原文
訳 のつもり
群れの守護者からの強大な力 (聖なる石 マニトウ)
それは、空からやってきました。偉大なマニトウそれ自身の手から。平原にすむ先住の民への、贈り物であり、象徴であり、とても強力なまじないとなるものでした。
偉大な隕石が、いつ落ちたのか、誰もはっきりとは知りません。それでも、このアメリカという大陸に人間が現れはじめたのと同じころには違いありません。
神聖なマニトウ・ストーン、”Pi-wa-pisk-oo(ピワピスクウ)”クリー語で鉄鉱石といいます。この石は丘の斜面に落ち、歩哨のように立っていました。それは、その石を崇敬する人々と深く結びついた運命だったのです。
ビッグ・ベアのような長老たちが予言したように、石の神、マニトウ・ストーンの消失でその不吉な予言が実現することになるのです。‐戦争、飢饉、病気、先祖伝来の土地の喪失、偉大なバイソンの群れの危機的減少が、山火事のように平原に広がるだろう。文化がほとんど完全に崩壊するだろう。それは近代の再生と確認のための長く困難な苦闘の前兆であるだろう。‐
しかし、この偉大な鉄隕石は、どこから来たのでしょう。そして、その石はどのようにして、それを『神の顔』や、群れの守護者として崇拝したクリー族やブラックフット族の魂や心のなかの場所を占めて行ったのでしょうか?
少しのあいだ、忘れられた時代、何千年もの昔を想像してみてください。。。人々はお腹を空かせています。老人たちは祈っています。そのとき突然、巨大な火の玉が夜空を引き裂いたのです。力強いお告げや神聖な祈りにともなって、川を見渡す丘に、それは落ちてきたのです。
マニトウは神託を届けました。老女がある光景を見ました。老女の夢では、奇妙な角のある生き物が平原のいたるところで轟音を立てていました。その動物は、人々が祈ったすべてのもの、食べ物、住まい、燃料、そして母なる地球との永遠のつながりとなるものでした。
石が落ちた場所に向かって、人々は旅をしました。スウィートグラス(聖なる草)を燃やし、祈りやタバコそして供物をささげて進みました。たき火を囲んで語られる物語や伝説は、偉大なマニトウがマニトウの子供たちを見捨てることはなかったことを伝えます。
そして、鉄鉱石のゴツゴツした輪郭は、それ自身を表す印となり、後に、いくつかの聖なる骨ばった石に独特の模様が刻まれ、丘の頂上に置かれたその小さな記念の石たちは、強力な狩りのためのまじないとなり、狩人とバイソンそして偉大なマニトウの間の霊的な接続点となりました。
マニトウ・ストーンのような文化遺物について話すときには、神話と事実は同じ鳥の2つの翼、魂や気力を高まらせる翼だということを忘れてはなりません。
自然現象や超自然的天の恵みとして、マニトウ・ストーンは伝説やたき火時の伝承を通じて知られていました。語られてきた物語の中では、長老たちは次のように言っていると、初期の情報源は示しています。『洪水が引いた後、”Na-neboo-shoo(ナネブウショウ)”が、はじめてその場所に行った時からずっと、それは丘に立っていた。』
歴史的な時代(1866年)では、ペイント・クリーク・ポスト(Paint Creek Post)に住んでいたアレクサンダー・ヘンリー(Alexander Henry)が、その石をカナダで見られる、それまでで最も大きい単体の隕石として認めました。アレクサンダー・ヘンリーは、アイロン・クリーク(Iron Creek)の近く、バトル川(Battle River)の支流にそれがあったと説明しました。
別の初期の調査報告では、W.B.チードル(Cheadle)のガイドだったメティス(ヨーロッパ人と北米先住民との混血児)のバプティスト・スーパーナット(Baptiste Supernat)が、何年も前に丘の上で見つかった”鉄の一片”のことを話しました。伝説よると、その石は発見された当時から大きさも重さも成長を続けているというものでした。
石が落ちてきた場所と考えられる他の場所や丘では、マニトウ湖(Manitou Lake)やストロースタック・ヒル(Strawstack Hill)などがあります。
実は、最初の場所はどこかという謎は、アルバータかサスカチェワンのどちらの州が、地理上や政治上の所有権を実際に”主張する”ことができるかという厄介な問題も含んでいるのです。
