丸を照らす月光のヒンヤリ感が伝わって来て、そして俊徳はそのとき梅の匂いと月光の冷たさは肌に感じているけど、梅の花の姿や月光そのものは見えていないんだなというのが胸に迫る感じでした。
同じ「弱法師」という曲でも演者によって全然ちがうんだーっと感動したものでした。
あ、そうそう、夕べの阿漕は体の小さい少しやせ気味の人だったので、それはグーでした。
痩せ男の面からふくよかな顔の輪郭が思いっきりはみ出しているような、そんな阿漕はイヤ。
さて、本日は来客。
本当に久しぶりです。
念願の「阿漕」でした。
でも、あれほどに念願だったのに、途中少々睡魔に襲われました。
敗因はふたつ。
その一・
開場は一時間前で、開場時間よりやや早めに着いたのですが、気がつけば腹ぺこ。
会場内に設置されている食堂でいきなり松花堂弁当を食ってしまいました。
だってさー、カレーとかはちょっと・・・。
これからお能(しかも「阿漕」よ)観ようって時にカレーはちょっと・・・。
おそばとかも・・・。基本それほどお蕎麦に萌えないし。
サンドイッチ・・・。う~~ん、もうちょっと水分欲しい感じ。云々。
などと考えていたらお弁当になってしまった。
お腹をふくらませると危険ですよね。ああいうのって。
ソレはわかっていたんですが、一時間もあるから大丈夫かな、そもそも狂言の方が先にやるだろうし、と思って。
その二・
私の席は上手寄りだったんですが、ちょうど演者が正面に来てしゃがんだりしてとどまる部分が斜め前のおにいさんというかおじさんというか(多分年齢的にはおじさんであろうけどおそらくアタシよりは年下)のデカアタマがかぶっていて全く見えなくなってしまって居たこと。
ただでさえ動かないのがお能。
「まだ動かない、まだ動かない」とジリジリしていると気配もなくいつの間にか立っていたり向きが変わっていたりするのがお能。
その緊張感が全く味わえなくなってしまうとこうも集中できなくなるモノかと思ったダスよ。
まあ、そんなわけで。
でも、本当はそれだけではなく。
私は観能は好きだけど、所詮素人で演者の力とかは全くわからないけど。
だから単に好みの問題に過ぎないのですが。
そういう意味で、私にとって今日の阿漕はちょっと淡泊だったナー。
私の期待していた、観たかった阿漕はもっと重暗くて苦悩して居る感じ、業に苦しむ人間の悲しい浅ましさが迫ってくる感じを受け取りたかったんですよ。
そういう感じではなかった。
すごい淡泊だったわー。
勿論、同じ曲でも演者によって色合いとか景色とかの表現テーマが全然違うので、今日のは多分私の求めていたモノとは違う表現だったというだけなのでしょうけども。
そもそも何故に私がこれほど「阿漕」を観たがっているかというと、それはずいぶん前に、まだそんなに沢山能自体を観た事がなかった頃、番組中盤の仕舞で観たの。
そのときの仕舞にガツンとやられたのね。
仕舞は面も装束も着けずただの紋付き袴で扇のみ、しかも囃子もないのに。スゴイ説得力だった。
そのときの演者がすごかったのか、真っ暗な夜の海の水底で揺れる亡者の魂魄やら、重い水底のうねりみたいなモノが伝わってきたような気がして、そのときにいつかこの曲を全部観たい!と思ったのよね。
最初にその仕舞で観たときにはどういうお話かもよく知らなかったんだけど、後で調べてみたら「阿漕」は実にテーマ自体も好きだった。
「コレは悪である、イケナイ想いなのだ」とわかっていても、その衝動や情念が起こる事を自分自身の力では止められない・・・止められない自分を責めるけれど、どうしてもわき上がるモノ・・・そういう「業」を人間は持っていて、それに苦しむものなんだと、そういう原罪観のあるお話で。
で、「阿漕」をフルコーラス観るのはコレで二度目。
以前に観たのは喜多流だったんだけど、どうもそのときも私の理想とは違っていて。
一番最初に観ちゃった仕舞が与えてくれた衝撃と同等のモノを求めてしまうからなんだと思うけど。
でも、これからも機会があったら理想の「阿漕」を求めて足を運んでみようと思いました。
久しぶりにお能観たら、ブリが付いてもっと観たくなっちゃった。
また少し余裕と機会が出来たら行くようにしたいな~と思います。
私の中の究極のお能は「弱法師」なんで、「弱法師」はもう何度も観ているのですが、演者が違うと本当に見える景色が違うの。
一番最初に観たときには本当に満開の梅が、匂い立つあたり一面の花曇りの夜陰と、舞い散る花びらが見えたような感じで、梅の匂いさえもしているような気がして「うわぁーーー」と思ったのよね。
別の人のを観たときには花よりも月光が印象的でしたなー。
シンとした厳しい静けさの中の動きも音も無い張り詰めた景色の中で我が身の哀しさにうちふるえてもの狂う儚げな俊徳丸を照らす月光のヒンヤリ感が伝わって来て、そして俊徳はそのとき梅の匂いと月光の冷たさは肌に感じているけど、梅の花の姿や月光そのものは見えていないんだなというのが胸に迫る感じでした。
同じ「弱法師」という曲でも演者によって全然ちがうんだーっと感動したものでした。
あ、そうそう、夕べの阿漕は体の小さい少しやせ気味の人だったので、それはグーでした。
痩せ男の面からふくよかな顔の輪郭が思いっきりはみ出しているような、そんな阿漕はイヤ。
さて、本日は来客。