今までの考察を受け、あらためて『いろは歌』の解釈を書きます。
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いろは歌は、素直に読めば、無常の世を越えて悟りの世界へ誘(いざな)う歌のように読めます。
一点残念なのは、「浅き夢見じ」と、「浅い夢を見ない」と読むことです。
この歌の雰囲気からすると「浅い夢を見た」と読みたいところです。
「夢見し」と読むと「し」は過去の助動詞「き」の連体形になるので、「我が世 誰ぞ」の係助詞「ぞ」の結びとして読むことができます。(間が長く、従属節が入ってしまいますが、そういう文例もあります。)
そう読むと、連体形終わりの「常ならむ」が「誰ぞ」を受けられないので、すぐ次の「有為の奥山」を修飾する形容詞句になります。
[(こちらの方が正確ですね)述語だった「常ならむ」という形容詞句が、主語「誰ぞ」から切り離されて浮いてしまうので、・・・]
すると今度は、「色は匂へど散りぬるを」という逆接の終助詞「を(〜けれど)」で終わる従属節と主節「我が世 誰ぞ 常ならむ」との対応がなくなります。
「散りぬるを」の「を」は目的格の格助詞として「夢見し」で受けます。「花が散るのを 夢見た」という解釈になります。
「常ならむ 有為の奥山」というのはとても皮肉の利いた言葉になります。
「有為」というのは人の作為でできた世界で、「無常」の世界と考えられています。
「人の世は無常だ」、ということが正しく、決まったことであれば、その言葉自体は恒常的なものになるので、一見矛盾しているように思えます。
無常の世界は恒常的だと言っているように見えるからです。
助動詞「む」には仮定の用法があります。
「もし〜したら、その〜」のように訳すそうです。
「常ならむ 有為の奥山 今日越えて」は次のように訳すことができます。
「もし、人の世が無常だ、ということが恒常だとしたら、そんな恒常的な無常の人の世などという込み入った議論は今日でお終(しま)いにして」
まさに戯論(通常、無益な議論と言われているもの)への批判ですね。龍樹が『中論』で言いたかった柱となる議論の一つです。
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「酔(えひ)もせず」は、普通に読めば、「酔ってもいないし、(夢でもない)」と素直に読めます。
ここでは夢を見たことにしたので、「酔ってもいないのに、酔った時のような浅い夢を見た」と、「も」を並列の意味ではなく、英文法で言う譲歩の意味に取ります。
「酔ってもいないのに、酔った時のような(幻のような)浅い夢を見た」
[医学的には、酔うと眠りが浅くなるそうです。]
「空」の観点からすると、全ては幻のようなものですが、幻のように無常だということが重要なのではなく、花は咲き、花は散るという縁起が重要です。
龍樹にとって「空」の理論は、論敵と戦う道具です。一方で、彼の信仰にとって最も重要な議論は、「縁起」だった、と言われています。
龍樹の縁起説では、「空」の理論を踏まえることで、現実を肯定的に捉えることができます。「空」は、「無」ではなく、無限の可能性を秘めた活力に満ちたものです。
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花が咲き、花が散るということの中には、花は咲かず、咲いても散らなかったかもしれないという可能性が秘められています。
それがどのような経緯でその可能性を捨て、散っていったのかを考えることが大切な一歩です。
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何かで苦しんでいる人が、それが幻のようなものだと割り切ったからといって、楽になるのでしょうか。
苦しまない可能性が同じようにあったのに、なぜ苦しまなければならなくなったかの経緯を知り、原因を取り除くことこそ重要なのではないでしょうか。
目の前のできごとから目を背けるのではなく、よりよく見つめ、深く掘り下げることを大切に思うことから始めましょうと言われているような気がします。
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次は、「我が世 誰ぞ (浅き夢見し)」の句です。
独我論という考え方があります。
世界と言っても結局自分から見た世界しか見えないのだから、世界は全て自分の心の中の出来事だ、という考えです。
浅い夢があるということは、深い夢もあるということです。
「空」の見方を深い夢とすれば、深いところから、浅いところ、花が咲き、花が散るという縁起を見ています。
深い悟りの世界があることを知っている人が、現実世界の浅さを知っています。
仏陀様、観音菩薩様はそのように世界を見ているはずです。
けれども独我論で考えたこの世は、私の世界です。[仏陀様も観音菩薩様も私の世界の登場人物です。]
悟りに至っていない私の世界で悟りを開いた人達が世界を見ているということはどういうことでしょう?
