goo blog サービス終了のお知らせ 

仕事と生活の授業(続き)

前に作ったホームページは、あまり読まれないようなのでブログで再挑戦です。

84.『中筈』とは、何か 万葉集の第3番歌 梓の弓し 中筈の 音を為すなり その2

2025年08月11日 | 和歌 短歌 俳句
 万葉集の第3番歌を見てみましょう。
 歌の前にある解説=詞書(ことばがき)には、舒明天皇が内野という所に狩りに出かけた時に、王子が使いの者に作らせた歌とあります。

安泰(やす)見しし
我が大王(おおきみ)の

朝(あした)には 取り撫でたまふ
夕(ゆうべ)には い寄り立たしし

御執(みと)らしの 梓の弓し
中筈の 音を為すなり

朝狩りに 今立たすらし
夕狩りに 今立たすらし

御執(みと)らしの 梓の弓し
中筈の 音を為すなり

────────────
 多くの人が「梓弓之」「梓能弓之」を「あずさのゆみの」と「之」を「の」と読んでいます。
 同じ歌の中で「八隅知之」「伊縁立之」「今他田渚良之」では「之」を「し」と読んでいます。
 同じ歌の中で違う読み方をしても問題ありませんが、同じ読みでも良いはずです。

「梓の弓の中筈の」と読むと「中筈」という何かが弓の一部と解釈されます。
 ところが、弓には「中筈」に相当するものがありません。

 「之」を「し」と読めば、その「し」は強調の副助詞と解釈できます。「中筈の音を立てている」という文の主語が「梓の弓」になります。
 そうなれば「中筈」は、弓の一部と考えなくていいことになります。

 弓の両端には本筈(もとはず)と末筈(うらはず)という弦を掛けるために溝を切った部分があります。(今は違いますが、昔はV字型の溝でした。)

(愛知県埋蔵文化財センター研究紀要 第9号2008.3『弭形製品・浮袋の口について—東海地域の縄文時代後晩期を中心に—』より)

 矢の後ろの方にも弦を掛けるために溝を切った部分があり、矢筈と言います。



 「筈」とは、溝を切るなどしてV字型になっている物のことです。
 弓自体に本筈と末筈の間にV字型の部分はありません。矢筈は、ちょうど本筈と末筈の真ん中を通って飛んでいくので、矢筈が「中筈」とも考えられます。
 ところがこの歌では、「中筈」の音がすると歌っています。矢筈は、弓の弦を引っ掛ける場所であり、どうやっても音は出ません。
 弓の弦を振るとブンブンと音が出るとして、弦を中筈と考察している方もいますが、遠くにいて聞こえるような音ではありません。また、形も筈とは言えません。

 当時弓を射て起こる音は、弦が鞆(とも)を打つ音です。

 鞆は「弓返り」を防ぐために左手首に巻く中の詰まった革袋です。弦を鞆に当てることで弓返りを防ぎます。その時大きな音がします。
 鞆がなければ、矢を放った後、弦が持ち手の反対側に回ってしまいます。それを元に戻す動作が必要で、次の矢を放つのが遅れてしまいます。

──────────────
 筈押しという相撲の動作があります。親指と残りの四本指の間を広げV字型(L字型)にして相手の脇の下や首を押す動きです。


 この時の手の形と鞆の形はよく似ています。
 形だけでなく、機能としても同じです。凹凸の凹の形と凸の形を合わせて外れないようにします。弓筈と弦、矢筈と弦、筈押しの手の形と脇の下や首といった凹と凸の形が合わされます。同じように鞆の凹形と手首の曲線(凸形)を合わせてしっかりつないでいます。

 以上のように考えれば、中筈とは鞆のことだと分かります。

───────────
以下、鞆について考えていることを書き連ねてみます。

今の和弓の道具に鞆はありません。
古墳時代の武人埴輪は鞆を身に着けていますが、
平安時代に鞆の使用は廃れていきました。

 鞆は弓返りを防ぐたものものだと考えられます。鞆が無くなると文字通り「矢継ぎ早」に矢を放つことが出来なくなります。
 鎌倉時代、元寇を迎え撃つ鎌倉武士が射程距離で勝る和弓で相手将校を射抜いていたようです。今で言う一撃必殺のスナイパー戦を行っていたことになります。

