ここのところずっと
リチャード・ドーキンスの「盲目の時計職人」に読みはまっている。
とても面白く、示唆に富む良書なのだが
その厚みはなかなか手強く、もう読み始めて1ヶ月になるのだが
まだ読了していない。
やっと今日第9章に差し掛かったのだが
まだあと3つの章、180頁あまりが残っている。
やれやれ、前途多難だ。
まあ、あまり気負わず、少しずつ読み進めているのだが
そんななかで、思わず納得してしまったフレーズがあったので
ここで少し紹介してみたい。
<引用>
人間の心はアナロジー思考にひたりきっている。われわれは、
ひじょうにかけはなれた過程になんとかしてわずかな類似点を
探し出し、それに意味を見つけようとせずにはいられない。
(中略)
彼(注;ダーウィンを指す)の後継者は、あらゆるものに進化
を見ようとする誘惑にかられてしまい、たとえば、宇宙の形状
の変化に、人間文明の発展「段階」に、そしてスカートの丈の
長さの流行にも進化を見た。ときにはそうしたアナロジーが途
方も無く実り豊かなこともあろうが、アナロジーは往々にして
度を越してしまいがちだし、またあまりに根拠薄弱で役に立た
ない。
<引用終わり>
人間の素晴らしさの本質は
その想像力とコミュニケーション能力にあると私は思う。
そしてその二つの能力の根底にあるものが
アナロジー:類比推理ではないかと思っている。
なのでドーキンス先生のこの論には
一方で頷きながら全面的には賛成しかねる想いでいたのだが
そのあたりもちゃんとフォローされていた。
<引用>
しかし別の見方をすれば、科学におけるもっとも偉大な進歩の
いくつかがもたらされたのは、頭のいい誰かが、すでに理解され
ている問題といまだに謎の解かれていない別の問題との間にアナ
ロジーが成立することを見抜いたおかげでもある。(中略)成功
した科学者と支離滅裂な偏執狂との分かれ目は、そのインスピレ
ーションの質にある。しかし、じつは両者の差はアナロジーに気
づく能力の差ではなくて、むしろ愚かなアナロジーを棄却し役に
立つものを追求する能力の差に等しいのではないかと、私は思っ
ている。
<引用終わり>
ここまで呼んで、学生時代にデータを睨みながら
あーでもないこーでもないと卒論研究に脳を絞っていた頃のことを思い出した。
なんとかひとつの方向性を出そうと
随分無理な理論展開をしては担当教官に呆れられていたことが懐かしい。
今では仕事柄、さまざまな文章に触れることになっている。
無味乾燥な文章もあれば、
個性的という言葉で片付けるには(いろんな意味で)勿体無いものもある。
書いた人間の苦労を偲びつつも
場合によってはばっさり斬り捨てることになる。
なんとなく躊躇われることも少なくないが
やはり必要なことなのだと少しばかり意を強く持つことが出来
僅かに気持ちが楽になった。
やはりアナロジーすることが出来るという能力は素晴らしいものだ。
無闇にそれを抑制することは無い。
だがそれも時と場合を考えるべきだ。
法螺は法螺として楽しめばいい。
ひょうたんから駒は、期待しても出てこないだろう。
間違っても妙なトンデモやニセ科学に足を捕られること無く
といってガチガチの固定的硬直的な思考にも陥らず
中道を往きたいものだ。
言葉でいうのは容易いが、折に触れ思い返してゆきたい言葉である。
リチャード・ドーキンスの「盲目の時計職人」に読みはまっている。
とても面白く、示唆に富む良書なのだが
その厚みはなかなか手強く、もう読み始めて1ヶ月になるのだが
まだ読了していない。
やっと今日第9章に差し掛かったのだが
まだあと3つの章、180頁あまりが残っている。
やれやれ、前途多難だ。
まあ、あまり気負わず、少しずつ読み進めているのだが
そんななかで、思わず納得してしまったフレーズがあったので
ここで少し紹介してみたい。
<引用>
人間の心はアナロジー思考にひたりきっている。われわれは、
ひじょうにかけはなれた過程になんとかしてわずかな類似点を
探し出し、それに意味を見つけようとせずにはいられない。
(中略)
彼(注;ダーウィンを指す)の後継者は、あらゆるものに進化
を見ようとする誘惑にかられてしまい、たとえば、宇宙の形状
の変化に、人間文明の発展「段階」に、そしてスカートの丈の
長さの流行にも進化を見た。ときにはそうしたアナロジーが途
方も無く実り豊かなこともあろうが、アナロジーは往々にして
度を越してしまいがちだし、またあまりに根拠薄弱で役に立た
ない。
<引用終わり>
人間の素晴らしさの本質は
その想像力とコミュニケーション能力にあると私は思う。
そしてその二つの能力の根底にあるものが
アナロジー:類比推理ではないかと思っている。
なのでドーキンス先生のこの論には
一方で頷きながら全面的には賛成しかねる想いでいたのだが
そのあたりもちゃんとフォローされていた。
<引用>
しかし別の見方をすれば、科学におけるもっとも偉大な進歩の
いくつかがもたらされたのは、頭のいい誰かが、すでに理解され
ている問題といまだに謎の解かれていない別の問題との間にアナ
ロジーが成立することを見抜いたおかげでもある。(中略)成功
した科学者と支離滅裂な偏執狂との分かれ目は、そのインスピレ
ーションの質にある。しかし、じつは両者の差はアナロジーに気
づく能力の差ではなくて、むしろ愚かなアナロジーを棄却し役に
立つものを追求する能力の差に等しいのではないかと、私は思っ
ている。
<引用終わり>
ここまで呼んで、学生時代にデータを睨みながら
あーでもないこーでもないと卒論研究に脳を絞っていた頃のことを思い出した。
なんとかひとつの方向性を出そうと
随分無理な理論展開をしては担当教官に呆れられていたことが懐かしい。
今では仕事柄、さまざまな文章に触れることになっている。
無味乾燥な文章もあれば、
個性的という言葉で片付けるには(いろんな意味で)勿体無いものもある。
書いた人間の苦労を偲びつつも
場合によってはばっさり斬り捨てることになる。
なんとなく躊躇われることも少なくないが
やはり必要なことなのだと少しばかり意を強く持つことが出来
僅かに気持ちが楽になった。
やはりアナロジーすることが出来るという能力は素晴らしいものだ。
無闇にそれを抑制することは無い。
だがそれも時と場合を考えるべきだ。
法螺は法螺として楽しめばいい。
ひょうたんから駒は、期待しても出てこないだろう。
間違っても妙なトンデモやニセ科学に足を捕られること無く
といってガチガチの固定的硬直的な思考にも陥らず
中道を往きたいものだ。
言葉でいうのは容易いが、折に触れ思い返してゆきたい言葉である。