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かつこのテラス

日々の思い、時には物語を綴ります!

福島原発告訴団が告訴(福島地方検察庁へ)

2012-06-12 21:56:18 | Weblog
「どうして、これほどの事故を起こしながら、検察による取り調べがないのでしょうか?疑問と怒りが、胸の奥からわき上がってきます」  (告訴団リーフレットより)

福島原発告訴団1324名が、6月11日13時半、福島地方検察庁へ告訴・告発状を提出した。
団長は、武藤類子さん(ハイロアクション福島原発40周年実行委員会)。記憶にも新しいが、武藤さんは、2011・9・19「さようなら原発 5万人集会」で登壇し、発言を行った。その発言は、ネットやニュースで(「K9MP通信「億鬼夜行」にも全文掲載」)全国に伝えられ、世界の人びとの共感を呼んだ。

「福島原発告訴団」の告訴声明もまた、胸を打つものでここに紹介したい。


「福島原発告訴団」告訴声明
2012年6月11日

今日、私たち1324人の福島県民は、福島地方検察庁に
「福島原発事故の責任を問う」告訴を行ないました。

事故により、日常を奪われ、
人権を踏みにじられた者たちが
力をひとつに合わせ、怒りの声を上げました。

告訴へと一歩踏み出すことはとても勇気のいることでした。
人を罪に問うことは、
私たち自身の生き方を問うことでもありました。
しかし、この意味は深いと思うのです。

・この国に生きるひとりひとりが大切にされず、
だれかの犠牲を強いる社会を問うこと

・事故により分断され、引き裂かれた私たちが 再びつながり、そして輪をひろげること
・傷つき、絶望の中にある被害者が 力と尊厳を取り戻すこと

それが、子どもたち、若い人々への責任を果たすことだと思うのです。

声を出せない人々や生き物たちと共に在りながら、世界を変えるのは私たちひとりひとり。

決してバラバラにされず、
つながりあうことを力とし、
怯むことなくこの事故の責任を問い続けていきます。


詳しくは、福島原発告訴団のウェブサイト
 http://kokuso-fukusimagenpatu.blogspot.jp/

3月16日いわき市と4月12日南相馬市で行われた河合弘之弁護士の提起については、
ウエブマガジン 福島 フクシマ HUKUSHIMAに詳しい。
http://fukushima20110311.blog.fc2.com/blog-entry-57.html


バディタイムTAKAMさんへ

2012-06-04 16:50:45 | Weblog
先日の  ~母「片隅でひっそりと…」の記事に、バディタイムのTAKAMさんご本人からコメントをいただきました。
当該記事のコメント欄からでも開けますが、あらためてここに紹介します。
ブログを通したこんな交流も嬉しいものです。


★コメント紹介

ありがとうございます (TAKAM)
2012-05-26 02:53:20
ぼくらの曲でこんなふうな記事を書いていただき、ありがとうございます。
バディタイムの名前で検索していて偶然このブログをみつけました。
すぐにおあいしてハグしたいところですが、そうもいかずにウズウズしています。
それだけで解決することなのですが、言葉だけでは表せない嬉しさに包まれています。
今後ともがんばります。
ほんとうにありがとうございます!
バディタイム TAKAM


こちらこそ (かつこ)
2012-05-28 11:13:46
アクセス、コメント、ありがとうございます。
わたしもとっても嬉しいです。
いつかどこかでお会いすることもあると思います。
そのときはきっと声をかけますね。
楽しみに…
これからも素敵な曲を…

★バディタイムのホームページは、http://buddy-time.tumblr.com/

追記
バディタイム「それは oitoite」、この曲を聴くと、これからも母のことを、小さかったころの子どもたちのことを、そして私の子ども時代、見わたす限りの蓮華畑で心ゆくまで遊びほうけたその頃のことも思い起こすことと思います。
そしてこれからも、なにかの折りにふっとこの曲が、甦るのではないかとも思います。
ほんとうに大切なものが、踏みにじられたりしないで、大事にされるように…

