あべっちの思いをこめた雑記帳

自分の言葉

 川柳や短歌を詠む場合のコツを聞かれることがたまにある。どうしたら上手に詠めるのかとか。

 そんな時は困ったなあと思う。そんなことを聞かれても···と、いつも思う。私だって実をいうとよくわからないのが本音だから。わかればもっと上手に詠んでいるに違いないと自分でさえそう思う。

 上手に作ろうと思うからできないのかもしれない。最初は575で、何でもいいから作ってしまう。作品の出来、不出来はその後の問題だと思うほうがいいのかもしれない。上手にと思う気持ちが先に立つから、どうしても結果が気になってしまう。

 結果を考えることは決して悪いことではないけれど、結果はあくまでも結果なんだと思ってみる。まず結果を捨ててスタートするのも案外面白いものだと気付くかもしれない。
 川柳を作るに際しても、間違ったってかまいはしない。それぞれの分野には独自のルールというものが存在するから、最低限それは守っていかなければならないけれども、間違いや下手は恐れない。

 けれど、格好いい言葉の羅列は避けたいなと思う。これは短歌や俳句や詩にもまったく同じことがいえる。もちろん随筆や作文でも同様。
 とかく文芸というものに対し、上手にばっかり書こうと考えるあまり、どうしてもきれいな言葉だけを並べようとしてしまう。

 それから、説明をできるだけ省略したいなとも思っている。自分で言いたいことを全部言ってしまったら、文芸にはならない。これだけはどうしても入れておきたい。しかし、残りのこの部分は読む人の判断に任せよう。それが真の意味の文芸だと思う。つまり説明は極力おさえたほうがいいのだろう。作文とは違うのだから。

 昨夜は妹がこの短歌はどうかと10首くらいもってきた。よくわからない、ごちゃごちゃしたものばかりだったが、私なりに丁寧に感想をのべてみた。結果、最初のそれとだいぶ中身が変わってきた歌もできてしまったが、本人がどうしてもということなので、思わぬ方向へ行ってしまったことが今はそれでよかったのかなあとは思っている。

 妹には、一番大切なことは自分の考えを述べる。それには、手段として自分の言葉を使っていく。そして、使い古した言葉は極力捨て、いろんな表現の言葉を書き出してみる。短歌として文字を組み合わせるのはその次だと話した。

 自分の言葉というのは生きているのかもしれない。その人がその言葉を使うから、文章が生きてくるのだという気がする。少なくとも、気持ちはそうありたいと思っている。
 これは文芸に限らず、自分の言葉っていろんな面で大切なことのひとつなんだろうとも思う。

 正直な 子の作文で 恥じるママ
  (平成28年5月) 会津天宝醸造一汁一菜亭 「母の日川柳」


                  「つれづれ(84) 自分の言葉」

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