全てが私の心の中の出来事だと言える独我論では、それが幻覚なのか、現実なのか区別は付きません。
私という枠組みを超えることができないので、客観的(間主観的)に正しいかどうかは意味がなくなってしまいます。
老荘思想の胡蝶の夢を思わせるこの歌にぴったりの表現に思えます。
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ところが、
いろは歌は、最後に「酔いもせず」として、見たものは、酔って見た幻覚ではないと言っています。
つまりそれは、幻覚かどうかの判断基準があることを示しています。
さらに、それは私を超える世界が広がっていることをも意味します。
また歌の途中で、我と誰(彼)を対比することで、独我論も、無条件に他人の存在を前提とする素朴な実在論も、正しい見方ではないことが表現されています。
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大乗仏教には、唯識という考え方があるそうです。
主観と客観の対立を超える立場だと思われます。
エルンストマッハの要素一元論が思い出される言葉です。
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さて、一通り説明し終えました。
ここでの解釈のいろは歌は、無常か恒常か、独我論か素朴実在論か、という形而上学的な議論(龍樹が戯論と呼んだもの)は、もうお終いにしよう、と訴えています。
大切なのは、
一歩一歩段階を経て
移り変わっていく
現実を、
深い眠りから
覚めつつある時
浅い夢を見るように
少し距離を置いて
見つめることだ
ということです。
(夢が浅いと分かるのは、
深い眠りを知っているからです。)
そして、いろは歌は、
花が咲き、花が散る姿を
ただ虚しいと感じるのではなく
とても美しいと思える
肯定的な世界感を
歌っているのだと思います。
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【いろは歌超訳】
咲いても散りゆく桜の花を
見ているあなたは
誰でしょう
儚い世界に
変わらぬものを
求める旅は
もう終わり
咲いても散りゆく桜の花は、
深い眠りを覚ましつつ
ほのかに見える浅い夢
けれども
[それは]
幻ではありません
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あまりにもこの超訳が
振り切りすぎているので、
少し分かりやすく訳しなおします。
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『いろは匂えど 散りぬるを
我が世 誰ぞ (浅き夢見し)』
【この花が咲き、散るのを、
浅い夢として見たのは
私だけ
(他に誰がいるだろう) 】
『常ならむ 有為の奥山 今日越えて』
【人の世が無常であることが
常に正しいなどと言う、
山奥深く入り込んだような議論(戯論)は
今日で終わりにしよう 】
『浅き夢見し 酔ひもせず』
【(浅い夢があるのは、深い眠りがあるから)
深い眠りから見れば、
浅い夢に過ぎないのかもしれないけれど
美しいこの花が咲き、散る姿は、
決して幻(うそ)ではない 】
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(最後をもう少し元の歌に寄り添うと)
『浅き夢見し 酔いもせず』
【(浅い夢があるのは、深い眠りがあるから)
お酒に酔ってもいないのに
浅い眠りで見た夢の
美しい花が咲き、散るさまは、
酔ってみた幻とは違い
決して嘘ではない 】
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龍樹の中論、空観から見た
いろは歌の解釈でした。
受験文法ですが、
古典文法に沿った解釈なので、
(現代人には無理があるように
見えるかもしれませんが、)
平安時代の人からすれば、
それほど違和感はないと思います。
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夢かもしれないけれど、
幻ではない。
【追伸】
「夢や記憶」と「現実」は、
「うそ」と「ほんとう」のように
対立するものではなく、
同列に並んでいる。
そんな世界観が
横たわっているのかもしれません。
【追伸その2】
龍樹さんの『中論』は、形而上学的な議論=戯論の消滅を最初に掲げています。
そしてほぼ最後に縁起の詳しい話をしています。
それを踏まえると、いろは歌の句の順番は次のようなものになります。
常ならむ 有為の奥山 今日越えて
いろは 匂へど 散りぬるを
我世 誰ぞ 浅き夢見し
酔ひもせず