障害と英語と夢と

16歳で障害者になった40代主婦。
苦しみ続けた日々と人生を変えた独学英語について

リハビリについて(1)

2016-09-08 14:59:42 | 日記
今日は私のこれまでのリハビリについて書きます。

意識が戻り、数日後から病院のリハビリ室に行くようになりました。

16歳で初めてみる光景でした。

そして、みんなが私に注目しました。


若いのにどうしたの!?  かわいそうに・・・。

毎日毎日そういう言葉を浴びせられました。


周りの人たちは半身不随の私を見て、これは長期にわたる後遺症であることが分かっていたのですね。


当時の私は左半身がだらりと垂れ下がり、足に補助装具を付け杖をついていました。
頭の手術で髪は剃られ坊主頭。


リハビリもただ療法士にされるがまま、まるで赤ちゃんを世話されているような状況でした。


逃げ出したい・・・。そう思うようになっていました。

そんな時、父親がこんな話を持ちかけました。

長野県にいいリハビリ温泉病院があるから行ってみないか?

私は行くと即答しました。

ただ逃げ出したかったから。
誰にも私の姿を見られたくなかったから。
誰も私のことを知らない所に行きたかったのです。


長野県に行ってリハビリをすれば完治できる。
完治したらみんなの前に出て行こう。

そんな甘いことを考えながら、遠く離れた長野県の山奥のリハビリ病院に一人で入院することになりました。


結果。


初めて親元を離れ一人での入院生活。
周りは大半がお年寄り。

車椅子に乗せられ、重度にマヒした体などで皆の表情は暗く、
言葉に表せないような惨めさを味わいました。

そうして日に日に現実を理解するようになり、
私は心を閉ざし殻にこもるようになっていました。

2ヶ月くらい経ったころでしょうか、主治医から母に連絡があったようです。

この子をここに置いておいたらダメになります。
連れて帰って下さい、と



そして私は一ミリの回復もすることなく、逆に心に大きな傷を負い自宅に戻りました。


頭を激しく損傷したせいもあり、しばらくの間は知能レベルも低く、
幸い、現状を把握するのに時間がかかっていた訳ですが
この頃から知能レベルががはっきりと回復し始め、精神的に苦しむことになりました。


しばらく家に引きこもるようになりました。
友達との交流も全て断ち切り一人ぼっちでした。

何時何分単位で、テレビの全チャンネルの放送を全て把握しているほど
ただテレビを見ていました。(当時はインターネットもスマホもケーブルテレビもありませんでした。)


たまに出会う人が言いました。

日にちぐすりだよ。頑張れ。

そしてこの頃よく母が言いました。

天はね、その人に乗り越えられない苦難は与えないのよ。

黙っていましたが、私はそういう言葉が腹立たしかったです。
八方塞りの私には何の励ましにもなりませんでした。


2階の部屋の窓から、母が出て行く後ろ姿を追いながら妬ましく思ったり
そんな自分が情けなくて泣けてきたりしたこともありました。

事故後2年位経ち、私が18歳になる頃、さすがにこのままではまずい、と
再度近くのリハビリ病院へ外来で通うようになりました。

ひきこもっていたので、これもかなり勇気の要ることでした。



ここのリハビリでも現状維持にとどまるくらいで、身体機能の回復はさほどありませんでしたが、
ここで出会った理学療法士の方は、私の社会復帰に向けて色々と情報をくれました。

障害者手帳を申請すること、車の免許も片手で取れること、障害者の職業訓練センターのことなど。


ちょうど風の噂で「あの子がどこどこに就職した」とか「運転免許を取った」とかを
耳にするようになり、私も正直焦り出していました。


そして社会復帰したい!!

と思うようになります。


それから、車の免許を取得、通信高校への転入、職業センターでワープロ(古っ
を習ったり、秘書検定やワープロ検定などの資格も取りました。

そして、障害者採用ですが企業に就職することもできました。


こうしてリハビリが社会復帰へと変わって行きました。

以来、リハビリには通っていませんでした。


子育てもひと段落した三年ほど前、さすがにこれからの自分の健康、そして
少しでもよくなりたい、との思いから、約20年ぶりに病院の門を叩くことになります。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