イエスからマグダラのマリアへの手紙・私は本当にかつてマグダラのマリアだったのか?

119.愛は深く高く低く、どこにでも流れていきます

 

 

今日もお出でいただき、ありがとうございます。

父からのメッセージは愛について、がとても多いのです。
書き始めて、正直、また~?と思ったりも致します。
愚かにも、まだ愛についての説明が必要なのかしら?とも思ったりもします。
最後の段になり、ああ、こういうことだったのか、と合点がいき、なんとなく
分かった気になれます。

が、実行出来るか、となると、また別問題ではあります。
それでも、少しずつ、牛歩のように歩んでいきたいと思っております。

これをお読みいただく、あなた様はどうお思いになられるのでしょか?

願わくは、今回もじっくり、ごゆっくり、何回もお読みいただけますと幸いです。
ありがとうございます。

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さあ、今日も愛のメッセージをお届けしましょう。
愛は深く高く低く、どこにでも流れていきます。
愛の美しさは、どこにでも届きます。
さあ、あなたもその愛のエネルギーを存分に受け取り、存分に流してごらんになってください。

さて、今日の話題は愛の美しさとたくましさについてです。
愛の美しさはともかくも、「たくましさ、強さ」については「エ~ツ?!」とまた疑問にもたれるかもしれませんね。
愛は美しいと言うことに関しては、皆様もうよくご存知のようですし、同感していただけるところでしょうし、たくましさと表現すると違和感を生じるとしたら、強さと言えば納得されることでしょう。
そうです。
愛を持つものはすべて美しくなり、たくましくなるのです。
愛そのものが美しく、たくましいからです。

愛はすべて、愛は生命の源のエネルギーですから、言ってみれば、すべての特質を備えたものであります。
すべての側面が備えられて、あなたが見たいように、感じたいように、あるいは、あなたが望むような形でエネルギーが与えられるのです。
もしあなたが、私には美しさが望ましい・・・私は愛を美しさとして受け取りたいと思えば、美しいものとしてあなたに与えられますし、私にはたくましさとして愛を表現したいと思えばそれもかなえられます。
何だそれ・・・?と、お思いでしょうか。
もう、今回の話題はおもしろくないから、この辺でやめたいとお思いでしょうか。
ちょっとお待ちください。

あなたは単に私のメッセージをお受け取りになり、それをそのまま写されるようお願い致します。
少なくとも、もう少し続けていただけるようお願い致します。

さて、それでは愛は何故美しくもたくましくも変化できるのかについて、ご説明しましょう。
愛は美しきものというのは、人間の概念の中に既にあるのは、私もよく知っております。
愛が伝えられる表現される時、誰もが感動を覚えます。
例えば、映画やドラマ、音楽、芸術にしてもそうです。
何の媒体を通してでも愛が伝えられ、表現される時、私達の元には愛の波動が届き、私達のエネルギー体に共鳴を呼び起こし、そのために私達の大元の組成である光である部分に愛を広げるために、美しいと感じ、歓びや感動を呼び覚ますのです。

私達の大元、根源は愛であり、光であるからです。
私達は身体といういわば衣服のようなものを何枚も身に着けており、それを一枚一枚脱ぎ去っていくと、その中に美しい愛という光が中心に輝いています。
私達は衣服でなく中心の光なのです。
その光が美しいのです。
愛は美しいのです。
その美しいところには常に美しきもの、真なるもの、神なるものが宿っており、それは万人に共通のもので、誰一人例外はありません。

あの極悪人はどうなの?
そうです。
あの極悪人も本来は愛のかたまりです。

あの聖人のように振舞う人はどうでしょう。
そうです。
あの人の中にもその極悪人と寸分変らぬものしかありません。

どなたも中味は同じようなものなのです。
あなたはそこを見なくてはなりません。
衣服を見て価値判断をしてはいけないのです。

その下にある美しきものに目をやるべきなのです。
美しきものを見るとき、あなたも美しくなります。
そうしないではおかないのが、自然の理、神の理なのです。

言い換えれば、あなたが美しいとしたら、あなたは他者の中に美しきものを見ているからに他なりません。
美しくありたいと望むなら、「美容」より「心」なのですね(笑)

それでは次のもう半分・・・たくましさ、強さについてはどういうことなのでしょうか。
私は何だか、いつも細かいことを説明しているようにお感じになっているかもしれませんが、愛の何たるかを知る際に、こうした多面からの特徴を占めることで、より分かる部分があるのです。

皆様が理解されている愛の側面は、ごく限られたもので、地上で開示されているものは前にも申しましたように、空間、時間軸、物質性、二元性などの制限の中で示されることで、受け取る形や、見かけの形がごくごく制限されたものになってくるのは、仕方のないことではありますが、この制限を越えたものが実在し、そこへと一歩でも近寄ることで、あなたはこの地上の限られた世界から脱出することができるのです。

この制限された世界の向こうにあなたの実在があるのを知る時、この世界の小ささ、狭さに苦しんだり、コントロールされる度合いが低くなります。
そのためにも、私はここにあるのです。

さて、それでは愛がたくましいとはどういうことか、を申し上げましょう。

「私の彼はたくましい・・・」と言う意味ではありません。
彼のことを確かに“ラブ”と称することがあるように理解していますが、勿論そういうことではありません。
愛は強い・・・と申せば「ウン・・・なるほど、それはよく言われることだ・・・と合点がいかれるでしょう。
しかし、「たくましい」という表現を私が使うには、他にも訳があります。
あなたが「たくましい」という言葉から連想されるのは、しっかりした身体の男性かもしれません。
たくましいと言ったら、魂よりもその衣服のような身体を表現する言葉かもしれません。

しかし、私はまた、ここで敢えて申しましょう。
愛はたくましい・・・と。

愛にも衣服のようなものがあります。
愛の見かけの様相があります。
愛を持つものが、愛を持たないものと比べた時、そこから発するものが当然異なることはお分かりでしょう。

石のように硬く、何も心に響いてこないものと、目を置くだけで微笑をうかべ、心に暖かいもの、歓びが自ら生じてくるものの違いです。
その中には、たくましさと称しても良い程の伝播力、強さがあります。
どこにでも、誰にでも微笑みを浮かばせずにはおられない力、心に暖かいもの、歓びを感じさせずにはおかない力強さがあるのです。

どこへも進む力、どこへも入り込み、変化させる力があり、あなたはそれに抵抗することはできません。

この何事をも貫き通す愛の力はとてもたくましいのです。

どんなに頑なにドアを閉じた心であろうと、どんなに強い鍵を心につけようと、愛はそのたくましさによって、ドアを開けてしまします。
その愛のたくましさこそ、何よりも、何事よりも、強く、力のあるものだということを言いたかったのです。

心を閉ざした子供たち・・・その子供たちの心を開けるのは愛だけです。
やさしさとたくましさ・・・そして美しさを備えた愛によって必ず心のドアは開くでしょう。

心などひとかけらもないような極悪人・・・その人達は心を失っています。
心が何処かに押しやられて、心が機能していない状態です。
光を照らし、心を探し出し、心をもう一度働かせる得るのも、この愛によってです。
やさしさとすぐにはめげないたくましさがあってこそ、永い間、機能していないこころを探し出し、動き出させる力になるのです。

これはほんの一例にしかすぎません。
愛とは、すべてを可能にせしめるものなのです。

それでは今日の愛についてのメッセージはこのくらいにしておきましょう。

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