介護日記~専門家に風穴をあけてもらった

2012-05-31 20:31:24 | Weblog
骨折から一月半が経つ。

今、母はトイレへはゆっくりだが歩いて行けるようになった。昼間はトイレ、夜はポータブルと使い分けている。
週1度の往診、週2度のリハビリ治療は、引き続き。加えて週1度の訪問入浴は、5月いっぱいで終了し、6月から、まずは病院併設の事業所に、週1日だけ終日、入浴と理学療法士によるリハビリをかねて通うことになった。
長年の独り暮らしの間に、生来の控えめさに輪をかけて、人嫌いになってしまった母が、果たして大丈夫かは、やってみないとわからない。
私はと言えば、子どもを保育所へ預ける母親の気持ちに少し似ているかもしれない。
心配だけれど、家族以外の関わりを通して、少しでも元気になって、豊かな時を過ごしてもらえればと願っている。

医院、治療院、介護事業所、訪問入浴業者、介護用品販売会社、そしてリハビリステーション、それら専門家の相互に連携をとりあった、的確ですばやい対応に、この間、随分助けられた。
治療院からの訪問リハビリは、母は意欲的・意思的に真面目に取り組んで、終了すれば玄関先で三つ指ついて見送りをする。
「ありがとうございました。お世話になりました」
それ以外の訪問は、緊張感が漂い、むしろ迷惑そうだ。

骨折をきっかけに、日々の暮らしはずいぶん変化した。
認知症の人の介護を家族だけで担うことの荷の重さに、専門家が入ることで、少しだけ風穴が空けられたようだ。
5月、私の手帳は「母のスケジュール」で埋められ、毎日が「母の日」だった。

ふっと思ったのは、この連携の良さ、かつて職場でも経験したな、ということ。日常的に、スケジュール・品質管理を行い、取引先と連携を取る部署で、責任者として10年ことにあたった。特に緊急、トラブル対応は、各部門の専門家と相談して対策を決定していった。退職した今、こうした緊急時に「いつ、どこへ、だれと何を相談すればよいか」を判断していくとき、多分にこのときの経験が生かされているな、ということだ。
そして、その道の専門家が知恵を出してくれたとき、力を発揮してくれたときのキャッチボールの手応えが嬉しくもあり、真剣にことにあたる姿勢に、私はいつも胸を打たれるのだ。

介護日記~溜息の果てに

2012-05-29 16:35:56 | Weblog
頑張って用を足したあと、痛みに耐え、倒れ込むようにベッドに横たわったのだろう。
夜中に覗くたびに、母は、こぼれ落ちそうなほど端っこに丸まって眠っていた。「もう少し中へ入って! 落ちたら大変!」力を貸して、ベッドの中程へ移動して貰った。

医院でもうひとつ、びっくりしたのは、母の腹部に真っ赤な爛れ(ただれ)ができていて、開くと同時に悪臭を放ったことだった。爛れはおへその周辺、手のひら大ほどもあった。腰が曲がった人によくあるようだ。
入浴をたいそう億劫がって、入って貰うまでがなかなかだった。
「この年になってみないとわからんだろうね」
そして、拒絶、溜息。
「しんどいから…」とふとんに潜られれば、無理強いもできず引き下がり、冬の間は10日に1度くらいしか入浴できていない。入浴中は、手を貸すことも断られ、時折「大丈夫か」と、そっと声をかけて覗くだけであった。母に風呂に入って貰うことへのストレスは、こちらも多大で、居宅事業所に相談しようかと思いつつ、母の嘆く様子が目に浮かんで、ずるずるとその日まで来ていた。

爛れ自体は、2週間ほどでほぼ治癒したが、それ以降、私はあの爛れを思い起こすことで、母に泣かれても、溜息をつかれても、恨めしげに見上げられても、迷いを吹っ切って、入浴を外部に頼むことができた。まずは週一度ではあるけれど…。

さらに、痛みで身動きがとれないおよそ一ヶ月間は、毎日の湿布薬交換、爛れの手当、着替えと身体清拭について、母は、拒否することなく私に身体を預けてくれた。

ややもすると、母は「はよ(早く)往きたいわ」と繰り返し呟いた。
私は「はよ…」で遮って、違う言葉をかけ続けた。
「はよう元気になってまた散歩したいね」
「また歩けるようになりたいね」
母から立ちこめる灰色の煙を払わないと、こちらも取り込まれてしまいそうだったからでもある。

