今ではすっかり死語になってしまった言葉だが
「かわたれどき」という言葉がある。
夜の明けきらぬ、あるいは日が沈みきる前の薄暗い頃合いを指す言葉だ。
即ち、あたりが薄暗いので、誰かが其処にいることはわかるのだが
面差しがはっきりとは見えず、誰かまではよくわからない
「彼(か)は誰(たれ)」刻というわけだ。
古来、妖はこの「かわたれ」の頃に現(うつつ)に紛れ込むとされる
真に幻想と現実が交錯するような狭間の時だった
言葉とともにそのような風情も消えてゆこうとしているのかと思うと
一抹の寂しさを覚えてしまう…というのは、やれやれ、歳をとった証拠だろうか。
ちなみに、「彼は誰」を「かはたれそ」と読み、音韻変化して「かわたそ」と言う場合もあるらしい。
そして「かわたそ」がさらにひっくり返って「たそがれ」となったという。
即ち、「たそがれ」は「誰そ彼」であるわけだが
「たそがれ」という言葉が定着したことで
「かわたれ」を明け方の薄闇、「たそがれ」を夕方の薄闇と使い分けるようになったという。
いかにも自由度の高い日本語らしい、風情のある話だと思える。
ますます以って「かわたれ」という言葉を再び生きた言葉にしたいものだ。
そんなことをふと考えた今朝のひとときだった。
「かわたれどき」という言葉がある。
夜の明けきらぬ、あるいは日が沈みきる前の薄暗い頃合いを指す言葉だ。
即ち、あたりが薄暗いので、誰かが其処にいることはわかるのだが
面差しがはっきりとは見えず、誰かまではよくわからない
「彼(か)は誰(たれ)」刻というわけだ。
古来、妖はこの「かわたれ」の頃に現(うつつ)に紛れ込むとされる
真に幻想と現実が交錯するような狭間の時だった
言葉とともにそのような風情も消えてゆこうとしているのかと思うと
一抹の寂しさを覚えてしまう…というのは、やれやれ、歳をとった証拠だろうか。
ちなみに、「彼は誰」を「かはたれそ」と読み、音韻変化して「かわたそ」と言う場合もあるらしい。
そして「かわたそ」がさらにひっくり返って「たそがれ」となったという。
即ち、「たそがれ」は「誰そ彼」であるわけだが
「たそがれ」という言葉が定着したことで
「かわたれ」を明け方の薄闇、「たそがれ」を夕方の薄闇と使い分けるようになったという。
いかにも自由度の高い日本語らしい、風情のある話だと思える。
ますます以って「かわたれ」という言葉を再び生きた言葉にしたいものだ。
そんなことをふと考えた今朝のひとときだった。
お陰様で最近忙しく、久しぶりに、壱眞さんのブログを開いて更新されていたので、「おおっ!」という思いで大変嬉しいです。( ^ω^)
ネームは、壱眞さんのことですからすぐ解る?ことだと思いますが、これからもまたちょくちょく拝見させていただきたいと思います(^-^)/
改めて、再開おめでとうございますm(_ _)m
まあこんな調子でございますが、たまに覗いてってくださいませ
職場での小金瓜栽培の記録をブログにまとめてみようかと思い、作ってみました。
定植後から定期的に更新していこうと思っていますので、写真等で(張り方がわかりませんが…)気づいた点があれば、ご指導頂ければ非常に助かります。
長文すみませんが、ひとつよろしくお願い致します。