 以前の速射を必要としていた戦術(今ならば機関銃戦)からスナイパー戦に戦術が変化したということなのかもしれません。


 もう一つの可能性として、鞆の役割が弓の共振の防止にあったということが考えられます。
 弓の弦はギターやバイオリンの弦のようなものです。矢を放つがままにすると、弦の振動が続いて弓の本体に伝わり共振を始めます。共振の力はとても大きいので強い振動を制御できなくなります。
 洋弓ではその共振を抑える為の装置(スタビライザー)が色々ついています。

 鞆は矢を放った直後に弦とぶつかることで弦の振動を止め、弓本体に共振が起こらないようにします。
 鞆が要らなくなったということは振動を制御する別の技術が確立したのかもしれません。
 現在の和弓では、持ち手を弓の下から3分の1にすることで、振動が打ち消し合う不動点で弓を持つことができます。このようにして共振の影響を避けています。この技術が確立できたので鞆が要らなくなったのかもしれません。

(画像は宮内庁HP正倉院、イラストAC、Wikipedia、コトバンク、袴美人.com、ミズキクリニック
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

83.枕詞「やすみしし」の研究 万葉集の第3番歌 梓の弓し 中筈の 音を為すなり その1

2025年08月06日 | 和歌 短歌 俳句
 「やすみしし」という枕詞を考えます。「大王(おおきみ)=天皇」に付く枕詞です。
 漢字では「八隈知之」と書かれることが多いのですが、やまとことばの音に漢字の音読み訓読みを合わせたものです。音だけでなく、なるべく意味の近い漢字を選んでいるはずです。

 「八隈知之」の意味は、世の中を隈無く統治することです。
 その意味でよく使われるやまとことばは、「天の下知らしめす」になります。
 「知らしめす」は「知る」+尊敬の助動詞「す」の連用形+見るの尊敬語「めす」です。
日本では知って、見ることが統治することになります。

 歴代天皇は高い所に立って国見をします。その国見をして国を知ることが統治することそのものになります。
 安泰、安康な国の様子を見ることが、最高の統治になるのです。「やすみ」を漢字で書けば「安見」「泰見」「康見」となります。

 「やすみ」と聞くと「休み」という文字が浮かびます。「やす(易・安)」も「休み」も障害がなくリラックスした状態を示す同根の言葉です。あくせくせず悠然としている大王を形容する言葉として「休み」ととっても間違いではありません。


 「しし」のはじめの「し」は、過去・回想・伝聞の助動詞「き」の連体形「し」です。「き」の活用は「せ き し しか」ですね。
 国語学者の大野晋さんによると、受験英語で過去の助動詞と呼ばれる「き」は回想の助動詞で、心にある確かなことを思い起こす際に使われる助動詞です。
 自分に起こったことではなく、伝聞で聞いたことであっても、心に強く確信できていることであれば使われるので伝聞の助動詞とも言います。

 歴代天皇が素晴らしい統治をしていたことは疑いないので、「天の下知らしめす」に「き」が付いて、次のように使われます。昔の天皇にも今の天皇にも使われます。昔の天皇の場合が伝聞で今の天皇が回想です。

 万葉集4360 天皇の遠き御世にも押し照る難波の国に天の下知らしめし「き」と今の世に絶えず言ひつつ

 万葉集167 わご大君皇子の命の天の下知らしめし「せ」ば春花の貴くあらむと

 「安見」と「天の下知らしめす」が同じ意味と考えれば、はじめの「し」が助動詞「き」の連体形であることが分かります。

 「しし」の後ろの「し」は副詞で、学校文法では強調と言われます。「こそ」のように強く主張するというものではなく、不確実なことを敢えて指摘するようなニュアンスです。なので、婉曲表現や自発表現の際にも使われます。
 歴代天皇の素晴らしい統治が天然・自然に適(かな)ったものとして自発表現として使われているのかもしれません。そうなると当然という意味合いになりそうです。