「すまんねぇ。こんなにあんたの世話になるとは思わなんだ」
「最後は、だれかの世話にならんと往かしてもらえんのやねぇ」
母は、ときおり、こうも呟いた。


介護日記 ~ 母、生まれて初めて骨折をする

2012-05-20 21:56:17 | Weblog
実は「骨折は生まれて初めて」ではない。
母は、来し方、どうやら2回ほど骨折をしていたようだ。どうやら、というのは、母の口から聞いたときには、すでに治っていた、過去の話として、聞いたのだった。母は、だれにも言わず、痛みに耐えながら、日常生活を営んでいた。八〇代の頃、一度は、踏み台から落ちて肋骨を、二度目は車にあてられて脛を。2回とも、医者へは行かずに、動物のようにそっと暮らすことで治癒している。そっとそっと、買い物、食事づくり、洗濯もやり、だれにも痛いとも言わず、SOSも出さずに乗り切ってしまった。治って始めて「実はね…」と人に語ったのだ。


「おかしいね。どうしたんやろう。歩けんのよ」
その日の朝、母はベッドから立ち上がることはできても、一歩が踏み出せなかった。居宅介護事業所のケアマネさんに状況相談をし、ポータブルトイレの予約をする一方、かかりつけ医院に送迎車での受診を頼んだ。

体格のよい運転手さんが、母を玄関からひょいと抱きかかえて車に乗せてくれた。
寡黙な人で、いつもは医院でも目を合わせることもなく通り過ぎていく。こんな風に力持ちで親切な人だったことをこの日はじめて知った。(後日、道で会って「先日は母がお世話になりました」と言うと、軽く笑って会釈を返してくれた。こんな雰囲気、誰かに似ていると思ったら、そうだ、ジブリ作品の「魔女の宅急便」に登場するパン屋の亭主だった)

レントゲンの結果は、肋骨と腰骨折だった。「一カ所は、寝返り打っても折れる場合もありますが、もう一カ所は、圧迫骨折だけでは折れないようなところですね。ころぶか何かされましたか?」母は何も覚えていない。
「手術する必要はないので、自宅療養で大丈夫ですが、今日明日とテスト期間として様子みましょう。月曜に状況に応じて判断しましょうか」と言われて車椅子で帰って来た。


夕刻ポータブルトイレが届くまでの10時間あまり、30分おきに這ってトイレに通う母に付き添った。母は這うことはできても、そこから先が身動きとれなかった。向きを変えて、立ち上がり、便座にすわる、これには以外と下半身の力が必要なのだった。
こんな勢いで夜中もトイレに通い詰めれば、間違いなく私のほうがへとへとになるだろう。まして、母自身、できるだけの安静を申し渡されていた。「自力で排泄ができるかどうかが、自宅療養でいけるかどうかの鍵だ」と私自身は、思っていた。

ポータブルをベッド脇に置いても、母は夜半まで使おうとしなかった。「こんなものをもう使わないといけないなんて…」と抵抗を示したのだ。「自力でトイレができることを確かめないことには、私は安心して眠れないよ」という言葉に、しぶしぶ使う気になってくれ、ベッドから便器への移動に成功したときには、ひとまず安堵した。私は、敢えて手を出さずに見守った。そして、二度目の成功を見届けて、2階へ引き上げたのだった。

介護日誌~母の嘆き

2012-05-18 21:43:20 | Weblog
同居当初、介護保険制度で要介護1の認定を受けた。

その後、階段とお風呂の手摺りを保険で費用申請しただけで、あとは、この制度は何の活用もしてこなかった。母たちの時代は、福祉を権利としてではなく、「かわいそうな困った人へのお情け」と考える人が多いのだろうか。ご多分に漏れず、母も、居宅介護事業所のケアマネージャーが、はじめて我が家を訪れたあと、「ああ哀れやねぇ。こんなもんのお世話になるなんて」と呟いた。この時「聞き捨てならじ」とばかりに、私は抵抗した。「だれでも、いつでも元気ってわけでもなくて、何が起こるかわからなくて、そのための制度なのに。哀れなんて思ってたら、いろんな制度を利用してるはみんな哀れなん?! そんな考え変! 哀れでなんかちっともない!」

母に向かってこんな言い方が正しかったのかは、わからない。「福祉は、お情けではないよ。権利だよ。もっと充実させるべきものだよ。そしてだれでもが当たり前に、活用すべきものだよ」と言いたかったのだが、この件に関して、私は母がこうした考えに捕らわれてきたその背景、国の福祉施策の貧しさに腹を立てたのだった。

