日本語の「国民」は英語で「National(国籍を持つ人)」と「Nation(国家に対する義務・権利を有する人)」の二つの意味が有るそうです。中国語では「国家」になりますが、英語の「Nation」も「国家」の意味が有るので当然かもしれません。
英語の「Nation」は日本語で「国民」とも「国家」とも訳しますが、中国語の「国民」は「Bingで翻訳」すると日本語での意味では、何故か「国立」になります。 日本人同士でさえ言葉の行き違いが生じるのに、外国人との会話は更に複雑になり誤解も大きくなります。
日本語の「人民」は英語で「People(人々)」、中国語でも「人(人民)」です。
そこで、日本語で言う「国民」の意味(定義)ですが、英語の「Nation」に近く、「国に属し、納税の義務と権利を有する人」とします。「納税の義務」だけだと、ただ取られっぱなしを意味しますが、「納税の権利」があると云う事は「意見を主張できる」事も意味します。
アメリカが、奴隷制などを巡って国を二分して戦ったとされる南北戦争の最中に、「人民の、人民による、人民のための政治」というフレーズで有名な「ゲティスバーグ演説」が行われました。この演説の中に「・・・戦うことにより、自由の精神をはぐくみ、自由の心情にささげられたこの国家が、或いは、このようなあらゆる国家が、長く存続することは可能なのかどうかを試しているわけである。・・・」との一節があります。
南北戦争は「奴隷制の否定」を唱えた北部が勝ったとされていますが、北部にも「奴隷制」を支持する州もあり、当時は「奴隷」には人権も無く決して「国民」と言える存在ではありませんでした。そこで、リンカーンが何故「国民」ではなく「人民」と言ったのかが分かります。「人民」には「国民」と「国民ではない人」が含まれていると云う事です。但し、ここで言う「国民では無い人」は「非国民」ではなく「国民としての権利を持たない人」と云う意味です。
つまり「人民」とは「権利の有無に拘わらず、国に属する人。」と云う意味になります。「中華人民共和国」もその国家体制を見れば「人民」が相応しい言い方だと判ります。
リンカーン演説の「・・・戦うことにより、自由の精神をはぐくみ、・・・」は、自分が信じる「自由の為には戦争も辞さない」、或いは「戦争が自由の精神を育む」と解釈できます。正に、中国共産党の革命時の言い方そのものです。今でも、習近平は戦争の準備をしながら、自由貿易を主張しています。「自分の自由」の為に戦う米中は双子の兄弟のようです。
この反省からか、アメリカの「People(人民)」は、最近になって自らを「Citizen(市民)」と名乗る人が増えたようです。「市民」には「国家に管理されない(されたくない)人」の意味が有るそうですが、これはあくまでも「自称市民」なので本来の「市民」とは関係ありません。その土地に所縁の無い「自称市民」は日本にも増え始めているようです。
日本には「国民」しかいないとは思いますが、若しかしたら本来の「非国民」を意味する「市民」や「人民」がいるかもしれません。
この使い分けをしている人、結構いますね。後者は「日の丸」や「国家」なんて言葉が大嫌いなようです。
この使い分けをしている人を見かけると、「は、はーん」と一人合点しています。
最近、琉球市民や北海道人民が増えているようなので、心配です。