 「やすみしし」は「安見しし」です。
 偉大な大王(おおきみ)の下では「安泰な統治が当然確信できる」という意味になります。「当然」が副詞の「し」で、「確信」が回想または伝聞の助動詞「き」の連体形の「し」になります。
 「大王(おおきみ)=天皇」の枕詞としてふさわしい言葉です。

おしまいです。
画像は、ウィキペディアとイラストACからです。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

82.うまし国ぞ 秋津洲 やまとの国は 万葉集二番歌

2025年08月04日 | 和歌 短歌 俳句
 万葉集2番歌は、34代舒明天皇の歌です。
 日本が食べるものに恵まれた豊穣の国だと歌っています。
 カモメが煙のように群れ飛ぶ姿から、その下にいる魚の群れとそれを追うクジラまで連想させる雄大さがあります。

────────────

やまとには
群(むら)山あれど
取り選(よ)ろう

天の香具山
騰(のぼ)り立ち
国見をすれば

国原(くにはら)は
煙立ち立つ

海原(うなはら)は
カモメ立ち立つ

うまし国ぞ
秋津洲
やまとの国は

────────────



 カモメの大群が煙の立ち上がるように群がる空の下には、何億匹ものイワシが塊になって泳いでいます。サーディンランと呼ばれるその魚群を狙っているのは、カモメだけでなく、サメやイルカ、そしてザトウクジラです。
 縄文以来のクジラ漁は鯨(いさな)取りと言われ、万葉集にも数多く歌われています。


 この歌の雄大さの本は魚の大群や巨大なクジラを思い起こさせるカモメの群と煙との対比にあります
 奈良盆地からはこのような豊穣の海を見ることはできません。
 この歌の舞台は富士山だという方がいらっしゃいますが、このような豊かな海のイメージは富士山から見ることができる駿河湾にこそ相応しいものです。



 近くの伊豆大島で何億匹ものイワシが集まるサーディンランが観測されています。駿河湾でも同じことが起こっていても不思議はありません。
「「なんだこりゃ‼東京の海 イワシ大集結」制作ウラ話 - ダーウィンが来た!

「「なんだこりゃ‼東京の海 イワシ大集結」制作ウラ話 - ダーウィンが来た!

「ダーウィンが来た!」制作スタッフによるブログです。ディレクターをはじめとした各回の担当者が直接、制作こぼれ話や撮影方法などを紹介していきます!

ダーウィンが来た! - NHK

 そして今でも駿河湾にはミンククジラやザトウクジラが現れます。

─────────────────

「国原(くにはら)は 煙立ち立つ」
というのはどういう光景でしょう。
 縄文時代から山地の日本人は、山焼きや野焼きを通じて循環型の農林業を1万年に渡って営んでいました。その痕跡が地層に残る黒ボク土という形で残されています。

 すぐに食用となる栗やくるみの木、アク抜きが必要などんぐりの採れるクヌギ、シイの木や栃の木を植え、建築材料の大きさになると伐採します。伐採した跡に残る下草を野焼き、山焼きすることで、穀類の栽培に適した有効なリンや塩基類を含む土壌が得られます。その土壌で蕎麦や麦、稗や粟を栽培します。




 数年間栽培を続けると土壌の養分は失われるため、また栗などの樹木の苗木を植えます。縄文時代から近世に至るまで、山沿いの人々は、山焼き、野焼きによる数十年サイクルの循環型農林業を営んでいました。国原に昇る煙は豊かな山の幸を象徴しています。

 富士山周辺は循環型農林業の歴史を示す黒ボク土が見られる地域の一つです。

 富士山のお姉さんと呼ばれる伊豆の大室山ではいまでも山焼きによる茅の栽培が行われています。





─────────────

 「やまと」は奈良県の大和地方だけを指す言葉ではありません。日本全体を指す言葉でもあります。そもそも「やまと(山門、山戸)」という言葉は、山に囲まれた細長く四角い平野(つまり盆地)を指す一般名詞で、奈良盆地に限らず日本全国にある地名です。
(地形図を見ると奈良盆地が山に囲まれた細長い長方形の平地であることがよく分かります。)