自助努力の美徳を奨励し、福祉予算を切り捨ててきたのは、この国である。母の言葉は、戦前戦後の福祉施策の貧しさを色濃く映し出す。公的サービスを受けることを、かわいそうという括りで哀れみ、情けないとか、恥ずかしいとかで拒否してきた世代。母はそんな時代を、懸命に生きてきた。
でも、制度の受け入れを拒否するということは、介護者を家族に限定し、孤立に追いやり、負担を極度に増すということでもある。そして制度を貧しいままに置くということでもある。
母の嘆きは、私には捨て置けないことだった。その後、ほんのすこしずつでも母の意識は変化してきたのだろうか。

介護日記 ~ 同居2年

2012-05-17 22:59:41 | Weblog
母と同居して、2年になる。
91歳にして2度の手術、入院を通して認知症に罹患、同居にいたるまでが第一段階、同居から今までが第二段階、そして、骨折を契機にもう一段階、階段を転がり落ちるほどの早さで心身の落ち込む時期があった。そのたびに少しずつの快復を見せ、母の強靱な体と魂を見る思いがした。戦中戦後を幼子、乳飲み子をかかえて生き、ここまで来た人は、その強さは半端ではない。辿る道程は人によって違うだろうが、この2年は、母を通して「老いるとは、どういうことか」を見せられる日々でもあった。

また、認知症に罹患した人が、落ち着いて安心して暮らすには? 身近な人は? これでよかったのか? という疑問がいつも向こうからやってきて、消え去らない。迷いがつきまとう日々でもあった。

こうして、落ち着いた生活を営んでいてさえ、母の心が穏やかとはいえなかった様子を見るに付け、震災・原発事故の被災者の方々はいかばかりであったろうと思う。

大飯原発再稼働容認を決めた おおい町に抗議!

2012-05-14 14:16:28 | Weblog
福島事故のような事態を引き起こしておきながらの原発の再稼働は、あり得ない。

元スイス大使 村田光平氏の公述(3.22参院予算委員会公聴会)をかみしめて欲しい。

「人間社会が受容できない、この原発のもたらしうる惨禍のリスク、これはゼロにしなければならない、と私は福島事故は全世界に想起させつつあると信じております。

そして、このような事故を体験しながら、なお脱原発に躊躇するというのは「倫理の欠如」という誹りを免れないと、私は考えております。
特に、この処理方法がいまだに発見されていない核廃棄物、これに象徴されるのは、今の世代の「倫理の欠如」と言えると思います。
そして、これは人類が緊急に取り組まなければならない課題だと信じております。

この放射能汚染と、これを許すあらゆる行為は、計り知れない害悪を永久に人類と地球に残すものです。
私が出席した2005年のOBサミットは最終文書で、「未来の世代を含む、すべての人に認められる人権」ということで、未来の世代の人権を認めているわけですが、放射能汚染は、まさにそれを蹂躙するものであります。」

賛成多数で、地元おおい町が、大飯原発再稼働容認を決めたとの報道。
こと放射能について言うならば、地元は、世界全体ではないか。
いったいだれに許されてそのようなことが決定できるのだろう。 
「倫理に欠如、想像力の欠如」としか思われない。

おおい町に抗議したい!




続 バディタイム「それは oitoite」 ~母「片隅でひっそりと…」

2012-05-12 21:55:37 | Weblog
診断の結果、肋骨と腰、2箇所骨折。

2週間の自宅療養を経て、初めての入浴サービスでは、訪れた3人のスタッフを前に、母は嫌がって泣いた。
さらに一週間後の2回目、ため息ばかりつく母に、「どんなところが嫌ですか」と看護師さんが尋ねると「みなさんにお世話をかけるのが…」と。「私は、こうしてお会いしてお話しするのは楽しみですよ」笑顔でそう返す看護師さんにそのとき、母が訴えたのが「そっとしといて欲しい。片隅でひっそり生きたい」だったのだ。返す言葉は、だれも見つからなかった。しばらく沈黙が流れ、意を決した母は、湯船の前まで這って行った。

独り暮らしだった母と同居したのが2年前。大病を患い2回の手術を経て、認知症になったのが2年半ほど前。独り暮らしの限界点で、迷いに迷って、結局我が家に来て貰うことにした。70年間住み慣れた岐阜を離れて、遠く京都まで。

一年目は「ありがとう」「世話になるねぇ」と同じくらいの頻度で、「家に帰る」を繰り返した。来る日も来る日も、何回も何回も…。説得や励ましが、母に「ありがとう」と言う気持ちにさせるのはその場の、その時だけ。仕舞いにこちらが疲れ果て、母の「帰る」の言葉にいつ襲われるかと、身構えるほどになった。