1866年に、デイビッド・マクドゥーガル(David McDougall)が、父親のジョージ・マクドゥーガル牧師(the Rev. George McDougall)から熱心に勧められて、マニトウ・ストーンが最初にあった場所からこっそり持ち去りました。問題は、最初にあった場所の候補となる地・川・湖・丘が、州の境界線が設置される前の未観測地域のなかにあるためです。
そして、謎を作り上げているものに、2番目の鉄鉱石の問題もあります。それは、最初の石は、伝道者に持ち去さられるのを防ぐために、近くの湖に隠されたかもしれないということです。
しかしながら、不思議ではないのは、マニトウ・ストーンが最初の場所から持ち去られた理由です。
クリー族とブラックフット族を改宗させようとしていた伝道者たちは、この力強いお守りの存在が邪魔をして、”キリスト教の神の言葉の妨げとなっている”と気づいたのです。
平原の先住民が、このように非常に強い畏敬の念を抱いた物体がそのまじない石でした。その石だけが、文化全ての古来の伝統と霊的信仰を消し去ろうとするものの脅威と障害になれたのでした。
100年以上の間、失われていたマニトウ・ストーンが、ついに、先住民へと戻ってきました。現在は、アルバータ州立博物館の新・先住民族文化シンクルード・ギャラリー(the new Syncrude Gallery of Aboriginal Culture at the Provincial Museum of Alberta)で、”展示されて”います。
トロントのメソジスト・ビクトリア・カレッジ(Methodist Victoria College)から、西側へ”戻され”てから、大きな先住民諮問委員会の指導の下で、美術館の展示品という状態で保管されるというような戻され方をしているのです。
マニトウ・ストーンの存在を忘れていたり、全く知らなかった多くの先住民の人々が、今やその存在に気づくようになりました。その温かい金属面の内部から発する素晴らし力を感じるという人々もいます。
他の人々は、聖なる物の文化的流用を認識して、それ自身の自然状態や文化的環境からむしり取ったのです。
マニトウ・ストーンを取り囲む多くの謎のように、多くの問いがあります。
宇宙を何百万マイルも旅して、神からの贈り物として崇拝されるために平原の特定の丘に到着したというのは、時期と地質の全くの”偶然”だったのでしょうか?
美術館の展示品という状態で”保管”し、美術品として置いておくべきでしょうか?それとも、おそらく解釈上の場所や神聖な場所の中にある最初の場所に戻し、それを奪われた人々の手に戻すべきでしょうか?
そして最後に、その石は、感謝や供物をささげるための特別な場所だけでなく、先住民自身の決断や団結を現す新しい発現の結集地となるべきでしょうか?
訳 のつもり
群れの守護者からの強大な力 (聖なる石 マニトウ)
それは、空からやってきました。偉大なマニトウそれ自身の手から。平原にすむ先住の民への、贈り物であり、象徴であり、とても強力なまじないとなるものでした。
偉大な隕石が、いつ落ちたのか、誰もはっきりとは知りません。それでも、このアメリカという大陸に人間が現れはじめたのと同じころには違いありません。
神聖なマニトウ・ストーン、”Pi-wa-pisk-oo(ピワピスクウ)”クリー語で鉄鉱石といいます。この石は丘の斜面に落ち、歩哨のように立っていました。それは、その石を崇敬する人々と深く結びついた運命だったのです。
ビッグ・ベアのような長老たちが予言したように、石の神、マニトウ・ストーンの消失でその不吉な予言が実現することになるのです。‐戦争、飢饉、病気、先祖伝来の土地の喪失、偉大なバイソンの群れの危機的減少が、山火事のように平原に広がるだろう。文化がほとんど完全に崩壊するだろう。それは近代の再生と確認のための長く困難な苦闘の前兆であるだろう。‐
しかし、この偉大な鉄隕石は、どこから来たのでしょう。そして、その石はどのようにして、それを『神の顔』や、群れの守護者として崇拝したクリー族やブラックフット族の魂や心のなかの場所を占めて行ったのでしょうか?