 縄文時代の前半に起きた縄文海進によって海沿いの平野が消滅し、一部の台地を除き、海沿いには人が住めなくなります。
(海沿いの土地に果敢に住もうとしてきた人々のお話は別の機会に…、)




 多くの人が集まって住める平らな土地は山に囲まれた盆地である「やまと(山門、山戸)」に限られてしまいました。多くの日本人が「やまと(山門、山戸)」に住む人々だったことが、やまとを日本全体を表す呼称として使う理由です。

 ウィキペディアの「盆地」の項に100に近い数の日本の盆地の名があります。
 国土地理院の陰影起伏図を見てもたくさんの盆地が確認できます。




 特に富士山の西側から甲府盆地、松本盆地等を経て新潟県の糸魚川市を結ぶ糸魚川静岡構造線は、大「やまと」の名にふさわしい地形です。
(この「おおやまとは、石器時代、縄文時代の黒曜石と翡翠加工の世界的な先進地域でした。)

 日本全体にはたくさんの山(群山)がありますが、選(よ)りすぐりの山が天の香具山だと歌っています。
 現在の奈良にある香久山が日本有数の山だとは誰も言わないと思います。

 日本中のたくさんの山の中から選りすぐられた山と言えば、やはり富士山です。

 かぐや姫の物語でも富士山が登場します。富士山周辺の伝承では、かぐや姫は月に帰ったのではなく、富士山に帰ったと言われています。
 天の香具山からかぐや姫に縁のある富士山を連想する人がいてもおかしくありません。

─────────────
 この歌は舒明天皇が国見をするために天の香具山に登った時の歌です。登るという漢字に沸騰の「騰」の字を使っています。これは天皇が登ったということと共に山自体が天に向かって成長していく活火山だということを暗示しています。

 富士山が成長したきたという伝承が残されています。地質学上の歴史でも低い山から騰り立ち上がった日本一高い山です。

(16)下田富士/本郷富士[一岩山]|静岡県公式ホームページ

静岡県公式ホームページ

静岡県公式ホームページ

──────────────
 秋津島であるやまとの国はとても美味しい海の幸、山の幸に恵まれていると歌ってこの歌は締められています。
 秋津はトンボ(蜻蛉)のことです。
 トンボが羽を広げた姿を正面から見た形と本州の形はよく似ています。航海が得意だった縄文人は頭の中に海図があり、そのことをよく知っていたのだと思います。



──
【超訳】
日本には
たくさんのすばらしい山がある
中でも選りすぐりの山が
天の香具山

その山に登り
国中を見渡せば

野原に見えるのは
野焼きの煙

そこに育まれる
穀物が目に浮かぶ

海原に見えるのは
煙のように群れ飛ぶカモメ

その下の無数の魚の群れと

それを追ういさな(くじら)
が見えるようだ


日本は
山の幸と

海の幸に恵まれた


豊穣の国



 現存する最古の富士山の絵には(見にくいですが、背景に駿河湾が描かれています。北斎の有名な浮世絵もそうですが、富士山と駿河湾は昔からセットだったんだと思います。
(写真は文化財オンラインとイラストACからです。)



 「とりよろふ(取與(与)呂布)」の意味はよく分かっていないようです。
 「選(え)らぶ」という語は、「選(え)り合(あ)ふ」→「えらふ」と変化していきました。
 同じように「選(よ)り合(あ)ふ」→「よらふ」→「よろふ」という変化があったのだと思います(最後の変化は「よ」の母音oに引っ張られたのだと考えられます)。

 「よりどりみどり=選り取り見取り」という言葉があるので、「とりよる」を「取り選る」と考えるのはさして不自然ではないと思います。


(画像は、伊藤市観光課、農研機構、九州観光機構、イラストAC、写真AC、Googleマップ、地理院地図、Wikipedia アマゾンから)

写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

無料写真素材を提供する「写真AC」のフリー写真素材は、個人、商用を問わず無料でお使いいただけます。クレジット表記やリンクは一切不要です。Web、DTP、動画などの写真素...