一年が過ぎた春先、つまり昨年の震災のあと、母は体調を崩して、食事と排泄以外は眠ってばかりになった。「家に帰る」は元気の証だったのか、とその時はじめて思った。母の口から「そろそろ帰るわ」の言葉が一月ぶりに出たとき、私は、「やっとその言葉がでた!元気になって良かった」思わず安堵の笑いをもらしたのだった。

母の訴えた「そっと…片隅で…」は、父に死なれてから10年あまりを、独りで何もかもきっちりと暮らした母の強烈なアイデンティティであったに違いない。母の「帰る」は、「あの頃の確かに生きていた私」に『帰る』だったのだと思う。

私が生まれ育った実家、母の70年暮らした家、戦火を逃れて焼け残った木造の古家は、この4月に取り壊されて更地になった。時折実をつける槙の木も、子どもの頃、そこに座ってお弁当を食べた庭石も、今は何もない。

♪その石は おいといて あとで 座るから
その家はおいといて あとで きっと来るから
その母も おいといて  今は 眠りたいから 
その涙 おいといて  頬を つたうから
涙は おいといて  落ちる音が するから   
♪♪ それは それで おいといて
あとで やがて いずれ そのうち

私は、無理矢理母と同居して、骨折した母のために無理矢理、入浴サービスを頼んだ。

「そっと、おいといてあげたかったけど、でも、ほっておけなかったんだよ。そんなときってあるんだよ。」歌を聴きながら切ない気持ちになった。

3回目の訪問入浴の昨日、母は、スタッフに「よろしくお願いします」と頭を下げて、自分から這って湯船のそばまで行った。一団が帰ったあと、「お疲れさま、綺麗になったね。今日はもうだれも来ないからゆっくり休んでね」と声をかけた私に「ありがとう。お世話かけたね」と。


♪その木は おいといて あとで 登るから
その石は おいといて あとで 座るから
その川は おいといて あとで 泳ぐから
その海は おいといて あとで 見つめるから
あの道は おいといて あとで たたずむから
あの心 おいといて あとで なにか 囁く
あの花は おいといて そこで咲きたいから
♪♪ それは それで おいといて
あとで やがて いずれ そのうち

この曲で、もう一つ思い浮かべた情景。それは、もちろん福島だ。想い出も暮らしも根こそぎ奪った原発災害。あらゆる生命も、モノも、大切に、そっとそのまま…からもっとも遠いところにあるのが今度の人災だ。

バディタイム「それは oitoite」 ~母「片隅でひっそりと…」

2012-05-11 21:27:11 | Weblog
5月3日、京都・円山野外音楽堂での憲法集会で、バディタイムが歌った。
バディタイム、メンバーは2人。平和踊り普及会の川井禎子さんお薦めのこの2人は、TAKAM (たかむ・1986年6月23日生)、守沢高(1950年10月1日生)。この年の差もなかなかそこらにはなくて、不思議でいい雰囲気。
何曲か歌ったなかで、「それは oitoite」が心に沁みた。

♪ それは oitoite
   詩・曲 = 唄・演奏  バディ タイム

♪その木は おいといて あとで 登るから
その石は おいといて あとで 座るから
その川は おいといて あとで 泳ぐから
その海は おいといて あとで 見つめるから
あの道は おいといて あとで たたずむから
あの心 おいといて あとで なにか 囁く
あの花は おいといて そこで咲きたいから
♪♪ それは それで おいといて
あとで やがて いずれ そのうち

♪その子は おいといて  あとで 目覚めるから
その母も おいといて  今は 眠りたいから 
その涙 おいといて  頬を つたうから
涙は おいといて  落ちる音が するから   
♪♪ それは それで おいといて
あとで やがて いずれ そのうち

♪♪ 明日は おいといて あとで 今日に なるから

やさしくて、ゆったりとした時の流れ、ひとつひとつの言葉をかみして聞いた。
なんてすごい歌詞だろう。

聞きながら母のことを想った。その前日、母は、入浴サービスで我が家を訪れた看護師さんに「そっとしといて欲しい。片隅でひっそり生きたい」と訴えたのだ。
まもなく94歳になる母、腰はすっかり曲がってしまったが、それでも手押し車で散歩もできた。毎朝だれよりも早く目覚めて郵便受けから新聞をとりこみ、朝食の味噌汁を作ってくれた。それが4月14日の朝、突然歩けなくなった。(つづく)