少しのあいだ、忘れられた時代、何千年もの昔を想像してみてください。。。人々はお腹を空かせています。老人たちは祈っています。そのとき突然、巨大な火の玉が夜空を引き裂いたのです。力強いお告げや神聖な祈りにともなって、川を見渡す丘に、それは落ちてきたのです。
マニトウは神託を届けました。老女がある光景を見ました。老女の夢では、奇妙な角のある生き物が平原のいたるところで轟音を立てていました。その動物は、人々が祈ったすべてのもの、食べ物、住まい、燃料、そして母なる地球との永遠のつながりとなるものでした。
石が落ちた場所に向かって、人々は旅をしました。スウィートグラス(聖なる草)を燃やし、祈りやタバコそして供物をささげて進みました。たき火を囲んで語られる物語や伝説は、偉大なマニトウがマニトウの子供たちを見捨てることはなかったことを伝えます。
そして、鉄鉱石のゴツゴツした輪郭は、それ自身を表す印となり、後に、いくつかの聖なる骨ばった石に独特の模様が刻まれ、丘の頂上に置かれたその小さな記念の石たちは、強力な狩りのためのまじないとなり、狩人とバイソンそして偉大なマニトウの間の霊的な接続点となりました。
マニトウ・ストーンのような文化遺物について話すときには、神話と事実は同じ鳥の2つの翼、魂や気力を高まらせる翼だということを忘れてはなりません。
自然現象や超自然的天の恵みとして、マニトウ・ストーンは伝説やたき火時の伝承を通じて知られていました。語られてきた物語の中では、長老たちは次のように言っていると、初期の情報源は示しています。『洪水が引いた後、”Na-neboo-shoo(ナネブウショウ)”が、はじめてその場所に行った時からずっと、それは丘に立っていた。』
歴史的な時代(1866年)では、ペイント・クリーク・ポスト(Paint Creek Post)に住んでいたアレクサンダー・ヘンリー(Alexander Henry)が、その石をカナダで見られる、それまでで最も大きい単体の隕石として認めました。アレクサンダー・ヘンリーは、アイロン・クリーク(Iron Creek)の近く、バトル川(Battle River)の支流にそれがあったと説明しました。
別の初期の調査報告では、W.B.チードル(Cheadle)のガイドだったメティス(ヨーロッパ人と北米先住民との混血児)のバプティスト・スーパーナット(Baptiste Supernat)が、何年も前に丘の上で見つかった”鉄の一片”のことを話しました。伝説よると、その石は発見された当時から大きさも重さも成長を続けているというものでした。
石が落ちてきた場所と考えられる他の場所や丘では、マニトウ湖(Manitou Lake)やストロースタック・ヒル(Strawstack Hill)などがあります。
実は、最初の場所はどこかという謎は、アルバータかサスカチェワンのどちらの州が、地理上や政治上の所有権を実際に”主張する”ことができるかという厄介な問題も含んでいるのです。
1866年に、デイビッド・マクドゥーガル(David McDougall)が、父親のジョージ・マクドゥーガル牧師(the Rev. George McDougall)から熱心に勧められて、マニトウ・ストーンが最初にあった場所からこっそり持ち去りました。問題は、最初にあった場所の候補となる地・川・湖・丘が、州の境界線が設置される前の未観測地域のなかにあるためです。
そして、謎を作り上げているものに、2番目の鉄鉱石の問題もあります。それは、最初の石は、伝道者に持ち去さられるのを防ぐために、近くの湖に隠されたかもしれないということです。
しかしながら、不思議ではないのは、マニトウ・ストーンが最初の場所から持ち去られた理由です。
クリー族とブラックフット族を改宗させようとしていた伝道者たちは、この力強いお守りの存在が邪魔をして、”キリスト教の神の言葉の妨げとなっている”と気づいたのです。
平原の先住民が、このように非常に強い畏敬の念を抱いた物体がそのまじない石でした。その石だけが、文化全ての古来の伝統と霊的信仰を消し去ろうとするものの脅威と障害になれたのでした。
100年以上の間、失われていたマニトウ・ストーンが、ついに、先住民へと戻ってきました。現在は、アルバータ州立博物館の新・先住民族文化シンクルード・ギャラリー(the new Syncrude Gallery of Aboriginal Culture at the Provincial Museum of Alberta)で、”展示されて”います。
トロントのメソジスト・ビクトリア・カレッジ(Methodist Victoria College)から、西側へ”戻され”てから、大きな先住民諮問委員会の指導の下で、美術館の展示品という状態で保管されるというような戻され方をしているのです。
マニトウ・ストーンの存在を忘れていたり、全く知らなかった多くの先住民の人々が、今やその存在に気づくようになりました。その温かい金属面の内部から発する素晴らし力を感じるという人々もいます。
他の人々は、聖なる物の文化的流用を認識して、それ自身の自然状態や文化的環境からむしり取ったのです。
マニトウ・ストーンを取り囲む多くの謎のように、多くの問いがあります。
宇宙を何百万マイルも旅して、神からの贈り物として崇拝されるために平原の特定の丘に到着したというのは、時期と地質の全くの”偶然”だったのでしょうか?
美術館の展示品という状態で”保管”し、美術品として置いておくべきでしょうか?それとも、おそらく解釈上の場所や神聖な場所の中にある最初の場所に戻し、それを奪われた人々の手に戻すべきでしょうか?
そして最後に、その石は、感謝や供物をささげるための特別な場所だけでなく、先住民自身の決断や団結を現す新しい発現の結集地となるべきでしょうか?