写真AC

以上です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

81.『イザベラ・バードの日本紀行』における日本人の誠実さについて

2025年06月15日 | 読書感想文
 私は科学者の武田邦彦先生を尊敬していて、
武田先生が発信しているYOUTUBE番組『ひばりクラブ』を毎朝見てから出社しています。
 武田先生がよく引用されるエピソードがあるのですが、その出典が分からなくなったと仰っていました。
ずっと気になっていたので調べてみることにしました。
 武田先生が引用されるエピソードは次のようなものです。

───────────────

 明治時代海外から来られた外国人女性が旅籠(はたご)の女中にチップを渡そうとします。
 すると、その女中は、次のように言います。
 私はやるべきことをやっているだけです。その分のお給料はもらっています。なので、それ以上のものは受け取れません。
 こう言ってチップを断ります。
 このことに著者である外国人女性はとても感心しました。

 この出典の可能性がある著作家として武田先生は、イギリス人のイザベラ・バードとアメリカ人のエリザ・シドモアを挙げられていました。

 どちらも講談社学術文庫で旅行記が出ているので、それを取り寄せて読んでみました。

 武田先生が仰っしゃるのはここかな、という場所があります。その記載箇所を紹介します。

───────────────
講談社学術文庫『イザベラ・バードの日本紀行 上 』307ページ

 「品のない服装をしたある女性は、ふつう客が休憩した場所に置いていく二銭か三銭をどうしても受け取ろうとしませんでした。私がお茶ではなく、水しか飲まなかったというのです。わたしがむりやりお金を渡すと、その女性はお金を伊藤[イザベラ・バードに同行している案内役=ガイド]に返しました。名誉挽回のこのできごとにわたしはとても慰められました。」

───────────────
 この文章の前に旅行者に見せるには恥ずかしいような出来事の記載があったため、このお金を返すエピソードが日本にとって名誉挽回となりました。

 この出来事がどこで起こったか記載がないので、武田先生が仰っしゃるように旅籠(はたご)だったのかもしれません。ただ、お茶を飲む・飲まないの話や、二銭か三銭置いていくという記載があるので、旅人が一時的に休憩するためのお茶屋での出来事だと考える方がしっくりきます。

 ここの記述より前(124ページ)にお茶屋の作法として「一、二時間の休憩とお茶でお盆に三銭か四銭置いていくことを期待されます」という記述がありました。別に料金を払うような記述はないので、利用料の可能性もあります。けれど金額に幅があることから、チップのような感覚だったのかもしれません。
(三銭か四銭というのは春日部あたりの相場で、お金を返される話は新潟あたりの記事です。)

 この話は、適切なサービスを提供していないのに、それに見合う料金を受け取るわけにはいかない、という話です。武田先生のエピソードの趣旨通りの話になります。

 なお、講談社学術文庫訳では、全体を通じて夜泊まる施設に「旅籠(はたご)」という言葉は使っておらず、「宿屋」という言葉を使っています。武田先生は、別の訳または別の著作をお読みになったのかもしれません。

 イザベラ・バードは、サービスの内容とその料金の釣り合いについてとてもこだわっています。武田先生の仰っしゃりたかったことは講談社学術文庫版の『イザベラ・バードの日本紀行』の他の箇所からも十分読み取ることができます。

──────────────
 チップを断る話はこの本の中で2個所見つけることができました。
 上巻130ページに病気になった車夫(人力車の漕手)がチップを断る話です。

「ありがたいことに向こう(病気の車夫)から実直に、自分と同じ条件をきっちり守る代わりの車夫を用意すると言い出してくれて、病気だからとチップを要求しませんでした。」

──────────────
 上巻193ページには女性の馬子がチップ(心づけ)を受け取らない話が出てきます。

 「女馬子は自分の荷物を数えてすべて無事にあるのを確かめると、心づけをもらうのも待たずに馬と引き返していきました。」

──────────────

 車夫の話は、病気でなければチップを受け取ることがあったと想像されるので、当時の日本ではチップを受け取ったり受け取らなかったりしていたことが分かります。

 イザベラ・バードにとってサービスの対価以上の金銭をもらうことを良しとしない日本人がとても好ましく印象に残っているようです。

 イザベラ・バードの文章は出会った人々の心の機微に触れるような表現が多いと思います。
 一方でエリザ・シドモアの方は、旅行記というよりどちらかというと、日本の文物や名所旧跡を西洋に紹介する内容になっています。

