柳田太郎図書館 図書No.30
跳躍力UP集中トレーニング
著者 五十嵐悠哉
人間というのは、後ろや横に跳ぶようには出来てなくて、前に跳ぶように出来ていることに気付かされた本。
2023.2.11
母親と姉が訪れたので、オラコンプだろうが、私個人的なことは一応書き記す。
姉は先ず分からなかった。
ほとんど見たことねぇからな。
それはいいとして、父親がなくなったらしい。
私は宅急便として朝日病院という精神病院にぶちこまれたが、それは感謝している。
その時点で私は必ずやることしかなかったんで、どの段階でも良かった。
このgooブログさんという存在そのものがなければお話にならないんだが。
それもオラコンプとしての自覚しかないので、それをすっかり忘れてラブリーアンテナだぁとか自作自演で2ヶ月生きてたらそれを思い出した。
それはさておき、私を朝日病院さんがどうこうということではなくて、寧ろそれそのものに不条理があったとしても、月日が経てば表向きは私は精神病というだけだが、それでしか到底ハナからお話にならんことをやろうとしたわけで、それが出来る出来ないではなくて、それがある種の治癒であるという考え方しかない。
小山市土塔か犬塚かのスーパーたいらやさんというスーパーマーケットで、そこへ?の社会見学会の感想文コンクールを出入口に出入りがこえぇのか開いていたことが数年前にあった。
その美文セキブンは、治癒である。
ドリョクショウ皆様と同様、私も全くないわけではなくてあるドリョクショウはあるようなないような、ドリョクショウしたくねぇんだが、ドリョクショウしてっと、そのドリョクショウへドリョクショウしたくねぇことしかねぇことで、それでもドリョクショウしつつも、それをドリョクショウという人間性と社会性がこの世に存在したことがないことを知っている人間性と社会性は実は私はあるんだが、跳躍できないことが大前提でしか跳躍を果たせんということ。
跳躍出来ることが絶対になくなるんだが、それでしか跳躍なんぞ出来るもんじゃなかっぺってな。
私は別にコンドームが1個なくなったからということで、その息子という私を重要視するほど甘くない。それに機転、それに執着する余裕がない?
それをモチマワリでも、それ実はずっとだけどとかでも、それ、リョウヤクだけどとかでも、意外と私はこれまでの特にブログの記載に関してそれが半年間しか出来なかっただとか、10年間出来たとかということの時空間にも拘ってもいなかったが、いまんところこれが?と考えられるだけだが、そのようにアワオドリはしてあるだけだが、実は完全にとてととてとハッキリと書くことが出来ぬ代物だけに文藝そのものに甘さ控え目。
文藝も大変なことなのは理解出来た。人間ドラマだからな。基本が。
文藝乗り越えたんは、シンボリルドルフの最高の息子のおめぇさんとこの枠組み?故郷?のこっちの人が何を頑張ったのか想像したくはないんだが、その跡継いでの人達(文藝が一太刀。)しかたぶん歴史上いなかったし、これからも現れんよ。文藝の可能性そのものの脳ミソが違うにゃぁ。脳ミソがカミソリとかブルドーザーとかコンピューターとかではなくて、一太刀。
一太刀に人間愛と人種愛と人類愛をぶちこみたかったとしか、それが可能性あるのは、一太刀しかないということでと。
文藝が。
一太刀そのものになりそうなほどにはその人達って一太刀という時代でもないか。
チョウヤク。
チョウチンピな私のブログ作業ながらも、ジョシュ・ビリングスの犬の名言が私は好みだし、実はここ数ヵ月なんぞは犬が寝ている写真の表紙の文庫本を枕元に寝ている中年のエライアホ、人類愛ソースの本場弁だとドエリャァアホズラ、関東弁だとスゴ イバカな私。