横浜教会ニュース

インマヌエル横浜キリスト教会の様子をお知らせします

すべてのことに愛をこめて

2007年09月25日 | Weblog

 先週、精神保健フォーラムで、渡辺和子先生(ノートルダム清心女学校学長)のお話をうかがうことができました。先生は9歳のとき、2.26事件でお父様を目の前で血の海の中で殺害された、という過去をお持ちです。キリスト教嫌いだったのに、不思議にやがてシスターとして献身、36才という若さで学長に就任されました。そのおだやかな笑顔からは考えられないのですが、50代のころうつ病に二年間苦しみ、「シスターですが自殺年慮もありましたし、『なぜこの病気に』と神様をうらみもしました。」とありのままお話くださいました。
 当日は「愛をこめて生きる」という題のお話でした。公の場ですが、自然に神様の名が出てきていろいろな言葉が心にとまりました。私の編集ですので、ニュアンスが多少違っていたら申し訳ないですが、紹介します。
 
 「私たちの仕事に『雑用』はありません。雑にやるとき、雑用になります。どんな小さなこと、つまらない(と見えること)でもそこに意味を見つけていく。あるいは意味を与えていくときそれは大切なお仕事になります。 たとえば「このお皿洗いが、どなたかの幸福につながりますように」と、「このおそうじで神の恵みを誰かがうけますように」などと祈りをこめてすべてことにあたっていくとき「愛をこめて生きる」ことができる。

 「だれか人様にお会いするとき、その方の存在を「神のお大切な方。」として両手で心から頂くのです。片手でぞんざいに扱うのでなく。

 なにか自分にとってうれしいプレゼントは両手で頂くでしょう?
でも、人生には両手でもらいたくない、むしろ押し返したいと思うようなものが与えられる・・・悲しみ、不幸、つらい仕打ちや言葉・・・もしそれらを私たちが心の中で憎しみのばい菌として培養し、何倍にもして他の方にぶつけるなら、心の大気汚染、環境破壊です。でもそのようなものもあえて両手でいただき、心の中で愛に変えていただき、出すときは神へのささげものとする・・・そんな生き方があるのです。
そんなとき、私たちは環境の奴隷ではなく、環境の主人となることができるのです。そのためにも私自身が「神のお大切な方」であると、自分の存在をも両手で頂くのです。イエス様は十字架で私のために死んでくださったほど私を大切だ、と言ってくださっているのです。

 上記のようなはっとさせられるお話でした。自分にあてはめて実行しようと思えば「うーん、かなり難しいかな」とも思えてしまうのですが、でもまずは、目の前の仕事、そして人を両手で大切にいただく、という心を神さまに導いていただきたいと思います。

「人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。」
                           (エペソ6章6,7節)



 


マミーズの学び

2007年09月18日 | 家庭・こども

マミーズフェロシップその2


ママの学びでは、続けて「子育てのストレスを喜びへ」という本を使っています。『日々の知恵を求める』という章で、

ヤコブ書1章5節の「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人はだれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」という聖書の言葉が引用されていました。

子育て中のママは判断に迷うこと、知恵の必要なことが毎日山のようにあります。そんなママたちは目を神様にむけて、特別な知恵を、どんな小さな悩みのためにも、祈り求めることができる、というお話でした。
 ともすれば自分だけで、悶々としがち、そして小さな頭をパニックにして
子どもにあたってしまうなんて失敗をしがちですが、天のお父様にいつでも
知恵を求めていいということを思いおこさせてもらえました。
ママどうしでの話し合いでは「こうやって学ぶと神様の恵みをいっぱいうけて子どもに対応できるのに、長くはもたないんだよねえ」という本音も聞かれ、支えあうことが必要だと感じました。


 


どこに神はいらっしゃるのだろうか?

2007年09月10日 | Weblog

 アメリカのベストセラー作家に キャサリン・マーシャルという女性がいます。
 その自伝を読みはじめました。
 
 彼女は、大学に行きたくても家が貧しく行けないという時悔しくて泣き崩れます。
彼女のお母さんは、信仰的な楽天家でした。「神様に、この夢を実現させるにはどうしたらいいか、お聞きしましょう」といって、キャサリンと共にひざまづいて祈ります。
やがて不思議なように祈りは聞かれ、費用が与えられたキャサリンは、大学へ入学するのです。
 
 ある人は、彼女に「大学で学びをしているうちに神への信仰を失う学生が多いから気をつけるように」と忠告します。
 しかし彼女は全力で勉強し才能をのばそうとします。キャサリンはこう書いています。「それでは、その中のどこに神はいらっしゃるのだろうか? 驚いたことに、神はその至る所にいらしたのだ」

数学の複雑な法則の中に、科学のなかに、国々の歴史や、その重要人物の中にもまた比較宗教学の中にさえ、神の真理を見つけることができたといいます。
学ぶ前は、自分の知ってる「神は小さすぎた」のです。でもなにを発見してもそこに神がいてくださるので安心して学びを続けることができたのです。
神は偉大な科学者、医師、歴史家よりもずっとずっと優れておられると発見できたのですから。

私にとって聖書の神をキャサリンのようにとらえることができるのは、うらやましいし、本当にいいことだと思います。クリスチャンが世に出て、堂々と私の信じる聖書の神さまはこんなに大いなる方だよ、と安心して言えるのですから。


『主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知り尽くされました。・・・・・このような知識はあまりに不思議でわたしには思いも及びません。これは高くて達することは出来ません。』  詩篇139編1,6