 私が見る限りでエリザ・シドモアがチップをもらうもらわないという話を書いている箇所は見つかりませんでした。
──────────────

 イザベラ・バードの文章から当時のイギリスでは日本がとても美化されていたことが分かります。上で示したようにそういった側面があるのは事実ではあるものの、必ずしも言われているほどではないということが書かれています。
 たとえば、宿屋の主人がガイドの伊藤と組んで宿代を過大に請求していることを指摘しています。(後段で外国人対応は手間が掛かるので多く料金を取ることは仕方のないことだ、とフォローはしています。)

 また、当時の日本の農村の不衛生さをしつこく書き連ねています。美化されすぎていた反動で否定的な見方をしているように思えます。

 『イザベラ・バードの日本紀行』の下巻では、美化された誠実で清廉潔白な日本人の姿をむしろアイヌの人々に見いだしている様子が描かれています。イザベラ・バードはアイヌの人々に敬愛の感情を抱いていることがよく分かります。

 日本人にはアイヌのように誠実な人もいれば、ずるい人もいたことが冷静な目で描かれています。

 イザベラ・バードは、日本に対してとても厳しい見方をしているようにみえます。なぜそうなるかというと、美化されすぎた日本人と現実の日本人を比較するからです。他の国と比較すればとても良い国であることは、日本を離れる頃の記述に表れています。
 西洋人と比べれば誠実であるが、理想化された日本人像やアイヌの人々と比べればそうではないということだと思います。

 次の引用は、武田先生がよく仰っしゃることのもう一つについてです。明治日本では渡し船の料金を過剰に請求する、いわゆる「ぼる」ことをしませんでした。イザベラ・バードの紀行に、沖に停泊する大きな船から陸まで人や荷物を橋渡しする小さな船の「サンパン」について、こう書かれています。
──────────────
 「[上巻43ページ]サンパンの料金は決まっているので旅行者は法外な料金を要求されて腹をたてることもなく上陸できます。」
[ここでこう書くということは他の国ではぼられることがよくあることだったことが想像されます。]
──────────────

 イザベラ・バードの記述で「はっと」させられることがありました。彼女のキリスト教的な倫理観からすると日本人には倫理観が欠けているというのです。次の記述は日本の将来に向けた懸念事項をあげたものです。今の日本は、イザベラ・バードのその懸念通りになっているのではないでしょうか。


──────────────
 「[下巻394ページ]倫理の教育が全般に欠けていること(古典漢籍による道徳的な教育は新制度下では使用されなくなり、古典漢籍は漢字を教える教材として、主に使用されている)と、西洋的手法、文化、考え方を準備のできていない人々に無理強いしようといきなり試していることである。
 初等教育が更にきめ細かくまた能率的なものになるまで高等教育にはさまざまな危険がともなう。また現在のように教養人の専門職がないことひとつをとっても、文化を伝えることを目的としながらも日常の生活で実質的に有用な知の各領域で徹底した養成を行うことは明言しない一部の高等教育機関が、手作業を軽蔑する口ばかり達者でうわべだけの半可通の数を増やし、高価な外国の習慣を好んだり理屈を振りまわした空論や非現実的な社会事業計画や未熟な政治理論を携えて新聞に押しかけ、政府の課題をますます難しいものにしかねない危険がいくぶんある。」
──────────────

 もう一つ印象に残ったのは、アイヌの人々が源義経を神様として崇めている事実が記されていることです。
 義経が平泉では死んでおらず、東北地方を縦断して北海道に渡ったという伝説は知っていました。それが本当にアイヌの伝承として残っていることが分かりました。

 最後に、青森県の黒石のねぷた祭りの記録も印象深いものでした。テレビで見るねぷた祭りは、電気が普及してあのような形になったのではないかと思っていました。イザベラ・バードの冷静で的確な記述により、そうではなく、明治の初期においても今と変わらない素晴らしい光のパレードだったことが分かりました。

[おしまい]



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

80.《 五七の雨に 六つ八つ風 》   言い伝えと日本書紀の記述

2025年04月14日 | 日本神話を読み解く
《 五七の雨に 六つ八つ風 》

仕事で知り合った90代の農家の方から教えて頂いた言い伝えです。

地震が起きた時間とその後に起こる複合災害の関係についての教えです。

五七は、今の時刻で8時、20時、4時、16時の前後1時間を指します。

六つ八つは、6時、18時、2時、14時

例えば16時の前後1時間に地震が起これば雨による災害、14時の前後1時間に地震が起こった時は風(台風?)による災害に気をつけよう、ということです。
(散り始めの頃 朝の千鳥ヶ淵)

誰もこの言い伝えを科学的に研究しようとは思わないでしょうから、
本当にそれが起こるのかどうかは考えても仕方がないのかもしれません。

むしろ、地震が起こった時には大雨や台風の複合災害に備えなさい
という戒(いまし)めと考えることが、
言い伝えに対する謙虚な姿勢です。

昨年の能登半島地震は、
2024年1月1日の午後16時10分、
昔の言い方だと
「夕七つ 申(さる)の刻」
に起きています。
言い伝えによると
雨の災害に
気を付けなければいけません。

残念なことに
同じ年の9月に起きた
能登豪雨において
震災で建てられた
仮設住宅が浸水してしまいました。


東日本大震災は、
2011年3月11日の午後14時46分、
「昼八つ、未(ひつじ)の刻」
に起きているので、
風(台風?)に気を付けなければいけませんでした。

この年の台風15号の暴風・大雨により
地震の被災地である宮城県を始め
合計で20名の死者行方不明者がでています。



阪神大震災において
このような関係は
見出すことができませんでした。

「明け六つ、卯(う)の刻」
に起きているので、
風の災害のはずですが、
この年の大きな災害は、
大雨によるものです。

中越地震や熊本地震でも
このような関係を
見つけることはできませんでした。


ネットによると
「四(よ)つ旱(ひでり)⋯、
九(く)は病(やまい)」
というのもあります。

そうなると、すべての時間が
カバーされてしまいます。

この言い伝えが
「複合災害は必ず起こる
と思って気をつけなさい」
という戒(いまし)めだと分ります。

現代的なリスク管理と同じ発想です。

(千葉の平和公園)

この話を思い出したのは
日本書紀の皇極天皇の巻の
次の記述を読んだからです。

冬十月癸未朔庚寅地震而雨
辛卯地震是夜地震而風

(岩波文庫『日本書紀(四)』巻第24皇極天皇元年十月)

「庚寅」までは日付を表しています。
地震の後に雨になった
と書いてあり、
同じ月の「辛卯」の日には
地震の後に風が吹いた
ということです。

昔の時間の表現方法は
一日を12分割して
干支の動物を割り当てていきます。

夜半の午前0時頃を始めとして
2時間ずつ子丑寅⋯と割り当てます。
また、それぞれに9から4までの
六つの数字を割り当て
1日に二周する数字としても表します。

これを「時辰(じしん)」と呼びます。
意味深ですね。

日本書紀の記述で日付を表す
「寅」と「卯」は、
「時辰」の数字では、
「暁七つ」「明け六つ」
を表します。

日付と時間の差はありますが、
「庚寅地震而雨 辛卯地震是夜地震而風」
の記述は、
《 五七の雨に 六つ八つ風 》
に合ってしまいます。


言い伝えと日本書紀の記述の一致は、
何かの根拠があるのか、
ただの偶然か分かりません。

けれども、

「地震の後には
 必ず豪雨や台風
 といった災害が重なる
 と思って備えましょう」

という教えが
日本書紀にも書いてある
と思って読むことは
悪いことではないでしょう。


(夕方 満月の小岩)

(タイトルの画像は、雨の小岩です)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする